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行方不明とされた令嬢は、隣領で静かに商会を立て直していた  作者: 九葉(くずは)


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3/9

ゲアハルトの朝

いつもの時刻に、フィーネの部屋の扉が開かないことに、ゲアハルトは朝の見回りで気づいた。


普段なら、この刻限には既に机に向かい、何通かの返信を書き終えている頃だ。扉を軽く叩いても、返事はない。体調を崩しているのかもしれない。最初はその程度に考えていた。ほかの用事を片付け、しばらくしてから再び様子を見に行っても、部屋の中は静まり返ったままだった。


ノックにも応えがないまま昼を迎え、女中頭に確かめさせると、寝台には手がつけられた様子がないという。衣装棚の一部が空になっていることも、程なく知れた。宝飾の類や華美な衣装には手がつけられておらず、消えているのは目立たない普段着ばかりだ。誰かに盗られたのではないことだけは、ひと目で知れた。


エルンストに報告すると、彼は最初、大したことではないという顔をした。


「そのうち戻るだろう。気晴らしにでも出かけたんじゃないか」


その楽観は、昼を過ぎるころには崩れることになる。


取引先の商会から確認状が届き、返信を書かねばならなかった。いつもならフィーネが半刻もかからず仕上げていた類のものだ。ゲアハルトは机に向かい、まず言葉に詰まった。支払いの猶予をどう申し出ればよいのか、相手の機嫌をどこまで気にかけるべきか、勝手がまるでわからない。


「今後の取引継続を鑑み」と書いてみて、堅苦しすぎると気づいて線を引く。「何とぞご容赦のほど」と書き直しても、今度は卑屈に響く気がしてまた線を引く。フィーネの書く文面には、いつも堅さと柔らかさのちょうどよい按配があった。それがどういう塩梅だったのか、思い出そうとしても輪郭がつかめない。書いては破り、書いては破りを繰り返すうちに、日が傾き始めた。文面はどうにか整えたものの、出来映えには自信が持てない。これでよいのかと問う相手も、屋敷にはもういない。フィーネならどう直すだろうか、と考えかけて、ゲアハルトはその考えを途中で打ち切った。今はもう、確かめる術がない。


さらに悪いことに、その日の午後、契約の見直しを相談したいという取引先の担当者が屋敷を訪ねてきた。応対に出たエルンストの隣で、ゲアハルトも同席した。


「以前ご相談していた支払いの猶予の件ですが、条件はいかがなさいますか」


担当者にそう問われ、エルンストは言葉に詰まった。数字が出てこない。以前の取り決めがどうなっていたかを思い出そうとして、視線が宙をさまよう。


「それは、追って書面で」


苦し紛れにそう答えると、担当者は怪訝な顔を隠さないまま、日を改めると言って帰っていった。玄関先でその背を見送りながら、ゲアハルトは自分の胸の内にも同じ動揺が広がっているのを感じた。何か助け舟を出すべきかとも思ったが、自分もまた条件の詳細を知らない。結局は隣で立ち尽くすしかなかった。


夕刻、ゲアハルトはフィーネの部屋をあらためて検めた。机の抽斗、棚の隅、鍵のかかりそうな箱。取引先とのやり取りを記した覚書のようなものが、どこかに残っていないかと期待してのことだ。抽斗の奥から古びたそろばんが出てきたが、それだけだった。しかし、覚書らしきものは一枚も出てこない。あるのは、私物の並びがわずかに崩れた跡だけだった。


これほど整然と、何も残さずに去れるものだろうか。長年、屋敷のあらゆる引き継ぎに立ち会ってきたゲアハルトにも、覚えのないやり方だった。新しく雇い入れた使用人にすら、簡単な手順書を渡すのが習わしだ。それが一枚もないということは、彼女がそもそも紙に頼らず、すべてを頭の中だけで捌いていたということになる。彼女がどれほどの量をひとりで抱えていたのか、この空っぽの抽斗を見て初めて思い知らされた。


夜、エルンストは対外的な説明を決めた。フィーネは体調を崩し、療養のため実家に戻っている。あるいは、行方が分からず、目下捜索中である。


「どちらの言い方がよいと思う」


エルンストに尋ねられ、ゲアハルトはすぐには答えられなかった。どちらを選んでも、家名の体裁を保つための言葉であることに変わりはない。結局、当面は前者で通すことにエルンストが決め、ゲアハルトはそれを黙って聞くしかなかった。


台所の脇を通りかかった折、女中たちの話し声が耳に入った。


「フィーネ様がいらっしゃらないと、こんなにも回らないものなのね」


「旦那様お一人では、取引先の応対もままならないみたい」


「今まで、いったい何をなさっていたのかしら、あの方は」


咎めるつもりのない声だった。むしろ、素朴な驚きに近い響きだ。誰かがフィーネを悪く言っているわけではない。ただ、いなくなって初めて、その存在の輪郭に気づいたという口ぶりにすぎない。それでも、その素朴さが、かえってゲアハルトの胸には重い。ゲアハルトはその場に立ち止まりかけたが、結局、何も言わずに通り過ぎる。訂正すべき言葉も、正確に説明できる言葉も、自分の中には見つからなかった。


彼女の名を呼ぶための言葉を、屋敷の誰も持っていなかった。

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