名を隠さない契約
オスヴァルト商会で働き始めて、ひと月が過ぎていた。
帳場の仕事は臨時雇いの域を超え、この頃には取引先との折衝にも顔を出すようになっている。ヨーゼフの警戒は、今ではすっかり信頼に変わっていた。
フィーネ・クロイツという名は、この商会の内側では相応の重みを持ち始めている。数日前には、取引先との値引き交渉の場に同席し、そろばんを片手に条件を組み立て直したところ、相手方の番頭がその手際に驚いた顔をしていた。
人前でそろばんを弾くことに、もう躊躇いはない。誰に見られても構わない仕事だと、ようやく思えるようになっていた。
商会の若い使用人たちとも、少しずつ言葉を交わすようになった。誰もフィーネ・クロイツという名の裏側を詮索しない。訳ありの女だろうという察しくらいはついているのかもしれないが、それを面と向かって尋ねてくる者はいなかった。ここでの評価は、ただ働きぶりだけで測られる。フォルクマー家では、どれほど仕事をこなしても、それが誰の手柄として扱われるかまでは選べなかった。ここではその心配がない。その単純さに、まだ慣れきってはいないものの、日を追うごとに肩の力が抜けていくのを感じていた。
それでも、どこまでいってもフィーネ・クロイツは仮の名でしかない。誰かに本当の名を尋ねられかけるたび、その事実だけがひっそりと胸の奥に残る。仮の名で積み上げてきたものは、本当のところ、どこまで自分のものと呼べるのだろうか。答えの出ない問いを、フィーネはこの一月、何度も脇へ押しやってきた。
ある日の夕刻、ダレンに帳場の奥へと呼ばれた。何の用件か、心当たりはなかった。ここひと月、粗相らしい粗相をした覚えもない。それでも改まった呼び出しには、いくらか身構えるものがあった。窓の外はまだ明るく、仕事終わりの喧騒が壁越しに聞こえている。
机の上には、見慣れない書式の書類が広げられている。羊皮紙特有の重みのある紙質で、印刷ではなく手書きの丁寧な文字が並んでいた。ダレンはそれをフィーネの前に滑らせた。
「経営顧問として、正式にうちに入ってもらいたい」
ダレンの声は、いつも通り静かだった。
書類には、報酬の額、権限の範囲、契約の期間が淡々と記されている。臨時雇いの日当とは桁が違う条件だった。数字を目で追うだけで、この一月の働きぶりがどれほど正当に評価されているかが分かる。フィーネは黙ってそれを読み進め、最後の一行で手を止めた。署名欄に記すべきは、フィーネ・クロイツという名ではなく、本名だ。
「名前が、違います」
「知っている」
ダレンは短くそう答えた。
「正式な契約書だ。仮の名で結ぶわけにはいかない。うちの信用にも関わる」
もっともな理屈だった。フィーネは黙って先を促す。
「それに」
そこで一度言葉を切り、ダレンはフィーネの目をまっすぐに見る。
「この商会で、君の名前を隠す理由はもうない」
その一言に、フィーネは束の間、返す言葉を失う。この四年、誰かの前で自分の名を堂々と名乗ったことが何度あっただろうか。フォルクマー家でも、生家でも、フィーネの名はいつも誰かの後ろに控えているものだった。ここでは違う。仕事の中身を見て、対等な立場として契約を結ぼうとしている。
「事情については、何も伺わないんですか」
「いずれ話したくなったら聞く。今はまだ、その時じゃないんだろう」
ダレンの声には、それ以上の詮索も、憐れみめいた響きもなかった。ただ、事実をひとつ確認するような淡々とした調子だけがある。扉の外では、ヨーゼフが帳簿を片付ける音が聞こえていた。契約の話は、すでにヨーゼフの耳にも入っているのだろう。フィーネ・クロイツ殿が正式に、と誰かに漏らしているのを、廊下ですれ違った折に耳にしたばかりだ。
それだけ言うと、ダレンは席を立ち、フィーネが一人で決められるようにと、帳場を出ていった。扉が閉まる音が、いつもより大きく響いた気がした。
しばらく、フィーネは書類を前にじっと座っていた。本名を記すということは、フィーネ・ラングという人間がこの土地に存在すると、公に認めることになる。フォルクマー家やラング家に、いつか知られる日が来るかもしれない。誰かに追われる可能性を思えば、仮の名のまま働き続けるほうが、よほど安全だったはずだ。
それでも、迷いは驚くほど短く終わった。隠れたままでは、この先どこまで進んでも、名乗ることのできない自分がついて回る。仮の名で築いたものは、仮の名の分だけしか自分のものにならない。そう思い至った時、答えはもう決まっていた。断る理由を探すよりも、受け入れる理由のほうが、はるかに数多く胸に浮かんでくる。誰かの陰にひっそりと収まる生き方に、二度と戻りたくはなかった。
窓の外では、日が落ちきる前の淡い光が帳場を照らしている。机の抽斗には、あの日から鞄に入れたままだった羅針盤がしまわれていた。フィーネはそれを一度取り出し、掌に乗せてみる。父から持たされたこの品は、まだ記念の品でしかない。それでも、今この場で自分の進む方向を自分で決めているという事実が、その古い道具と重なって見えた気がした。羅針盤を抽斗に戻し、フィーネは改めて書類に向き直る。
ペンを取り、署名欄に自分の名をゆっくりと記す。フィーネ・ラング。四年ぶりに、誰かに提出する書類へ本名を書いた。インクが乾くのを待つ間、フィーネはその文字をしばらくじっと見つめていた。見慣れているはずの自分の名前が、今日はいつもと違う形に見える。
契約が結ばれたことは、その週のうちに商会の取引先各所へ形式通りの通達が回った。新しい経営顧問の名を添えた紹介状は、隣領内のいくつもの商会を経由し、卸商同士のありふれた噂話に混じって、やがてフォルクマー家とも縁のある商家の耳にも届くことになる。フィーネはまだ、そのことを知らない。
ヨーゼフが方々に配った紹介状の控えが、どこをどう巡っていくのか、いちいち気に留める余裕もなかった。ただ、自分の名を隠さずに済むということが、これほど軽やかなことだとは思っていなかった。
夜、宿への帰り道、フィーネは久しぶりに空を見上げた。星の位置はまだよく分からない。生家にいた頃なら、この時刻はとうに寝室に下がっている頃合いだった。それでも、隠れて歩く必要のない夜道は、これまでとは違う速さで進めるように感じられた。
契約書に自分の名を書いた瞬間、フィーネの手は初めて震えなかった。




