署名のない台帳
朝、机に届いた一通の書状に、エルンストは目を疑った。
長年取引を続けてきた紡績商会からの通告だ。次期の契約更新について、条件の見直しを検討したいとある。文面自体は儀礼的で、角の立たない言葉に終始していたが、行間ににじむ距離感は隠しようもない。これまで、この商会からこうした通告が届いたことは一度もなかった。長年の付き合いに胡座をかいていたつもりはなかったが、振り返れば条件の見直しなど求められたためしがない。書状を握る指先に、じわりと汗がにじんだ。
エルンストは書状を何度も読み返した。文面の裏に、何か自分の知らない事情があるのではないかと勘繰ってみる。近頃、取引先の顔ぶれに妙な噂が回っているという話は、耳の端に入っていた。フィーネの不在に関する体裁の説明を、どこまで真に受けてもらえているのか、確かめる術はない。だが、この書状の素っ気なさは、少なくとも歓迎の色をひとつも含んでいなかった。
念のためにと、エルンストはその日のうちに商会を直接訪ねることにした。以前であれば、顔を出せば当主自ら茶を出して迎えてくれた間柄だ。ところが応対に現れたのは、番頭格の若い男でしかなかった。
「あいにく、主人は他の用がございまして」
型通りの断り文句の後、条件の話に入ろうとすると、相手の受け答えは終始素っ気ない。以前の取り決めの細部を尋ねられても、エルンストは記憶を頼りに答えるほかなく、その心もとなさが相手にも伝わっているのが分かった。数字を挙げるたびに、若い男の眉がわずかに動く。以前と違う、と顔に書いてあるようだった。「以前と条件が変わっていないか、念のため確認させていただければ」と食い下がられ、エルンストは曖昧な返事しかできない。話は具体的な進展のないまま、日を改めるということで終わる。
帰り道、馬車の窓から見える取引先の看板をひとつひとつ数えながら、エルンストはこれまでの商談がいかに滑らかに運んでいたかを思い返していた。値引きの交渉も、納期の調整も、揉め事らしい揉め事になった記憶がほとんどない。苦情めいた文句を言われたことすら、数えるほどしかなかったはずだ。あれらはすべて、誰かが裏で整えていたからこそ滑らかだったのだと、今になって思い知らされる。
その夜、エルンストは眠れなかった。妻になるはずだった人の顔を思い浮かべても、輪郭がひどく曖昧なことに、今さら気づく。執務室に灯りを点し、机の上に積まれた書類の山と向き合う。取引先ごとの支払い条件、納期の調整、過去の値引きの経緯。フィーネがいた頃、これらはすべて滞りなく片付いていた。何がどう決まっていたのか、今になって書類を繰っても、判然としない箇所ばかりが目につく。似た筆跡の走り書きが、あちこちの余白に残っているだけだ。
ある取引先との値引き交渉がどう決着したのか、書類には結果しか記されていない。どういう理屈でその値になったのか、フィーネがどんな言葉を選んで相手を納得させたのか、そこまでは残っていなかった。結果だけを引き継いでも、次に同じ相手と向き合った時、同じ結果を導ける保証はどこにもない。これほどの量を、彼女は一人でこなしていたのか。今さらながらに、その量の多さに気が遠くなる。夜明けが近づいても、エルンストは書類の山を半分も片付けられずにいた。
夜が明けても、エルンストは答えを見つけられずにいた。藁にもすがる思いで、翌朝には隣領のオスヴァルト商会へ向かうことに決めていた。かつて何度か名だけは聞いたことのある商会だ。困った時の相談先として、悪くない評判を耳にしている。
応対に出たのは、恰幅のいい番頭だった。ヨーゼフと名乗ったその男に、エルンストは以前の取引条件を書き記した紙を差し出し、似たような形での仲介を頼めないかと切り出す。ヨーゼフは紙にざっと目を通し、しばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「これを組んだ方は、こちらにはいらっしゃらないはずですが」
言葉自体は穏やかだった。だが、その意味するところは、エルンストの喉元に突き刺さるように届く。この条件を組んだのは自分ではない。誰もが分かっていたことを、他人の口から改めて指摘されたに過ぎなかった。周囲にいた商会の使用人たちが、何事かという顔でこちらを見ている。帳場の隅で荷を数えていた若い下働きの少年までもが、手を止めてこちらを窺っていた。エルンストは何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「それは、どういう」
かろうじて絞り出した問いに、ヨーゼフは表情を変えないまま、言葉を選ぶように続けた。
「以前、これとよく似た条件で取引をなさっていた方がおいでだったと、風の噂で耳にしたものですから」
それ以上は、何も明かさない。ヨーゼフの口ぶりは、深追いを許さない静かさを保っていた。誰のことを指しているのか、エルンストには嫌というほど分かった。それでも、その名を自分の口から出す気にはなれない。エルンストはそれ以上尋ねることもできず、かろうじて日を改めると言い残し、逃げるように商会を後にする。表の通りに出てからも、背中に視線が残っているような気がして、しばらく振り返ることができなかった。
帰りの馬車の中、御者が遠慮がちに声をかけてくる。手綱を握る背中越しに、心配そうな声だった。
「旦那様、顔色がずいぶんと」
「何でもない」
そう答えたきり、エルンストは窓の外に目をやった。行き過ぎる景色を眺めながら、頭の中では同じ問いだけが繰り返される。これまでの取引は、いったい誰が支えていたのか。答えはとうに分かっていた。分かっていて、見ないようにしていただけだ。
屋敷に戻ると、エルンストは執務室の帳面を一枚ずつ捲った。過去の契約書、取引先ごとの署名欄。差出人の欄にはフォルクマー家の名が連なっているが、実際に条件を詰め、文言を整えていた手は、その名の陰にずっと隠れている。捲る手が、途中で止まった。
これから先、同じことが幾度でも繰り返されるのだろう。取引先を訪ねるたびに記憶を頼りに答え、その心もとなさを見透かされる。誰かにそれを見抜かれるたびに、今日のような屈辱を味わうことになる。逃げ場はどこにもなさそうだった。エルンストはしばらく帳面を閉じられないまま、灯りの落ちた部屋で立ち尽くしていた。
取引先の署名欄に、彼女の字はもうどこにもなかった。




