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行方不明とされた令嬢は、隣領で静かに商会を立て直していた  作者: 九葉(くずは)


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フィーネ・クロイツ

隣領の港町に着いて三日目、フィーネの手持ちの路銀は、心細いところまで減っている。


宿の窓から見える通りは、生家の周りとはまるで違う匂いがした。潮と、荷を運ぶ荷車の軋みと、聞き慣れない訛りの呼び声。すれ違う人々の誰ひとり、フィーネの顔も名も知らない。それだけのことが、これほど心細く、同時にこれほど清々しいとは思っていなかった。宿代を払えば、手元に残るのはあとわずかしかない。今日中に、何かしらの当てを見つける必要がある。


宿の主人に教えられるまま、目抜き通りに軒を連ねる商会をひとつずつ回った。一軒目では、人手は足りていると門前で断られた。二軒目では、身元を証す書状を求められ、持たない旨を告げると、それきり相手にされなかった。三軒目は、そもそも臨時雇いという発想自体がないという顔をされる。三軒とも、けんもほろろな扱いだ。それでも足を止めるわけにはいかない。四軒目に訪ねたオスヴァルト商会の戸口に、臨時雇いを募る貼り紙を見つけた時には、藁にもすがる思いだった。


応対に出たのは、四十半ばと見える恰幅のいい男だ。腕を組んだまま、値踏みするような視線をこちらに向けている。番頭のヨーゼフと名乗った彼は、フィーネの粗末な身なりと、身元を証す書状の一枚もない事情を見て取ると、あからさまに眉をひそめた。


「うちは荷の出入りが多い。よそ者にすぐ任せられる仕事はそう多くないんだが」


「帳簿の整理でも、荷の勘定でも構いません。まずは半日、試していただけませんか」


フィーネは名を、フィーネ・クロイツと名乗る。生家ともフォルクマー家とも縁のない、この土地に来る道中でひとりで決めた名前だ。舌の上でまだ馴染まないその響きを、フィーネは意識して落ち着いた声で口にした。ヨーゼフはしばらく値踏みするようにフィーネを見つめていたが、やがて肩をすくめ、裏の帳場に通す。


帳場には、積み上げられた帳面が山をなしていた。半年分は溜まっているだろうか。壮観だった。ヨーゼフは山の一番上を無造作に指し、これを片付けられるならという顔をする。フィーネは礼を言い、椅子に腰を下ろすと、黙々と数字を追い始めた。


荷の受け渡しと支払いの記録が、あちこちで食い違っている。誰かが急いで書き付けたまま、突き合わせを怠ったのだろう。数字の癖からして、複数の手が入っているのが見て取れた。ある箇所では、荷の到着日と支払いの記帳日が入れ替わっており、それだけで帳尻が半月分ずれている。別の箇所では、同じ取引先の名が二通りの綴りで記されていて、別々の相手として扱われていた。フィーネは該当箇所に印を付け、正しい額を余白に書き添えていく。指先の動きに迷いはない。この程度の食い違いなら、原因の見当はすぐにつく。フォルクマー家の帳簿でも、似たような綻びを幾度となく繕ってきた。半刻もしないうちに、山の半分を片付けていた。


「これは」


戻ってきたヨーゼフが、帳面を覗き込んで声を上げる。三月前から誰も合わせられずにいた数字だという。フィーネの手つきに、警戒の色がわずかに緩んだ。ヨーゼフはもう一冊、別の帳面を手に取り、無言でフィーネの手元に置く。試すつもりなのは明らかだった。


「どこで、こういう仕事を」


「少々、慣れておりますので」


それ以上、答えることはない。ヨーゼフも、それ以上は問わなかった。ただ、値踏みする目つきが、いくらか和らいでいる。残りの帳面をもう一山、黙って机の上に積み増しただけのことだった。


夕刻、商会主のダレン・オスヴァルトが帳場に顔を出す。三十前後の、寡黙な印象の男だった。父親から傾いた商会を継いだばかりだという噂は、負債の噂や後継ぎへの陰口とあわせて、宿でも耳にしている。ダレンはヨーゼフから今日の顛末を聞き、フィーネの仕事ぶりを記した帳面に黙って目を通した。表情はほとんど動かない。それから、フィーネの足元に置かれた小さな鞄に、視線を止める。


留め具の緩んだ隙間から、隣国の文字で埋まった書類の端が覗いていた。長年の癖で、鞄の口をきちんと閉じたつもりだったが、旅の道中で留め具が緩んでいたらしい。フィーネは慌てて鞄を引き寄せたが、ダレンはすでにそれを見ている。


「隣国の言葉が読めるのか」


「多少は、心得がございます」


ダレンはそれ以上、鞄の中身について尋ねなかった。素性も、身元も、フィーネがなぜこの土地に流れ着いたのかも。ただ、帳面に記された今日の仕事ぶりだけを、もう一度確かめるように見返している。ヨーゼフが横から何か言いかけたが、ダレンは軽く手を上げてそれを制した。


「名前より先に、仕事を見て決める」


ダレンはそう言うと、明日からも来るようにとだけ告げ、帳場を出ていく。足音が遠ざかるまで、フィーネはその背を見送っていた。


詮索されなかったことに、フィーネはかすかな戸惑いを覚える。この四年、誰かに何かを頼まれる時、フィーネの側の事情が問われたことは一度もなかった。都合よく使われるか、素通りされるか、そのどちらかだ。仕事の中身だけを見て判断するという態度に、覚えのない座り心地の悪さを感じる。悪い意味ではなかった。


窓の外はすでに暗い。行き交う人の声も、今はもう絶えている。ヨーゼフは帳場の火を落としながら、明日は少し早く来るようにとだけ言い残し、今日の分の日当を革袋に入れて寄越した。数えるまでもなく、宿代の心配は当面遠のく額だ。がらんとした帳場に、フィーネはしばらく一人で座っていた。


誰の指図でもなく、自分の意思で選んで応じた、初めての仕事だ。フィーネ・クロイツという名は、まだ誰の記憶にも根を張っていない。それでも、その名を口にした時、誰もその先を遮ろうとはしなかった。名乗った名前がそのまま受け止められるという、ただそれだけのことに、胸の奥がかすかに軽くなるのを感じる。


フォルクマー家の名を出せば、たいていの用は先に片付いた。同時に、フィーネ自身の名は、いつもその後ろに隠れたままだ。ここでは順序が逆になる。仕事の出来を見せて、それからようやく名前を尋ねられる。慣れない順序のはずなのに、不思議と落ち着かないということはなかった。


明日も、この帳場に来ていいのだと思うと、鞄の持ち手を握る手に、わずかに力が戻る。窓の外では、絶え間ない潮騒の音が、まだ遠くに続いていた。


偽りの名を名乗った日、フィーネの声は初めて誰にも遮られなかった。

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