迎えの馬車
その日の午前中は、いつも通りに過ぎていた。取引先から届いた発注書を確認し、来週の商談に向けて条件をいくつか練り直す。ヨーゼフが淹れてくれた茶を飲みながら、フィーネはこの一月ですっかり馴染んだ帳場の匂いに、安らぎのようなものを覚えていた。
窓から差し込む光も、通りを行き交う荷馬車の音も、もう驚くほど当たり前のものになっている。この土地に来た当初は、こんな日が来るとは思ってもみなかった。昼過ぎには隣国語の書簡を一通仕上げる予定で、それが済めば今日の仕事は一段落するはずだった。
昼を過ぎた頃、帳場の窓から一台の馬車が商会の前に停まるのが見えた。
見覚えのある紋章が扉に描かれている。フォルクマー家の馬車だ。フィーネは手元の書類から視線を上げ、しばらくその紋章を見つめていた。驚きよりも先に来たのは、ずいぶん遠いところにあるものを見ているような、奇妙な距離の感覚だ。もう自分とは関わりのない紋章のはずなのに、体は反射的にその意味を思い出している。窓越しに見るその紋章は、記憶にあるよりも小さく見えた。
商会の戸口に現れたエルンストは、記憶の中の彼とは別人のようだった。頬がこけ、瞼の下には濃い影がある。仕立てのよい上着は、以前と同じもののはずなのに、着る人間が痩せたせいで、どこか余っているように見えた。以前なら、どんな場でも姿勢を崩さなかった人だ。今は、立っているだけで精一杯という様子だった。靴の泥も払われないまま、旅の疲れをそのまま纏っている。馬車を乗り継いで、休みなくここまで来たのだろう。
ヨーゼフが応対に出ようとするのを、エルンストは押しのけるようにして帳場に踏み込んでくる。周囲で作業をしていた使用人たちが、何事かという顔で手を止めた。帳場の空気が、一瞬にして張り詰めるのが分かる。誰かの手からペンが転がり落ちる音が、やけに響いた。誰もが息を潜めるようにして、成り行きを見守っている。
「フィーネ」
四年間、幾度となく呼ばれてきた声だった。それでも今、その声にはどこか縋るような響きが混じっている。以前より、明らかに掠れていた。フィーネは筆を置き、椅子からゆっくりと立ち上がった。逃げも隠れもする理由はない。
「戻ってきてくれないか。お前がいなければ、家がもたない」
懇願というより、悲鳴に近い響きだった。
エルンストの声は、震えを隠しきれていなかった。取引先が離れ、縁談が来なくなり、屋敷の中の些細な用事ひとつ満足にこなせない日々が、その顔つきにそのまま刻まれている。かつての彼なら、こうして人前で弱みを見せることを何より恐れていたはずだった。今のエルンストには、そんな見栄を張る余力すら残っていないように見える。
「頼む。この通りだ」
そう言うと、エルンストはその場に深く頭を下げた。フォルクマー家の当主が、商会の帳場で、雇われの身の女に対して頭を下げている。居合わせた使用人たちが、驚いた顔で互いに視線を交わすのが、フィーネの目の端に映った。誰も、口を挟もうとはしない。
帳場の隅で帳面をつけていた若い娘まで、ペンを持ったまま固まっていた。表通りを行き交う人の声だけが、やけに大きく聞こえる。時が止まったような、長い数拍だった。
フィーネはしばらく、頭を下げたままのエルンストを見ていた。かつてこの人の前で、幾度「かしこまりました」と答えてきたか。あの言葉を口にするたび、少しずつ何かを手放してきたのだと、今なら分かる。それでも、今ここで湧き上がってくるのは、怒りでも憐れみでもなかった。ただ、静かな確信だけがある。四年かけて積み上げた諦めが、今この瞬間だけは、確かな足場に変わっていた。
「申し訳ございませんが、お戻りすることはできません」
声は落ち着いていた。自分でも、驚くほどに。
「フィーネ、お前が抜けてから、屋敷がどうなっているか」
「存じております。ヨーゼフ殿からも、伺うことがございました」
フィーネは静かに応じた。感情を込めず、ただ事実を確認するような口調で。エルンストは一瞬、何かに躓いたような顔をした。フィーネがすでに事情を知っていることが、想定の外にあったのかもしれない。
「では、なおのこと」
「ですが、それは私が背負うべきものではございません」
きっぱりとした声だった。フィーネ自身、これほど迷いなく言い切れるとは思っていなかった。
エルンストが顔を上げる。そこにあったのは、怒りでも非難でもなく、ただ理解できないという困惑だけだった。彼にとってフィーネは、いつでも呼べば応じる存在だったのだろう。その前提が崩れることを、今この瞬間まで想像したことがなかったのかもしれない。
「私の名前は、もう別の場所にあります」
フィーネはそれだけを告げた。多くを語る必要はなかった。この一言に、四年分の答えのすべてが収まっている。
エルンストは何か言い返そうと口を開きかけたが、言葉にならなかった。行くあてを失った顔のまま、しばらくその場に立ち尽くしている。帳場の入り口に立ったまま、動けずにいるようだった。
その時、奥からダレンが静かに歩み寄ってきた。エルンストにも聞こえる距離で、ダレンはフィーネにだけ向けて短く問う。
「戻りたいなら、止めはしない」
責めるでもなく、引き止めるでもない、いつも通りの、淡々とした調子だった。フィーネはその言葉に、少しの間、何も答えなかった。答えを探していたわけではない。ただ、この問いに対する自分の気持ちを、初めて誰かの前で言葉にしてみたかった。
「戻りたいと思ったことは、一度もありません」
フィーネは言葉を継いだ。
「あちらでの私は、誰かの代わりに動く存在でした。名を隠して、頼まれたことだけをこなす日々でした。ここでは、自分の名前で仕事をしています。その違いは、私にとって思っていた以上に大きなものでした」
言葉にしてみて、フィーネは自分でも初めて気づくことがあった。これまで誰にも説明したことのない違いを、こうして口にできる相手がいる。それだけで、この一月の日々の意味が、少しだけはっきりと形を持つ気がする。
「怖くはなかったのか」
ダレンが珍しく、もう一言だけ続けた。窓の外の喧騒に紛れそうなほど、小さな声だった。
「身元の証もなく、頼る相手もいない土地で、一から名乗り直すことが」
「怖くなかった、と言えば嘘になります」
フィーネは正直にそう答える。
「それでも、あちらに留まり続けることのほうが、私には恐ろしく思えました。何を頼まれても断らない自分を、この先も見続けることになる。そのほうが、余程恐ろしいことでした」
言い終えてから、フィーネは自分の声が最後まで揺らがなかったことに、内心でわずかに驚いていた。
ダレンは黙ったまま、静かに頷いた。それ以上、何も尋ねることはしない。ただ、フィーネの言葉をそのまま受け止めている様子だった。
「そうか」
それだけを言うと、ダレンは帳場の奥へと引き返していく。エルンストとフィーネを、その場に残したまま。詮索も、余計な口出しもしない。その距離の取り方が、今のフィーネには何より有難かった。
戸口に立ち尽くしていたエルンストは、フィーネとダレンのやり取りを黙って聞いていた。反論する言葉も、縋る言葉も、もう残っていないようだった。名を隠して働かねばならなかった四年間の意味を、今になって初めて知らされたような顔をしている。
窓の外はすでに暮れかけていた。ようやく何かを諦めたように、小さく、しかし深く頭を下げる。四年の間、一度も見たことのない仕草だった。かつての誇り高さは、もうどこにも見当たらない。
フィーネは自分の中に、引き止めたいという気持ちがひとかけらも残っていないことを確かめていた。かつては当たり前のように隣にあった存在が、今はただの見知らぬ旅人のように遠い。
四年という歳月が、こんなにもあっけなく過去になるものかと、我ながら意外に思うほどだった。ヨーゼフをはじめ、帳場の使用人たちが、詰めていた息をそっと吐き出すのが分かった。誰も、今起きたことについて口には出さない。
頭を下げるエルンストに、フィーネは深く、けれど短く一礼して、扉のほうへ歩き出した。




