116.黇の追想①一無能の御子
ご覧いただきありがとうございます。
本話から9話(124話まで)、秀峰編です。この後の真相編と地続きになる部分です。
明日、明後日は一日の投稿数を増やすなどして、秀峰編は3日間で終わらせる予定です。
晴れ渡った空の下、陽光に照らされた皇宮の石畳は、相も変わらず淡い緋の色をしている。
『冷や飯食らいの無能な御子』
『役立たずの庶子めが』
囁かれる声が、今日も全身に突き刺さる。
(こんなもの、もうとうの昔に慣れた)
――蒼月皇の第二子、秀峰は御威を持たぬ出来損ないだ。
(皇家に生まれながら御威を得られなかった。こんな木偶の坊に気を使わねばならぬ臣民が可哀想だ)
周囲が冷たいのは、劣等生である自分が悪いのだから当然だ。これでも幼い頃は、高嶺と同様に期待されていた。
『御子様もいずれ天威に覚醒されるでしょう』
『皇国全土がその時を待ちわびておりますぞ』
生まれた時から絶え間なく圧し掛かる、熱望の視線と重圧。呼吸もままならぬ圧迫感と、心身を押しつぶされるような不安が全身を苛むが、これは皇家に生まれた者がすべからく背負う宿命だ。
だが、10歳を超える辺りで周囲の眼差しは焦りと苛立ちを帯びていった。
『御子様はまだ徴を発現されないのか』
『いや、遅咲きでいらっしゃるのやもしれぬ』
その頃から重圧と不安が増し、怖くなってきた。得体の知れない生ぬるい汗が滲み、動悸と吐き気が止まらない。
突き刺さるような周囲の眼差しに圧倒される。一呼吸ごとに、生身の体を指先から皮膚一枚分ずつおろし金で削り取られ続けていくような、生殺しの生き地獄を味わうような心地。剥き出しの神経をがりがりと擦り上げられるような苦痛に苛まれる。
これが続けば、いつか自分の心は粉々にすり下ろされてしまうかもしれない。
それを察した両親と兄弟が、忙しい自分たちに変わって秀峰を支えるようにと、己の力を多分に注いだ形代を創って側に付けてくれた。それが栄生たちだ。
(辛くなどない。私は十分すぎるほどに幸福なのだ)
皇家に生まれた以上、例え徴が出ずとも衣食住は保証される。ぎりぎりで生活している者たちから見れば、余りにも恵まれた存在だろう。
(皇家に生まれながら国と民の役に立てぬ穀潰しが――物の数にも入らぬ面汚しが、生まれだけで日々の全てを保障される。優しい家族にも恵まれて)
世の中とは何と不公平なことか。
(私よりも苦しい状況の者は山ほどいる。自身の過分な幸運を実感し、喜び、感謝し、堅実に日々を生きていかなければならない)
皇家と帝家の先達で最も覚醒が遅かったのは、13歳で天威に目覚めた者だ。14歳以降で覚醒した者は、三千年に及ぶ歴史の中で一人もいない。
(私が14歳になった日、家族以外の者たちはほぼ全員が私を見限った)
期待が外れたという失望をこれでもかと浴びせられ、まるで剥き出しの心に太い釘を打ち込まれているような心地になった。
公務補佐で外に出かけた際は、民から役立たずと怒号を飛ばされ、熱湯や冷水をかけられ、石や泥、ごみなどを投げつけられた。
だが、事態を憂慮した白珠により外向きの務めが回されなくなったため、その存在感は希薄になり、民の話題になることはなくなっていった。
(実を結ばぬあだ花でも、生えてきた以上は何かの形で役に立たなくては。自分にできることをやるしかない)
慈悲深い家族はどうか無理をしないで欲しいと何度も言ってくれる。自分を大事にして欲しいと。何の役にも立っていない身でそのような気遣いをさせてしまうことが、ただ申し訳なく、恥ずかしかった。
……それでも、不出来な庶子でも微力ながらできることはある。
(そうだ、そろそろ高嶺の小物を作ってやらなくては)
秀峰は、高嶺の代わりに儀式や祭祀で使う小物を作っていた。皇族が参加する儀式や祭祀で用いる小道具は、皇族自身が制作するか代理の者に作らせる。
『兄上、お願いがあるのですが』
あれは10歳を超え、周囲からの圧が強まっていた時期だ。未だ徴が出ないことに焦燥していた秀峰の元に、困り顔の高嶺がやって来た。
『儀式で使う織物が上手くできないのです。どうか代わりに作ってくれませんか?』
高嶺の役に立てるならばと、秀峰はすぐに代打で布を織った。出来上がった織物を掲げ、高嶺は満面の笑みと安堵を共に浮かべた。
『わぁ、すごいです兄上!』
太子として公務や政務に従事している際には滅多に動かない表情が、喜びと感嘆できらきらと輝いている。
『本当に困っていたので、とても助かりました。私にはこんなに素晴らしい物は作れないです。お願いです、これからもお力をお貸しいただけませんか?』
その言葉を聞いた時、嬉しかった。未だ徴を得ていない自分でも、太子の一助になれるのだと。それからずっと、高嶺の小物作りは秀峰の役目となっている。
それは秀峰にとって、己の存在価値を証明する大きな柱となっていた。
15歳の誕生日を迎える、その日までは。
◆◆◆
秀峰が15歳の誕生日を迎えた日。
全ての転機が訪れた。
高嶺が担当する儀式で絵を用いるものがあったのだが、風邪を引いて寝込んでしまった秀峰は絵を描けなかったのだ。
(絵は準備できたのだろうか。……そうだ、邪魔にならない場所から覗いてみよう)
儀式は、皇宮に隣接する神殿で行われる予定だった。広大な敷地を持つ皇宮だけに、付随するように隣接している建物も多いのだ。
物陰から様子を窺うと、神殿の庭に儀式の用意がされているのが見えた。中央の祭壇には画紙が立てかけられているが、何も描かれていない。
神官の一人が神殿の中に向かって恭しく呼びかけた。
「太子殿下、お時間にございます」
「分かった」
涼やかな声と共に扉が開き、高嶺が現れた。堂々とした足取りで祭壇へと歩を進め、画紙の前に立つ。卓に置いてあった絵筆を取った瞬間、その両腕が藍の輝きを放った。
まるで氷上を滑らかに踊るかのごとく画紙の上を駆け回る筆は、瞬く間に非の打ち所がない絵を描き上げた。
――秀峰が全霊を込めて数日かけて描き上げるものよりも、遥かに美しく素晴らしい芸術的な絵画が、僅か数呼吸で完成したのだ。
「お見事にございます」
「さすが殿下!」
皆が口々に褒めそやすが、高嶺は表情一つ変えずに画材を卓に戻した。
「このくらい当然だ。卓を下げよ、儀式を始める」
描き上げられたばかりの色彩瑞々しい絵画の前で、高嶺が優美に拝礼する。その時、ふと視線を流し――秀峰と目が合った。切れ長の黒眼が見開かれる。剥がれ落ちた太子の仮面の下から、しまったと言いたげな表情が零れ出る。
「……」
だが、それはすぐに消え去り、何事もなかったかのように正面に向き直った。儀式が恙無く進んでいく様子を、秀峰はぼんやりと見ていた。
「御子様」
いつの間に側に来ていたのか、背後に気配も無く栄生たちが控えていた。章波が穏やかに言葉をかけて来る。
「もうお戻り下さいませ。お体に毒でございます」
「……絵が……」
唇から、ぽつりと乾いた声が漏れた。
「あんなものがあっという間に描けるのか」
(御威を纏えば、万事に関わる技量が飛躍的に向上する。それは知っているが――)
あれほどの絵が描けるならば、自分など要らないではないか。
絵だけではなく、織物も細工品も、あらゆる小道具を自在に作れるはずだ。なのに、何故わざわざ自分に頼んでいたのだろうか。
(ああ、そうか)
心にぽっかりと空いた風穴の中、唐突に悟る。
(私のためだ)
秀峰が自信を取り戻せるように、存在意義を持てるように、あえて制作を依頼していたのだ。
(本当は私など不要なのに、私のためにできない振りをしていた)
その事実を察してしまった。
心の中で何かが砕ける音がする。今まで拠り所にしていた大切な何かが。
自分がどれだけ努力し、才を磨き、上達しても、天威の前では全て無意味なのだ。
秀峰はのろのろと踵を返し、来た道を戻り始めた。足を引きずるようにして北の宮に帰ると、無言で傍らに控えていた栄生と章波がはっと視線をさ迷わせる。
「御子様、陛下がお越しになられるとのことです」
「陛下もでございます」
(父上と母上が?)
栄生はレイティが、章波は白珠が創った形代だ。彼らが単に陛下と言う際は、己の創り手を指す。創り主以外で陛下の敬称を持つ者を呼ぶ際は、称号を付けて呼ぶのだ。
直後、レイティと白珠が転移で現れた。
「父上、母上」
レイティが優しく秀峰の額に手を当てた。
「珠歩、体調が良くなかったそうだが具合はどうだ」
「霊具で良くなりました」
「そうですか、それが良かった」
安堵を浮かべて答えたのは白珠だ。その間に、従者たちは音もなく部屋を出て行った。親子水入らずになった室内で、両親は微笑む。
「今日はあなたとラウが生まれてくれた日ですね。ヴェル様に教えていただきながら祝いを作ったのです」
白珠が自慢気な顔で言い、卓の上に置いた四角い箱と小さな容器を示す。
「体調不良でも食べやすいよう、甘い卵菓子と野菜の煮込みにしました」
四角い箱には滑らかな淡黄色の卵菓子が、丸い容器には黄金色の汁が輝く煮込みが入っていた。
「綺麗ですね。美味しそうです」
秀峰が思わず呟くと、レイティが笑った。
「最初はどたばただったんだぞ。プディングはすが立つし、ポトフは鍋ごと焦がして具材を炭化させるし」
「私は素のままで器用なヴェル様と珠歩とは違うのです。天威の力に頼らなければ不器用なのです」
不貞腐れたような白珠の言葉に、秀峰はぴくりと肩を震わせた。非の打ち所がなく完成している料理を眺め、力無い笑みを零す。
成る程、天威を使って作ったのだ。であれば味も極上だろう。秀峰がどれだけの努力と時間を費やしても届かない高みの料理が、あっという間に作れるはずだ。
(いいなぁ、御威持ちは。そういうことが容易くできるのだから。苦手や不得意などあってないようなもの)
どす黒い念を帯びた羨望の声が、自身の奥から湧き上がった。今までずっと抱え込んできた劣等感がぐつぐつと煮えたぎる。
「しかし、珠歩ももう15歳か。早いものだな。お前は俺たちの自慢の子だ」
「珠歩、あなたは限りない可能性を秘めた未完の大器。将来はきっと大成します」
身を寄せ合うようにしながら微笑む白珠とレイティは、いつも通り仲睦まじい。
優しい家族、愛に満ちた笑顔、温かな言葉。
全てが揃い、惜しげもなく与えられているはずなのに、何故だか魂の底が冷えていく。
(……それは、嫌味ですか。霊威すら無い出来損ないのどこが自慢で大器だと?)
暗い思考が胸中で渦を巻く。神殿での出来事の直後であったため、時機が悪かったのだろう。あの神殿は皇宮の外にあるため、白珠の天威が張られていない。両親は先程の出来事を知らないのだ。それが分かっていながら、どす黒い感情が膨れ上がる。
(何でも簡単にできるくせに。御威が欲しくても欲しくても得られなかった者が、地べたを一歩一歩這いずっている間に、あなたたちはその翼で大空を自在に翔け回れるくせに)
自分が今までこつこつと積み上げ、重ね続けて来た研鑽と努力。全身に針を突き刺されるような嘲笑と侮蔑の中で、それでも必死に一足ずつ踏み出し、進み続けてきた足跡。
だが、御威を持つ大鳥たちは、無能な毛虫の歩みなど歯牙にも掛けず悠々と飛んで行く。
(ああ――)
高嶺が一瞬で描き上げた絵が脳裏に蘇る。どれほど優れた画家でも描くことが叶わないような傑作を、数瞬で完成させたあの力。
いかなる損傷を負おうとも毅然とした態度を絶やさず、神と対話し、他者を思いやる姿も蘇る。その身を呈して世界を護り、無償で慈しみ続ける魂の何と崇高なことか。
(私は)
自分ではとても立てない高み。
ついぞ辿り着けなかった境地。
(私はどこまで行っても、役立たずの無駄飯食らい。どれだけ頑張ろうとも)
「珠歩? 大丈夫か、顔色が真っ青だ」
「どうしたのですか? まだ具合が……」
俯いたまま黙り込んでいる秀峰を、白珠とレイティが覗き込んだ。共に心配そうな顔をしている。
「……さい……」
唸るような声が喉の奥から捻り出された。両親が言葉を中断した瞬間、血を吐くような怒号が迸る。
「うるさい!」
ばん、と平手で卓を叩き、周囲の全てを拒絶するかのごとく叫んだ。
「お世辞なんか要らない、どうせ私は出来損ないの米食い虫でしょう! 本当は惨めで憐れだと思っているくせに!」
「珠歩」
顔色を変えた白珠が手を伸ばしてくるが、乱暴に振り払った。よろめいた白珠をレイティが支える。
「こんな物要らない、欲しくない!」
卓の上に置かれた容器を払い落とすと、硝子が割れる鋭い音が弾け、心尽くしの料理が床にまき散らされる。
「善意の押し付けも綺麗事も、全部余計なお世話だ! もう放っておいて下さい!!」
そう言い捨て、秀峰は部屋から走り出た。
ありがとうございました。




