112.橙色の傷痕
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優雅に衣を捌き、白珠と長身の青年が入って来る。この場にいる全員が、即座に各々の身分に応じた礼を取った。
明香も頭を下げながら、失礼にならぬ程度にそろりと視線を動かす。
(蒼月皇陛下! と……)
白珠の隣に寄り添う金髪の青年。赤い眼をひたと豪栄に据えている。その姿を視界に入れた瞬間、心臓が勢いよく跳ねた。これは日神同士の共鳴だ。
(橙日帝陛下)
しっかりと姿を目にするのはこれが初めてだが、彼の容姿については市井でも大体の特徴が出回っていた。森羅万象を圧伏させる猛帝だというため、最初は筋骨隆々な大男を想像していたが、実際に見た者の話によるとそのようなことはないという。
むしろ、長身だが細身で眉目秀麗、女性的な美しさすら匂わせるような麗姿だそうだ。今、実際に見えてみると、確かにその評に違わない姿をしていた。神の美しさと言う他ない程に均整の取れた、圧倒的な容貌だ。白珠と並んでも全く見劣りしない。だが――
(……お母様に似てらっしゃるよね)
先帝に瓜二つだという天威師たちの言葉とは、やや乖離している気がする。父子なのだから似ていると感じる部分もあるが、記憶の切れ端で視た光景が正確ならば、橙日帝……レイティの顔立ちは圧倒的に母親譲りだ。
我が子を殺そうと修羅の形相を帯びてもなお美しかった、あの実の母親に。
むしろ、弟妹のアドルフとクルーセラの方が、よほど先帝に近い容貌をしている。
「……」
だが、その感想は胸の奥に押し込めておく。レイティの母は先皇黒曜一人だけということになっているからだ。
我が子を殺そうとした女など母に非ず。ゆえに、皆はレイティが実母似だとは決して認めないのかもしれない。その思いに関して異を唱える気にはならなかった。
(うん、橙日帝陛下はお父様似。それでいいんだよ)
心の中で頷き、改めてレイティを観察すると、その赤い眼は燃える朝焼けのようであると感じた。あの赤い悪魔――先々代大公のような澱んだ色合いではなく、もっと鮮烈で清らかな真紅だ。
(綺麗な赤)
内心で呟いた時、白珠が口を開いた。
「全員楽にせよ。今は礼儀に構っている時ではない」
その声に反応したように、豪栄を睥睨していたレイティが白珠の方に視線を向け直した。
(あ……っ)
瞬間、綸言に従って身を起こした明香は硬直した。釘を打ち付けられたように、呆然と眼前を見つめる。
――それは、一種の奇跡を見ているような光景だった。
朝焼けで赤く染まった空が、日が昇ると共に本来の青さを取り戻して行くように。赤かったはずのレイティの双眸が、澄み切った碧に変わっていく。
春の陽気を浴びた湖水のように淡い碧眼。
肖像で見た先帝の瞳と寸分違わぬものだった。
(先帝陛下)
そう錯覚してしまう程に、父子の目は同じ碧をしていた。涙が込み上げてくるほどに優しく慈悲深い色。
同時に、自らの思い違いに気付く。天威師たちは、レイティが実母似だと認めたくないがために父親似だと言い張っていたわけではなかった。
その真意は――レイティは先帝に瓜二つだと断言していた真意は、この瞳にあったのだ。
(橙日帝陛下は……お父様似、だ……)
心の底から納得してそう思った。明香の側で跪拝を解いた高嶺とティルが、両親の元に歩み寄ると口々に言葉を発した。
「陛下、始まりの神器がもう耐えられません」
「このままでは非常にまずいですねぇ」
「そうか」
白珠が表情を引き締めて首肯し、秀峰の手にある小鳥を見る。
一方のレイティは、すぐ近くまで来た我が子たちに腕を伸ばし、その体を優しく撫でた。まるで、雛を翼で包み込む鳳凰のようだ。高嶺とティルが心地よさそうな表情を浮かべる。
(あの鳥と同じ)
明香の脳裏で、天威師に覚醒した際の記憶が蘇る。天界中の神々を宥める初公務へ臨んだ自分に助力してくれた、褐色の大鳥。ふと見ると、いつも白珠の肩に停まっている鳥は、今はレイティの肩にいる。そしてその気は、橙色の熱く力強い天威と完全に馴染んでいた。
(あの褐色の鳥、初代陛下の神獣じゃなくて橙日帝陛下の化身だったんだ)
おそらく、力を抑えているために色が褐色なのだ。真価を抑制した状態では色が変わるということは珍しくない。本気を出せばレイティと同じ橙色になるのではないかと予想する。
秀峰の化身であるもふもふの子馬は黄土色をしていたが、全力を解放すればきっと黄白になるだろう。
(橙日帝陛下のお力をどこかで感じたことがある気がしたのは、多分あの鳥の気とすごく似通ってるから……)
鳥が明香を導いてくれたのは天界での出来事だ。多くの神々の神威が満ちる場所だけに、鳥の気が微妙に紛れてしまい、橙日帝の天威そのままの気配とは少し違うものになっていたため、完全に同じ気であると判別できなかった。
「大事ないか、俺の宝玉たち」
レイティが家族たちの無事を直に確認するように、優しい碧眼を天威師一人一人に巡らせた。ぐるりと一巡した視線が、最後に明香に据えられる。温みを帯びた湖水の瞳が向けられ、ぱちりと目が合った。
どくんと心臓の鼓動が跳ねる。
日神同士の共鳴を通じて、怒涛のように記憶が流れ込んで来た。
◆◆◆
『母親殺し。災厄の子。両親を共に不幸にした恐ろしい子だ』
『崇高なる帝家と陛下に不幸を呼んだ穢れ子が御威になど覚醒するものか』
『いっそ胎内で果てていれば良かったものを』
――レイティの母親が犯した凶行は公然の秘密となり、帝国中の者が遺児であるレイティに向かって口さがない悪罵を繰り返した。この世界で死は神聖なものとされ、故人が次に進むための大切かつ尊い儀式だと見なされる。しかし、それでも母親の最期は余りに凄惨であり、良い印象にはならなかったのだ。
『何故陛下はあの死に損ないを庇われるのだ。あんな奴に衣食住を与えるな』
『顔も見たくない。あの子の姿を見ると穢される、不幸が移る』
『生かしておけば帝家にさらなる災いをもたらすのでは』
国中の民が、官吏が、帝城の使用人が。帝家とごく一部の少数を除いた者たちが、一斉に悪意と誹謗の弾幕を放つ。父帝ルーディは懸命に護ろうとしたが、帝国唯一の皇帝である多忙さと、余りの中傷の多さゆえに十分に護り切れない。
『帝城から追い出し、石を投げて打ち殺せ』
『処刑するよう国全体で署名運動をするのだ』
『議会であの不吉な子の処分を諮ろう』
父帝が徹底して抑え、諸々の企ても事前に潰していたため、それらの声が表ざたになることはなかった。だが、生まれながらにして天威に目覚めていたレイティには全て聴こえていた。
『同志を集め、帝城の前で極刑を訴えて練り歩こう。我らの意を陛下に届けるのだ』
『民の声をあの忌まわしい子に叩きつけてやる』
『あの子はこの国を汚す最大の面汚しだ』
(ああ、その通りだ。俺は不幸の権化、凶事を呼ぶ存在だ)
(俺のような禍事の化身が、この神聖な帝家に誕生してしまった)
(俺のせいで、帝家に、臣民に、国に、――世界に、多大な不安をかけている)
(全て俺が悪いのだ。こんな汚穢が生まれてきてしまって、本当に申し訳ない)
――だが、業を煮やした父帝により、レイティが全き天威師であると周知されると、その声は反転した。
少しでも外を歩くと、ここぞとばかりに、使用人が、家臣が、民衆が、大声で絶賛する。
『帝家と国に幸福と栄光をもたらす奇跡の具現』
『三千年ぶりの偉業を達成されるとは。我らの希望よ』
『よくぞこの世に生まれてきて下さいました』
かつて忌み子と罵った、その口で。今度は稀代の御子だと褒め称える。
『陛下もさぞや鼻が高いことでしょう』
『ああ、何と素晴らしい御子であることか』
『皆が殿下に一目だけでもお会いしたがっております』
かつて振り上げようとした、その腕で。今度は誇りだと抱きしめる。
『どうか末永くこの国をお守りくださいませ』
『殿下を称える声明文を出しましょう。議会で決議を』
『山海の珍味、極上の絹、玉の室。全て最高級を用意させていただきました』
かつて踏み付けようとした、その脚で。今度は甲斐甲斐しく奔走する。
『殿下のご予算を増やしましょう。何も不自由せずにお暮し下さい』
『殿下はこの国の至宝、何よりの誇りにございます』
『殿下、殿下、殿下、殿下、殿下』
かつて切り捨てようとした、その心で。まるで何事もなかったかのようにすり寄ってくる。
『ええ、ええ、我らは信じておりましたとも。殿下ならば必ずや奇跡を成し遂げて下さると。ああ嬉しゅうございます! 我らは最初から殿下を信じておりました!』
(我が民よ。俺は欠片も嬉しくない)
(お前たちを信じられない。死んでも信じられるものか)
(あれ程までに俺を罵倒し、罵声を吐き、存在自体を否定していた癖に)
――この、大うそつきどもが。
レイティの瞳が赤く赤く染まっていく。
『あにうえ、どうしたの? どうしておめめがあかいの?』
『どこかいたいの? いたいのはとおくにとばしちゃうの』
大切な弟妹たちが、泣きながら縋り付いてくる。
『――――』
レイティの赤眼に元の碧が入り混じった。このまま心を閉ざして引きこもるより、ずっと重要な優先事を見つけたからだ。
(大変だ、この子たちが泣いている。早く安心させてやらなくては)
『何でもない。心配するな、リラ、サナ。大丈夫だ、大丈夫――兄は大丈夫だ。こんなに元気だぞ』
大切な弟妹の秘め名を呼びながら、ぎゅうっと抱きしめる。
『ヴェル!』
悲鳴のような声が弾ける。我が子の心の異変を察した父帝ルーディが、公務先から飛んで帰ってきたのだ。愛しい子どもたちをまとめてを腕に包み込む。
ちちうえ、と橙日帝の唇が動いた。
『すまない、ヴェル。すまない――すまない』
自分を抱擁する温もりに包まれたレイティは、何度か目を瞬かせた。瞳が完全に碧に戻っていく。そして、堰を切ったように泣き出した。
徹頭徹尾、自分の味方でいてくれたのは、父と弟妹、そして皇国にいる養母黒曜とその子どもたちだけだ。その他の者はほぼ全員が敵だった。いや、ごく一部の例外はいたが、本当に数えるほどだ。味方がいるだけいいではないか、と前向きに考えてみても、心が晴れるはずがない。
(信じられるのは身内だけだ。俺はもう、身内以外は信じない)
レイティの瞳はその後、常に赤いままとなった。誰も何も信じない、信じられないという強い怒りと悲しみを体現するかのごとく。元の碧色に戻るのは、『信頼できる存在だと認識する身内』に対する時だけだ。
そうして太子になったレイティは、国と民への想いなど欠片もないまま、ただ義務的に粛々と公務をこなしていった。完璧な帝族という鉄壁の仮面をかぶり続けながら。
◆◆◆
「明香、どうした?」
案ずるようにかけられた声に、深い水底に沈んでいた意識が浮上する。
湖の記憶の中で溺れていた明香は、はっとして高嶺を見た。
「……何でもありません」
非常に、非常に気が重いものを視てしまった。今のはおそらく、レイティの過去だ。
(共鳴のせいだ……)
視えたということは知られてもいいと思っている記憶なのだろう。おそらく高嶺たちも承知している出来事のはずだ。だが、相当に後味が悪い光景だった。
(後で正直に、視えてしまいましたって言って謝ろう)
やること一覧がどんどん増えていくことに嘆息していると、頭上に影が差した。
(ん?)
顔を上げると、いつの間にかレイティが眼前に立っていた。
ありがとうございました。




