08 未亡人、思わぬ取引を持ち掛けられる
商会の建物にいる時、身を飾らないのは動きやすいという理由からだ。
けれど最近では、別の理由もできた。
「奥様に会わせてくれ!」
店先で叫ぶ男。
店内にいる男たちは、みな一様に迷惑そうな視線を向ける。
しかし彼は怯まない。
「以前お会いした時の礼がしたいんだ。奥様を呼んでくれよ」
手に持った帽子をクシャリと握り、近くにいた人足に媚びるような笑顔を向ける。
(またか)
私は思わず零れそうになるため息をこらえた。
一見の客には反応しないようにと、商会のみんなには厳しく言われている。
「これはこれは。申し訳ないが旦那さん。奥様はお出かけになっている。日を改めてもらえるか?」
筋骨隆々の人足が答えると、それだけで客人は遠目にも分かるほど動揺し萎縮した。
しかし、彼は負けじと言い返す。
「昨日も一昨日も、そう言って会せようとしないじゃないか! 本当は店の奥にいるんだろう!? 俺は客なんだから、ちゃんと取り次げよ!」
必死の形相で口の端から泡が飛ぶ。
余程『奥様』に会いたいらしい。
私が仲裁に入ろうとすると、近くにいたジンに肩を掴まれた。
「お嬢はここで待ってな」
そう言うと、私の代わりにジンが客人の前に出た。
動きが速すぎて止める暇もない。
それから起きる出来事を想像して、私は頭を抱えたくなった。
「いないったらいないんだよ! お前みたいなどこの誰とも知れないごみ屑野郎に、うちの奥様を会わせるわけねぇじゃねえか分かれ馬鹿が! うちと取引したきゃちゃんと金持って紹介人連れて金になる話持ってきな!」
ジンは片腕で軽々と男の襟首を掴むと、目線を合わせてたっぷり凄んでから怯える男を魚臭い路上に放り出した。
(やっぱり……)
自分の予想する通りになってしまったと、私はやっぱり頭を抱えた。
旦那様が無くなって以来、驚くことに私への求婚者が後を絶たない。
理由は簡単で、唯一の実子であるステファン様は十年も前に家をお出になったのでほとんど死んだと思われているし、あとは私をたらしこめば男爵家の遺産を好き放題できるとでも思うのだろう。
私からすればよくもこんな孤児院上がりの不愛想な女に近づきたがるものだと思うが、金の前では誰もが冷静な判断力を無くしてしまうのは人のさがかもしれない。
「追っ払ってきたぜ!」
自慢げな笑みを浮かべるジンは、まるで褒めてとねだる大型犬がしっぽをふっているみたいだった。
ジンの色黒の肌に白い歯がきらりと光る。
「主人はいるか?」
すると、彼の背後から再び似たような呼びかけが聞こえた。
「ったく、何度言えば……っ!?」
振り返ったジンの向こうに見えたのは、驚いたことにグエル商会の支配人だった。
***
「今日はどういったご用件で?」
商会に接客用の余計な人員はおいていないので、ステファン様にした時と同じように自らお茶をサーブする。
客人は優雅にタイを結び、商人というよりは青年貴族といった華やかな装いだ。
頭のてっぺんからつま先まで、少しも飾り気のない私とは大違いである。
グエル商会は国内外の貴族を主な取引相手にしており、常日頃から身なりを整えているのもその営業活動の一環であると思われた。
グエル商会ヴェッラ支部の支部長は、完璧なマナーで優雅にお茶を飲むと私に向けてにこりと笑った。
「お久しぶりですね。ステラさん。ご機嫌はいかがですか?」
何を考えているのか分からない笑みだ。
私は相手に悟られぬよう、ごくりと息をのんだ。
彼がここに来るのは、以前正当な後継者でなければ信用取引はできないと申し渡された時以来だ。
「今日は一体、どのようなご用件で?」
「ああ、そう硬くならないでください。今日は私的な用でお伺いしたんですよ」
硬くなるななど無理な話だ。
グエル商会は、小規模な国ならまるごと買い上げてしまえるほどの資金力を背景に、裏ではかなり強引な商取引をしているともっぱらの噂である。
旦那様が立ち上げたヴェッラ商会を守るには、どうあってもグエル商会と真正面から事を構えるのは避けたかった。
「私的な、と言いますと?」
この男の言葉をどこまで信じられるだろうかと考えつつ、問い返す。
ブルーノ・アレッサンドロ。
緑の目と白金の髪という華やかな容姿を持ちながら、その辣腕で大金を稼ぎ出すという若き支部長。いずれは本部へ栄転し、グエルの後継者になるのではないかと噂される男だ。
この業界では、絶対に敵に回したくない相手。
それが今度はどんな無理難題を突き付けてくるつもりだと、思わず手のひらに汗がにじんだ。
「簡単な話ですよ。グエル商会のヴェッラ商会への信用取引中止を、取りやめる方法についてです」
ブルーノの言葉に、危うく立ち上がりそうになった。
それは我が商会の悲願であり、しかし何度掛け合っても今まで勝ち取ることのできなかった懸案だった。
あまりにも―――あまりにもおいしそうな餌だ。
ありがたいというよりもむしろ不気味で、私はブルーノを見返した。
「ヴェッラ男爵家の正当な子息が後継者と認められない限り、永遠にヴェッラ商会との信用取引を中止する―――というのが、そちらの提示なさった条件でしたよね? 私が何度再開を訴えても、聞き入れられなかったように記憶しておりますが?」
あえて皮肉っぽく言うと、ブルーノは苦笑した。
「まあ、正しくは男性の―――ということですがね。我が商会は旧態依然とした体質が残ってまして、女性である貴女との取引は信用ならないと言う者が少なからずおりまして」
ぎりりと唇を噛む。
うすうす、そうなんじゃないかとは思っていた。
商人の世界はまだまだ男社会で、悔しくはあるがこんなこと日常茶飯事だ。
「そこで一つ、提案なのですが」
「提案、ですか?」
「ええ。それも至極簡単で、貴女にとっても決して悪くはない話だ」
「それは……どのようなお話でしょう?」
冷静に返したつもりだが、口をつけたお茶の味がしない。
次の言葉を待つ時間が、永遠のように長く感じられた。
「それはね、私が貴女の養子となって、正当な後継者としてグエル商会に話をつければいいんですよ」
時が止まった。今度こそ。
唖然とする私を前に、ブルーノはにこりと天使の笑みを浮かべたのだった。