118.黇の追想③一この芯だけは譲れない
ご覧いただきありがとうございます。
本日と明日は4話分投稿し、最終章の前編が終わるかなと思います。
※本話には暴力表現が含まれます。苦手な方はご注意下さい。
ノルギアス大公テイヤーは、くすんだ金髪に腐海のような碧眼を持つ大柄な男だった。望んだ獲物が手に入った彼は喜びに喜び、秀峰を監禁すると、その嗜虐趣味をいかんなく発揮して責め上げた。
秀峰の性別が男であったために性欲に走ることはなかったが、四色の光を放つ花型の神器を用いて凄惨な暴行を加え、並行して帝家から貸し出された扇の神器を持ち出して支配の力を宿し、命令で縛り付けた。
花を模した神器は、おそらく淡色のあわいだ。娘のメイリーアンを言いくるめて借り受けたのだろうか。
窮状に置かれたことで天蜜の消費が激しくなった秀峰が渇きに苦しむ姿を見て、テイヤーは満悦の様相を浮かべていた。
また、父親の記憶を視て参考にしたらしく、監禁場所では時間が早く流れるようにしてあったため、一日中暴行を受けても、外では僅かな時間しか経っていなかった。
「お前を捕らえたことを伝えれば橙日帝は何と言うだろうか。そうだ、お前の身代金をいくら出すか聞いてやろう」
手足の指を残らず折られ、四肢の骨を砕かれ、内臓を潰され、血だらけで転がる秀峰にそう言い放って念話を行ったテイヤーは、すぐに下卑た嗤いを迸らせた。踏み抜かんばかりの勢いで秀峰の胸を蹴り付ける。
「おいおい、お前の父はお前を見捨てたぞ。念話してみたが、もはやお前には愛想が尽きたと言われた。金など小銅貨一枚も払わんそうだ。捨てられたな――助けは来ないぞ」
その言葉が、秀峰の心を深く抉った。外からも中からも、胸が酷く傷付けられる。
(父上――父上)
心当たりはあった。北の宮を飛び出す直前、白珠の作った料理を滅茶苦茶にし、伸ばしてくれた手を振り払い、暴言を吐いた。
白珠はヴェルの対であり天命の伴侶であり宝玉だ。帝家の者は、己の対や天命の伴侶、宝玉を無下にされれば烈火の如く怒り狂い、その不埒者を決して許さない。
(私は……父上に嫌われてしまった)
どすっと脇腹を蹴られ、口から血が溢れ出た。
常に大らかで、大きな懐に入れて自分を護ってくれていた父が大好きだった。どんな時でも、父は優しかった。注意をしたり諭す時も、そこには必ず大きな愛があった。だが、無償の愛は無限ではない。
自分は父の怒りの尾を踏んでしまったのだ。誰もが羨むような幸福を、恵まれた環境を、降り注いでいた愛を、持っていた大切なものを、自分自身でどぶに捨ててしまった。
(失ったものは戻らない)
左目の上に靴底の先端が乗せられ、全体重をかけてつま先で抉るように押し潰される。
「ぎゃぁああぁぁぁ!」
眼球が破裂し、鮮血と吐瀉物と共に絶叫がせり上がった。花の神器が発動し、ぼやけた虹色が煌めく。激痛が体中を貫き、絶望と諦観が心を支配する。精神の僅かな断片まで悉くすり潰されるような辛苦の中、哄笑が聞こえる。
(いや――いやだ)
頭を抱え、体を丸めて呻くように声を上げる。誰か助けてと叫んでも、いつも駆け付けてくれた家族はもう来ない。そして、唐突に気づく。
(今の私は……大怪我をしている時の高嶺と同じだ)
四肢が折られ、骨と臓物が砕かれ、目玉が潰され頭が割られ――これはまるで、怒れる神と相対した高嶺たちが負っている怪我そのものだ。
高嶺たちは皆、いつもこのような思いをしながら耐えていた。秀峰を心配させないように笑っていたのだ。
そんなことも分からず、強大な力を持つ彼らを羨ましいと妬み、多くを持っている癖に無い物ねだりをして指を咥えて見ていた自分は、どれほど浅ましく愚かであったのか。
(ごめんなさい)
鉄棒で殴りつけられた額が割れ、ぬるりとした血が床を汚している。
(ごめんなさい)
幼い頃からずっと我慢して、無理をして、溜め込んで、ついに爆発して――そうして自分の手で壊してしまったものは、もう元には戻らないのだ。
こんなことなら、もっと早く弱音を吐き、休憩しておけばよかった。自分を追い込んで無理を重ねなければよかった。自分を大切にし、心配し、気遣ってくれる者たちの声に、真摯に向き合って応えていればよかった。
後悔しても後悔しても、まだ足りない。
(ごめ、なさ……母上、父上、皆……ごめんなさい、ごめんなさい……ゆるしてください。しゅほがばかだったんです)
扇の神器が同時に光を放ち、秀峰の全身が高温の黒炎と凍るような冷気に包まれる。
「無能の丸焼きだな。焼け死なぬように冷気も付けてやったぞ、優しいだろう」
笑いながらそう揶揄する声。
「あつい……いた、いたい……いだいぃ……やめて、やめでください」
最高位の神器から生み出された炎と氷に、同時に体を灼かれる。
熱い。だが冷たい。
「やめでくだざいおねがいじます」
痛い。苦しい。天蜜が足りない。
気が狂いそうなほどに辛い。
辛い、辛い、辛い、辛い、辛い辛い辛い辛いつらいつらいつラいツラいツライツライツライ……。
「もうやめでぐだざおねがぃやめてやめでやめで……」
いっそ死んだ方がましだと考えた時、ぱきんと音がした。部屋の中からではない。自分の中からだ。骨が折れる音ではない。身の内にある何かが出てこようとしている。
その瞬間、誰も入って来られないはずの監禁場所に突風が吹き荒れた。
ただの風ではない。全身の毛穴が開くような、凄まじい気を宿している。
(神威――?)
テイヤーも驚愕の表情で手を止めた。
「馬鹿な、何故神がここに降りてくるのだ?」
ぐるぐると回りながら濃度を増していく神威の旋風は、やがて凝縮し、細い竜巻のようになって部屋の中央で渦を巻いた。螺旋が解け、中から異形の神が顕れる。
肩に乗るくらいの小さな神だ。
浅黒い緑の肌。丸い顔に爛々と光る一つ目。ずらりと牙が並んだ口。つるりとした頭に生える、鋭利な一本の角。異様なほど膨らんだ腹。上半身は裸で、腰から下には布を巻いていた。
テイヤーが目を剥いて叫ぶ。
「……一つ目、緑の肌、一本角……疫神か!?」
邪神や魔神、凶神などを筆頭とする悪神の一種、疫神。病と不浄を司り、災厄を運ぶと言われる。
『穢れた魂。真っ黒。良い匂い』
ひくひくと鼻を鳴らしながら、疫神はテイヤーに近づき、匂いを嗅いだ。
『生きながらにして魂が悪霊化する。何という逸材。美味そう』
その言葉の意味を理解したテイヤーが真っ青になる。黒く濁り切った魂は悪霊化し、悪神に目を付けられて餌食となる。喰われた者は、悪神の腹に通じている神罰牢に堕とされる。
「ひいぃ! そんな……何故悪神が私の所に!」
そこで、疫神がひょこっと首を傾げた。一つ切りの目がテイヤーを見つめ、きゅるんと一回転する。
『ん? お前、中に何を飼っている? ああ、父親の残り滓。なるほど。その穢れ具合、そういうこと。こちらも美味しそう。汚れたどぶ色』
「わ、訳の分からんことを言うな! く、くるなぁ!」
テイヤーが淡色のあわいと神扇を振り回す。一閃した扇が疫神の腹を切り裂いた。ぼこりと不吉に波打った腹はぱっくりと割れ、中から正視に耐えないような醜悪な粘液がどろりと床に溢れ出た。この粘液こそが、神罰牢の責め苦の具現だ。
「ぎゃああああぁぁぁぁぁ!」
粘液が僅かに降り掛かったテイヤーと秀峰が、同時に叫ぶ。神罰牢で受ける苦しみのほんの一端が襲いかかってきたのだ。ただ人の精神で耐えられるはずがないが、発狂できないようになっているため、強制的に正気を保たされる。
『あーあ。あーあ。溢れた』
腹を修復した疫神が、音の外れたけたたましい声で笑う。
『溢れた分、世界に広がる。地上の生物、天威師様以外は全員神罰牢に堕ちる』
気を失うことすら許されぬ苦しみの中で、秀峰はその宣告を聞いた。
「何だと!? ふ、ふざけるなよ!」
僅かにかかった粘液を必死に振り払ったテイヤーが、死に物狂いで絶叫する。
『方法、一つある。蓋をすればこれ以上広がらない。お前が犠牲になってこの上に乗ればいい』
目玉をくるんと動かし、疫神は面白がるようにテイヤーを見た。
瞬間、秀峰の中で凄まじい葛藤が起こった。ほんの少しかかっただけの粘液でこの苦痛なのだ。全身を盾にして浸らせれば、それこそ神罰牢に入ったと同じくらいの苦痛を味わうことになるだろう。
嫌だった。そんなことは絶対に嫌だった。何が何でも嫌だった。
――だが、それを踏まえても、皇家の者として取るべき行動、覚悟すべきことはただ一つだった。
「私を乗せろっ!」
「お前が乗れえぇぇ!」
秀峰とテイヤーの声が一つになる。些かの迷いもなく、テイヤーが秀峰を粘液の上に放り投げた。
「神罰牢など死んでも入らんぞ! 私に一体何の非があるというのだ!」
「――――!!!」
粘液の真上に落ちた秀峰の喉から、獣の咆哮すらも及ばぬ程の悲鳴が喉を裂いて迸る。神の地獄による責め苦が体中を巡り、あらゆる体液と血潮、汚物が噴き出して室内に撒き散らされた。
「そうだ、そのままずっと押さえておけよ!」
上ずった声で怒鳴ったテイヤーが、そのまま脱兎のごとく部屋を出ていった。けたけたと疫神が嗤う。
『あーあ。逃げた。逃げた』
そして、ひょこひょこと秀峰の側に近付いた。
『巻き込まれた人間。可愛そう。慈悲をやる。お前と今逃げた餌、場所を交代してやってもいい。どうする?』
今すぐ交代してくれ――その言葉が喉をせり上がり、唇を割って放たれかけた。だが、すんでのところで止まる。
(あいつと、場所を代えても……あいつはすぐに退く)
秀峰でさえ、四肢が折れて動けない体を鞭打ってでも粘液の上から逃げようとする衝動を抑えているのだ。テイヤーであれば即座に退いてしまうだろう。そうなれば粘液は世界に広がる。
(だめだ。それはだめだ)
ぱきぱきと、自分の中から聞こえる何かの音が少しずつ大きくなっている。
「……えない。がえないっ!」
涙と涎と鼻水を流しながら、秀峰は振り絞るように言った。疫神がぱちぱちと目を瞬く。
『……いい? もう聞かない。これが最後。交代しなくていい?』
「――ごうたい、じないっ!」
言い切った瞬間、途方も無い悔恨に襲われた。
自分は、これからずっと絶え間なく後悔して後悔して、後悔し続ける。もう一度選択をやり直したいと、壮絶な辛苦の中でただそれだけを思い続ける。
――けれど、それでも。
もしも本当に再び機会を与えられたとしたら、きっと今と同じ答えを選ぶだろう。
(世界を護る。民を護る)
そうしてまた、そうと決めた後で苦しみの余り後悔する。だが、その後三度のやり直しが許されたならば、身体中のあらゆる体液と吐瀉物と汚物で汚れた姿で、やはり変わらぬ道へ進む。何度選択の時を繰り返しても、きっとその繰り返しだ。
どれだけ揺れても、迷っても、悩んでも、最後に弾き出す答えは変わらない。
(私は皇家に生まれた者の務めを果たす)
己というものを根本から叩き折られ、踏み荒らされ、完膚無きまでに打ち砕かれても。
それでも決して譲ることのできないものがあった。
自身が今まで生きてきた中で感じ、学び、育み、選び掴み取ってきたもの全て。
自分という存在の、最も根底にして土台を形作るもの。
何と引き換えにしようとも揺らぐことのない芯。
(私は、私は皇家の者だ。例え出来損ないであろうとも)
自身を自身たらしめるその根本だけは、何があろうと侵させるわけにはいかない。
決して、決して侵させない。
(だから、交代しない)
……だが、願わくば。もしも最後に一つだけ望みが叶うのならば。
(ああでも、会いたい。家族に会いたい。ただ一目だけでいいから。そして謝りたい。ごめんなさいの一言だけでいいから)
今更遅いと切り捨てられたとしても、謝りたかった。ぱきぱきという音が、少しずつ大きくなっていく。その様子を見ていた疫神が、期待が外れたように肩を落とした。
『お前、魂綺麗すぎる。つまらない』
だが、そこで不意に言葉を途切れさせた。
『……あれ?』
一つ目を見開き、ぐっと顔を近づけて秀峰を凝視する。
『何だ、お前の中身。何かおかしい。何だこれ』
何を視ているのか、じいぃっと視線を据えながらきゅるきゅると眼球を回し――その表情が次第に強張り、小刻みに震え出す。
『ま、まさか……。あなたは、いえ、あなた様は……あ、あぁ、お許し下さい。そんな――私はかくも尊き御方に何ということを』
だが、喘ぐようなその声は秀峰の耳には入っていない。
ゆっくり剥がれていた何かが、一気に加速してべきべきと崩れ落ち始めた。
どくんと体の奥が脈打つ。
『す、すぐに溢れた分を引き上げさせていただきます』
疫神が手を伸ばそうとするが、その前にばりんと一際大きな音を上げ、秀峰の内にあった檻が取り払われる。
瞬間、虹色を纏う黄白の光が螺旋を描いて放出された。体の下にあった粘液が光に押さえ込まれ、指先ほどの小さな球体に圧縮されて床に転がった。
疫神が手を引いて後ろに下がり、平伏せんばかりに頭を下げる。
秀峰は茫洋とした心地のまま、右腕に少しだけ力を入れた。黄色味を帯びた白の輝きが腕を覆い、折れていた右手と右腕が瞬時に復元される。
そのまま意識を集中させると、全身にこびりつき、あるいは室内に飛び散っていた自身の鮮血や体液、吐瀉物や汚物といったものが粘液の球に吸い込まれていった。
「不浄を好まれる神よ。皇家の端くれとして心よりお願い申し上げます。此度はどうかお退き下さいませ」
幼少期から努力して努力して努力して身に付けてきた礼儀作法は、いついかなる場であっても即座に引き出せる。滑らかな口調で神への請願を繰り出しながら、修復した右腕で球を掴み、疫神に差し出した。
「恐れながら、こちらを御身に献上いたします。矮小な我が身ではこのような粗品が精一杯でございますが、少しでも足しになりましたら至上の誉れにございます」
凶事や穢れを司る悪神は、美しいものよりも汚いもの、不吉なものを好む。嘔吐物や汚れものは大好物であるはずだ。
「このような大層なもの、私ごときが賜るには恐れ多く、望外の喜びに感じ入るばかりにございます。至高の御方の仰せの通り、これにて失礼させていただきます」
押し戴く用に球を受け取った疫神は、床に張り付くようにして叩頭する。そして、さっとその場からかき消え、天に戻って行った。
ありがとうございました。




