122.黇の追想⑦一己と向き合う
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「愛し子よ」
白死神が秀峰の両頬を手の平で挟み込んだ。
「我らは相手の精神を見透す。愛する者の魂がこのような状況にあって喜ぶことなどできようか」
(魂? ――そういえば……)
「……魂が傷付いている、とは言われました」
おずおずと告げると、白死神はしなやかな手をそっと秀峰の胸に当てる。心臓が光り輝き、美しい黇色の珠が現れてふわふわと浮遊した。
「これはそなたの心を具象化したものだ」
両手の平に乗るくらいの、少し大きめの珠だ。とても幻想的な煌めきを放っているが、よく見れば表面がところどころひび割れている。亀裂からはきらきらと光る粉が涙のように舞い落ちていた。
(本当だ。傷がある)
心がぼろぼろになっている。今まで幾人にも言われてきた言葉が胸に突き刺さる。
「傷とはこのひびのことでしょうか」
(割れなかっただけ良かった……と思っていいのだろうか)
だが、白死神にかけられたのは予想外の言葉だった。
「黇の愛し子。そなた、己の傷は表面に見えるものだけだと思うておるのか?」
咄嗟に意味が理解できず、秀峰は口を噤んだ。
どういうことだろうと考え、くるりと珠をひっくり返し、反対側や別の場所を確認してみるが、特段酷い傷や大きなひび割れはない。
「ああ、自覚がないのだな。うむ、やはり天に還し、我が腕の中で癒すのが最善――」
見ていられないとばかりに眉を下げた白死神が決判を下そうとした時、ルーディが口を挟んだ。
「自認すれば耐えられなくなるゆえ、気づかぬ振りをするしかなかったのでございましょう。ですが、力に覚醒し、かつ己の気持ちを表に出せかけている今ならば、もう向き合える」
秀峰の前に歩み寄り、右手の人差し指で珠を軽く弾くと、珠がすうっと透き通り内部が視認できるようになった。
「よく見てごらん。自分の心がどれだけ傷付いてきたか。今どんな状態になっているのかを」
(え……)
秀峰は息を止める。
珠の中は廃墟のような惨状だった。内壁はすっかり剥がれ落ち、柔らかな中身はずたぼろに引き裂かれ、割れるどころかすり潰されて粉微塵になっている。
外壁がぎっちりと硬化しているため、何とか見かけは綺麗な球体を保っているが、それでも幾つかの崩壊は外にまで及んでひび割れとなっている。表面の亀裂からこぼれ落ちていた光の粉は、破砕された中身が溢れ出ていたのだ。
(な……なん……これは)
ひくりと喉が鳴った。二の句が継げぬまま己の心を凝視していると、ルーディがすらりとした指でとんとんと玉の内部を示す。残骸の欠片すら残さず、細かな塵と化した魂の実情を。
「一時的あるいは短期に大きな負荷がかかって破損した場合、こういう壊れ方はしない。これはもっと長期的に痛めつけられた傷だよ。じっくり時間をかけて、じわじわとすり下ろされている。本当は自分でも分かっているよね」
「……」
秀峰の全身から血の気が引いて行った。
物心つく前からずっとずっと、周囲の期待と重荷、圧力を背負い続けて来た。剥き出しの心をゆっくりと削り落とされていくかのような酷烈な環境。
だが、それを辛いと思ってはいけないと自分に言い聞かせて来た。
「俺の宝をここまで痛め付け、破壊し、粉々にするような世界など許さない」
煌々とした明るさを放つ皓い気が、底知れぬ詰りを帯びてちりちりと燃えている。レイティと同じ湖の色をしているはずの眼が、仄暗い赤に染まった。
「俺は皇帝として、こんなどうしようもない世界を後生大事に護って来たのか」
「あ……わた、私は」
荒ぶる至高神が悲憤にかられている。これはいけないと、秀峰は反射的に口を開いた。いつもの思考、いつもの呪文を舌に乗せる。
「辛くない、悲しくない、苦しくない、痛くない。私は幸福なのです。何の役にも立たぬ分際で暮らしの全てを保障され、優しい家族と理解者に恵まれてきた、過分な幸せ者です。その天恵に感謝し、世の中には私などよりよほど辛い者がいることを心得ながら日々を――」
ふつりと言葉が途切れた。
(あれ?)
今まで一度も考えたことがなかった――いや、考えようとするたびに押し込めていた疑問が、転がるように零れ出る。
(何故、ここまで心が粉々になっているのに幸せということになるんだろう)
よほど特殊な思考回路か被虐趣味の持ち主でもない限り、魂が砕かれる状況にあることは不幸なのではないだろうか。
(何故、より辛い思いをしている者がいるからといって、自分の辛さを無いものにしなければならないのだろう)
足を骨折した者と擦りむいた者では前者の方が痛みは大きいが、だからといって後者の痛みがなくなるわけではない。程度の差があろうが他者と比べてどうだろうが、痛いものは痛い。
(何故、魂が崩れる状況にまで追い込まれておきながら、感謝しなければならないんだろう)
心がこれほどに破砕されている状態の、どこが恵まれているというのだろうか。ルーディが水色に戻った双眸を向けた。
「苦しくないなら、心はこんな風に壊れてはいないはずだよ」
優しく紡がれた声が、深い傷口を洗う清水のように沁み込んでいく。
「苦しかったから壊れた。そうだよね」
「……ぁ……」
くらりと目眩がした。ぞくぞくと寒気がする。自分を護るため、今まで必死に築き上げてきた前提が崩れていくような感覚。
「わ、わたし、は」
そろりと自分の心に目を向ける。表面を張り詰めに張り詰めて、固く固く硬化させ……本当はとうに砕けた中身を抱え込み、辛うじて形を維持している。ひび割れた隙間から零れ落ちる本音は、痛い痛いと泣いている。
「――つ、つらか……た」
一度言葉に出し、声として放つと、もう駄目だった。満杯に水を溜め込んだ風船が弾け、中身が溢れ出るように、怒涛の心が荒れ狂う。
「辛かった。悲しかった。苦しかった。痛かった。たくさんの、すごくたくさんの人が私を嘲笑うから。どれだけ頑張っても馬鹿にされるだけだったから」
庇い、護り、理解し、愛してくれる家族たちはいた。だが、それより遥かに多くの人々が、数の暴威をもって失望の眼差しを向け、悪罵を放ち、こちらの存在を否定し、精神を踏みつぶして来た。
それに砕かれずに自分を護り、保つためには、衣食住が保障され家族がいる分だけましだと己に刷り込ませるしかなかった。
そうしなければ耐えられなかった。必死で防衛しなければ魂が殺されてしまっていた。
「しんどくて苦痛でたまらなかった」
足元がふらつくが、倒れることはなかった。いつの間にか周囲を取り巻いていた祖神たちの光が、よろめいた体を支えてくれている。
「私は」
固く硬直していた魂の表皮が剥がれていく。自分を閉じ込め、締め付け、けれど確かに護ってくれていた殻が無くなっていく。
「ずっとずっと辛かった……! つらかった」
大粒の涙が盛り上がり、次々に流れゆく中で、ようやく自身の心が血潮を噴いていることを自覚した。
「いたい、いたいよぉ」
白死神とルーディがそっと寄り添い、労わるように愛撫してくれる。球の亀裂が一気に広がり、ぼろぼろと砕けた。
「嫌いだ。あんな世界なんか嫌いだ。勝手に期待して理想を押し付けて、思い通りにならなかったら勝手に失望して……義務と権利、忍耐と自由、道理と理不尽を自分たちの都合のいいように使い分けてしたり顔で主張する。あんな奴ら、本当は大嫌いだ!」
剥き出しになった魂の中身がざぁっと零れ落ちる。だが、そのまま宙に舞い散って消えてしまうことはなかった。ルーディが素早く両手を差し出すと、引き寄せられるようにその掌中に集められていったからだ。
(護って下さる)
砕けた心がばらばらに飛び散って、秀峰が抜け殻になってしまわぬように。瞬間、難解な問題の解答を見つけたかのごとき閃きが胸中を駆け抜けた。
(ああ、そうか。分かった)
白珠もレイティもルーディも、きっと家族たち全員が秀峰の状態を把握していた。その上で、全員が言っていた。
祖神の意を正しく汲め、自分の心を曝け出し正面から向き合えと。
そうでなければ、始祖神の意思は動かせないことを分かっていた。
「……皆様が哀しそうなお顔をなさっていたのは……私が自分を殺して、辛い中でも幸せだと思い込んでいたからなのですね」
「是」
白死神が苦みを含んだ眼でこちらを見遣る。祖神たちも正解だと言わんばかりに瞬いた。
「今まで地上から還って来た愛し子たちから話を聞く限り、皆かような傾向がある。己が傷付くことは当然であるとし、その状況を疎んではおらぬのだ」
(確かにそうだ……)
重症を負いながらなお微笑みを絶やさずにいた高嶺の姿が蘇る。高嶺だけではない。白珠もラウたちも、全員そうだった。
「我ら原初の者は、それが辛うて辛うて堪らぬのだ。今すぐに懐に引き戻したくなる。だが、それでも通常の愛し子たちは、痛いものは痛いと自覚しておった。己が傷や怪我を負うことが当然の義務であろうと誇りであろうと、苦痛を感じることは確かだと。それを認識した上で割り切っておるのだ」
だからまだこちらも耐えられたのだと、白き始祖は告げた。そして、秀峰を見て首を横に振る。
「黇の愛し子。しかし、そなたは違う。自分は痛うない、苦しんでなどおらぬと、そこから否定してしまっておったのう。それは良くない。他の愛し子たちの状態も良いとは言えぬが、それとは比較にならぬ程良くない、極めて危険な状態だ」
紡ぎ出される声は穏やかで、諭すように柔らかい。しかし、その眼差しは切羽詰まったような真剣さを帯びていた。
ルーディが静かに言葉を継ぎ足す。
「君は今までのままであっても、立派な真皇族になれるだろう。けれど、それでは魂の内面は崩れたままだ。いずれ、表面まで侵食したひび割れから、心の中身が全て零れ出てしまう」
そうなれば、残るのは空洞の器だけ。自身でも気付かぬ間に、生きながら死んでいくのだ。
「そうなれば君は、見かけだけは整った空っぽの魂を抱えて、生ける屍の状態で完璧な皇帝を演じ続けることになる。――大事な末裔がそんな未来に突き進むことを、祖神が許すと思うかい」
絶対に許さない。
言葉にせずとも、その意がひしひしと伝わってくる。
白死神が秀峰の背を撫でた。
「そのようなことになるくらいなら、何としても強制送還させる。これを機に、全ての愛し子をな。他の愛し子たちも好ましい状態であるとは言えぬのだから。地上などどうでもいい」
「そっ……」
秀峰は未だ涙が残る顔を上げて白死神を見上げた。もう、魂に硬く張り巡らせていた壁はない。剥き出しになった心のままに言う。
「そうしたら泣きます! たくさん泣きます。私は今まで、本当はずっと辛かった。苦しかった。世界なんか大嫌いです。……けれど、それ以上に大好きでもあるのです。世界が滅びてしまう方が、さらに辛くて苦しい。どうしても人間を護りたい!」
あの、汚くて卑怯で反吐が出そうな人界を――それでも、それ以上に美しく綺麗で愛しいと思う。
「ですから、強制送還されたらそれはもう悲しみます。再起不能になるくらい血を流します。いつまでものたうち回って泣き続けます。生ける屍どころか完全に死に体になります!」
真っ直ぐに始祖神を見据えて宣言した途端、一貫して微動だにしなかった白き神の笑みが、初めて揺らいだ。
「な、何と……それは困るのう」
困った困ったと呟きながら、思案するように視線を巡らせる。
「そこまで悲しむと?」
「はい!」
力強く頷いた秀峰は、解放された心のままに口を動かした。
「それに、それに――白死神様、何故ですか。傷付いて傷付いてもう立てないくらいにぼろぼろの私が、何故、この上さらに祖神様方の怒りの裏を読み取り勘案し配慮して説得までしなければならないのですか。私はこんなに辛いのに、何故っっ!」
(……あ……)
迸る感情に忠実に叫び、すぐに蒼白になる。口を押えるが、吐き出した言葉は取り消せない。
(しまっ……何ということを)
今、自分はとんでもないことを言ってしまった。
神に寄り添う皇族として有り得ない内容だ。そもそも祖神を説得すると言い出したのは自分自身であり、皇帝の命令でもある。何故も何もない。
もう終わりだ。後悔に震えながら白死神に目を向けると、意外にも白き神に怒りは見られなかった。
「……ああ、本当だ。確かにそうだのう」
それどころか、納得するようにうんうんと首肯している。
「成る程、ただ今の言はもっともである。今この場に関しては、我らの方が傷付いた愛し子に配慮し譲歩するべきなのやもしれぬ」
(お、怒って、おられない?)
思いもよらぬ反応に呆然としていると、ルーディの言葉が蘇った。
――心からの決意を翻せるのは、同じく心からの叫びだけだ。
今の自分の絶叫は、もしやそれに該当するということなのだろうか。通常であれば不敬として取り返しが付かないことになるが、天威師をこよなく愛する祖神が相手であるという条件を満たしていたがゆえに、奇跡的に良い方に作用したのだ。
白死神はうむむと考え込み、ふわふわと側に寄って来た他の原初神――金銀黒、そしてもう一つの白光と共に少し離れた位置に移り、ぼそぼそと何やら相談を始めた。
ありがとうございました。




