117.黇の追想②一奈落への誘い
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勢いのまま一目散に宮を駆け出し、皇宮の通用門の近くまで辿り着いたところで足を止める。荒い息を吐いて咳込んでいると、門の左右に立っていた武官の一人が声をかけて来た。
「これは御子様、何か御用で?」
息を整え、秀峰は視線を虚空に投げた。こちらの様子は、白珠や高嶺に視られているだろう。
「皇宮横の図書館に行く。夕刻には戻る」
「はぁ、左様ですか」
馴染みのある施設が行き先であったことから、武官はあっさりと納得した。秀峰が供を付けていないことには触れない。皇家の者であっても、皇宮内あるいはそれに近い場所であれば単独で行動することもあるからだ。
「護身霊具はお持ちですか?」
「付けている」
秀峰は腕を軽く掲げた。天威を通して白珠たちも確認できるようにだ。
「ならば結構でございます」
武官は小馬鹿にしたように鼻で笑った。皇帝が視ているため、嫌々ながら必要最低限の対応だけはしているのだろう。
「何かありましたらすぐにそれをお使い下さい」
皇宮を出た秀峰は、とぼとぼ図書館に向かった。二階の個室を借り、中に入って椅子に座り込む。防音の設備が整った部屋で、微かな溜め息が零れた。まだ全身の熱が収まらない。
(辛くない、悲しくない、苦しくない、痛くない)
じっと床を見つめて俯き、呪文のように繰り返す。
(私は恵まれている。幸せ者だ。庶子のくせにこれほど気遣ってくれる家族がいるではないか)
握りしめた手のひらに爪が食い込んだ。
(辛くない、悲しくない、苦しくない、痛くない)
何度も繰り返している内に思考が冷え、次いで急に後悔が押し寄せて来た。
(……私は……勝手に怒って暴れて、何ということを)
母の心が込もった手料理をぶちまけて、言いがかりでしかない悪罵を叫んだ。自分の家族はいつだって、掛け値無しの真っ直ぐな愛情を注いでくれていたのに。
(謝らなくては)
その言葉が、ぽつんと落ちた滴のように脳裏に染み込んだ。途方も無い後悔の渦が押し寄せる。
(何故怒鳴る前に冷静になれなかった。早く帰って心からお詫びを)
自分の頰を張り飛ばしたくなるような慚愧の念にかられた時――個室の扉が開いた。顔を覗かせたのは予想だにしない人物であった。
「……宗基、当主?」
ひょろりとした体付き、ぎょろりと動く目、不健康そうな肌。宗基豪栄が立っていた。
「北の御子様におかれましてはご機嫌いかがでございますか」
痩せぎすの相貌に暗い笑みを刷き、豪栄は笑った。
「……いきなり何だ。ここは私が借りている。使用中の札がかけてあっただろう」
「実は御子様にお会いしに参ったのです。あなた様がお一人になられる時をずっと待っておりました。少しだけお時間をいただけませぬか」
そして返事も聞かず、勝手に向かいに座ると、黄ばんだ歯を見せて唇をつり上げた。
「さっさと本題に入りましょうか。――実は私は、密かにある霊具の開発を進めておりました。所有者の御威を増幅し、徴を発現させる霊具でございます」
秀峰は息を呑んだ。周囲の霊威を取り込むことで所有者の御威を増幅する霊具はあるが、徴が無い者がそれを発現できるほど増やすことは禁止されている。自身の容量を大きく超えた御威を保持し続ければ、体が瓦解してしまうからだ。
「それは禁止されているだろう」
押し殺した声で言う秀峰に、豪栄は動じずに返した。
「いえいえ、御子様がお考えの霊具とは異なります。私の霊具には神器の欠片を組み込んであるのですよ。周りの霊威を強引に取り込むのではなく、神威を以って力を底上げするので、所持者に負担はかかりません」
何と、既に動物や使用人で試し、霊威が強まることを確認しているという。
「皇家から賜った最高峰の神器を組み込めば、聖威を得ることすら可能かもしれませぬ。あらゆる神に愛される真皇族由来の神器で強化された御威ならば、神も親しみを覚えるはずですからな」
もったいぶった調子で告げた後、ですが、と続ける。
「ですが、さすがに皇家の神器は動物や捨て駒の部下では試すことができませんで。ぜひとも皇家の者である御子様にご協力をお願いしたいのです。霊具が完成した暁には無償でお渡しいたします」
言いながら、懐から金色の指輪を取り出し、秀峰の前にかざす。
「前金として、現時点で完成している霊具もお譲りいたしましょう。これでも最低限、徴を得ることは可能です」
ぺらぺらと口を動かしつつ、腰に下げていた手のひら大の巾着を外して逆さに振ると、中から鼠が這い出て来た。
「よろしいですか、よくご覧下さい」
鼠の頭に金の指輪を乗せると、その両目が輝いた。霊具の力で鼠が持つ御威が増幅され、徴が発現したのだ。
「――」
秀峰がどれだけ渇望しても得られなかった徴を手にする手段が、目の前にある。まるで、砂漠で行き倒れている時、目の前に甘露を差し出された気分だった。
鼠を凝視する秀峰を、三日月型の双眸になった豪栄が見つめる。ねっとりとした笑みが、その奥に凝る澱んだ邪気が、心の底にある消せない願いを絡め取る。
「――北の御子、天麗秀峰殿。穀潰しの庶子の汚名を返上し、輝かしい皇族になりたくはありませんか。どうです、私と手を組みませんかな」
秀峰は無言で指輪を見つめる。
押し込めていた本心が蓋をこじ開けて流れ出た。
(欲しい。徴が欲しい。御威が欲しい)
禁断の果実を食すよう促す悪魔の囁き。振り払おうとしても、糸を引いて強くしぶとく絡みついてくる。
その穢れに心がじわじわと侵され、精神のたがが緩んでいく。秀峰の指がぴくりと動いた。
「さ、どうぞお手に取ってよくご覧下さいませ」
それを目敏く確認した豪栄が、ここぞとばかりに指輪を差し出してきた。これを取りさえすれば、往年の望みが叶う。秀峰は一つ息を吐き出し――目を閉じて呟いた。
「……い」
「はい?」
「要らない」
発したのは拒絶の言の葉だった。強靭な意思を以って、しつこく纏わりつく邪な澱みを拒絶する。
完全に想定外の返答だったのだろう。豪栄は絶句している。
「御威は神と繋がる神聖な力。正当な理由もなく己の潜在能力を大幅に超えた御威を保持すれば、神への冒涜と取られるかもしれない」
「……それは考えすぎでしょう。たかが庶子でもあなたは皇家の者。神が怒りを向けるとは思えません」
豪栄が鼻で嗤った。先程までの慇懃な態度が剥がれ、こちらを見下す本心と己への驕りが透けて見える。秀峰は嘆息した。
「だとしても、まずは陛下に相談しご判断を仰がねば」
このような特殊な霊具が神の怒りを買わないか、確認を取らなければならない。
「この霊具は、活用方法によっては大きな発明になる可能性を秘めていると思う。ゆえにこそ、皇族方と共に開発を進めていかなくてはならない」
――だから、この場で話を受けることはできない。
静かに言い切ると、豪栄は黙り込み、俯いた。
「……左様ですか」
「悪く思わないでくれ。陛下にその霊具のことを相談すれば、きっと最適な道を模索して下さる」
豪栄は答えず、無言で指輪を懐にしまい、鼠を手の平に乗せようとする。その動作を眺めながら、秀峰は内心で独りごちた。
(これで良かった……断って良かったのだ。この霊具のせいで神の怒りを買うことがないようにしなくては。先天的に御威を持つ者は神使になれるが、霊具で増幅した者はおそらくなれない)
それどころか、本来はその資格が無い者が徴を出し、神と対話できるようになったということで、逆に逆鱗に触れかねない。
(神使……)
秀峰はふと自身の内面に思いを馳せた。
(私の家族は死後は天へ還り、神として悠久を過ごす。けれどただ人の私だけは、輪廻の輪に乗って生まれ変わる。それが寂しくて仕方ない)
忘れたくない。別れたくない。
優しく温かな家族と、ずっとずっと共にいたい。
(だから私は、神使になりたい)
神に特別に愛され、招きを受けた者は、御威無しでも特例で神使になることができる。この身には余りすぎる栄誉だと分かっていても、家族と一緒に天に行きたかった。
(思い切って家族の誰かに頼んでみようか。雑用でも何でもやるから、私を神使にして欲しいと)
ぼんやりとそんな思考を巡らせていた時。
グキュイイィ、という甲高い悲鳴がつんざいた。はっと視線を向けると、豪栄が手の中の鼠を絞め殺さんばかりに握りしめている。
「何をしている!?」
秀峰は反射的に豪栄の手を叩いた。取り落とされた鼠がぼとりと卓に転がり、ぜぃぜぃと喘ぐ。
「そなた――」
「天麗秀峰。お前は本当に気に入らん奴だ」
ぞっとするような不吉な声音が大気に溶け、秀峰の肌が泡立った。反射的に護身用の霊具を起動させようとする。だがそれより早く、豪栄が腰に差していた杖を手の平で叩くと、護身霊具は一瞬で無効化された。
「これは皇家から宗基家に賜った神器。この力の前では霊具など塵も同然」
(賜ったのではなく貸与されているだけだろう)
そう言い返してやりたかったが、口を塞がれたように声が出ない。それどころか、見えない鎖に縛られたように体が動かせなくなっていた。神器だという杖の力だろうか。
「出来損ないは出来損ないらしく、涎を垂らしてわしの話に食いついてくればよかったのだ。せっかく下手に出てやっていたものを……穀潰しの分際で、ようもまあ正義感溢れた理想論ばかり吐きよるわ」
豪栄は忌々しげに眉をつり上げて舌打ちする。痩せた顔の中で、両の目だけがぎらぎらと光っていた。
「皇帝に相談などしてみろ。いけ好かない正論ばかりぶち上げて反対されるに決まっているだろうが。御威無しのお前ならば釣れると思ったが、とんだ見込違いだった」
そして、舐めるようにじっくりと秀峰の顔を見つめた。
「ふん、さすが親子。こうして見ると、確かにあの取り澄ました蒼月皇に似ている。まぁ見目はいいからな、惚れるのも分からんではないが」
(は? 惚れ……)
何の話だと思った瞬間、秀峰は息を飲んだ。豪栄の顔付きが、一気に醜悪で強欲なものに変わったのだ。
「いいことを教えてやろう、無能の御子。お前を欲しがっている者がいるのだ。誰だと思う? ――ノルギアスの現大公テイヤーだよ」
そして醜悪な笑みを浮かべた豪栄は、口軽く話し始めた。
先代大公ショアーコンと宗基の先代が、先皇黒曜の男妾が、白珠に何をしたのかを。
――耳が腐り落ちそうな話を聞き終わった時、秀峰は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。
白珠にそのような過去があったなど知らない。
「わしとテイヤーは、己の父親が犯したことを知っている。皇家と帝家は遠回しな言い方でしか伝えなかったが、血の繋がりが強い者はその縁を通じ、互いの記憶を視ることがあるのだ」
自分の父親がしでかしたことであるにも関わらず、豪栄に申し訳なさそうな様子はちらとも見えない。
「天威師であるお前の兄弟も、謙皇帝一家も知っているだろう。御威無しのお前には衝撃が大きいからと伝えられていなかったかもしれないが」
そして、双眸を三日月の形に歪め、話を続けた。
「わしとテイヤーは知己だ。互いが視た父の記憶をすり合わせ、御威や霊具、神器を駆使して記憶の欠けを補完し、真相を知ったのだ。そうしたらテイヤーは、すっかり蒼月皇の虜になってしまった」
現在でも絶世の美貌を誇る白珠は、幼い頃から既に美しかった。泣き顔や苦痛の顔すら美しいと、恍惚とした表情で呟いていたと言う。
「あいつは大層な嗜虐趣味だ。当主になってから少しの間はまともだったが、娘のメイリーアンが奇跡の御子になったことで増長し、身の奥に眠っていた野蛮な性格が目を覚ましてしまったのだ」
きっと元からそのような素養はあったのだろう。今まで顕在化していなかっただけで。
「テイヤーは、密かに御威無しのお前に目を付けておった。幾度かお前を攫うための手引きをしてくれと頼まれたが……頷けばまさに父の二の舞になりかねぬと断っていた」
そこまで告げた豪栄は、にたりと澱んだ嗤笑を浮かべた。
「しかし、遠慮することは無かったのだ。無価値なお前一人くらいどうとでもできる。テイヤーにお前を売り飛ばしてやろう」
支離滅裂なことを言い始めた豪栄に、秀峰は理解が追いつかない。そのような暴挙を行えば、それこそ自身で述べていた通り父親の二の轍を踏むだけではないか。唖然としている間に、豪栄は勝ち誇った顔で宣言した。
「穀潰しの癖にわしに逆らい、上から目線で説教したことを悔いるがいい!」
ありがとうございました。




