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行方不明とされた令嬢は、隣領で静かに商会を立て直していた  作者: 九葉(くずは)


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2/9

出立

夜明けまでにはまだ間がある時刻に、フィーネは自室の抽斗をひとつずつ開けていった。


急ぐ必要はなかった。荷造りの中身は、もう何日も前から頭の中では決まっている。あとは、その通りに手を動かすだけだった。窓の外には月もなく、部屋を照らすのは小さな蝋燭ひとつきりだ。灯りを大きくしないのは、外に漏れる光を用心してのことだった。


最初に取り出したのは、着替えの一式だった。華美な部屋着や、婚約披露の折に仕立てさせられたドレスの類には手を触れない。あれらはすべて、フォルクマー家の名のもとに誂えられた品だった。旅の間、目立たずに済む簡素な服を三着だけ選び、鞄の底に畳んで収める。


続いて、身の回りの品を選り分けていく。祖母から譲られた櫛。実家の庭で摘んだ押し花を挟んだままの手紙の束。母が編んだ古い肩掛け。以前、隣国語の勉強のために書き写した商用文の写しも、数枚だけ紛れ込ませた。どれも自分の手で購えたものか、実家から持ち込んだものだけだ。逆に、婚約の記念にとエルンストから贈られた首飾りには、指の先すら触れなかった。あれは婚約という関係に付随した品であり、関係が終われば手放すべきものだ。そう決めている。


婚約が調ったのは、フィーネが十八になった年の春だった。両家の顔合わせの席で、義母となるはずだった人に「あなたなら安心して任せられる」と言われた時、それを重荷だとは思わなかった。むしろ、誰かの役に立てることを誇らしいとさえ感じていた。最初に頼まれたのは、ちょっとした招待客の名簿整理にすぎない。次に、届いた祝いの品への礼状。次に、支払いの遅れた仕立屋への詫び状。頼まれ事はひとつずつ増え、気づいた時には、フォルクマー家の実務の相当な部分がフィーネの持ち場になっていた。誰かがそう仕向けたわけではない。ただ、断らずにいるうちに、そうなっていっただけのことだった。断らない娘だと知られれば知られるほど、頼み事はさらに集まってくる。その仕組みに気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。


机の抽斗の奥から、フィーネは小さな革の袋を取り出す。開けると、古い羅針盤が現れた。実家を出てフォルクマー家との縁談が調った時に、父から持たされた品だった。この四年、一度も使う機会のなかったものだ。針は錆びかけているが、まだ北を指し示す動きだけは失っていない。フィーネはしばらくそれを掌に乗せて眺めた。父が今夜のことを知れば、何と言うだろう。想像しても、答えは出てこない。記念に持っていくだけの、ただの飾りにすぎない。そう自分に言い聞かせ、袋ごと鞄の内側に押し込んだ。


そろばんには、手をかけなかった。あれは屋敷の備品として買い与えられたものであり、フィーネの私物ではない。珠の艶に指の跡が残っていようと、それは変わらない。抽斗に戻し、蓋を閉じた。


もうひとつ、ずっと考えていたことがある。取引先への引き継ぎだった。長年やり取りしてきた相手先の一覧、支払いの猶予をどこまで頼めるか、機嫌を損ねやすい癖、口約束の中身。それらを一枚の書き置きにまとめておくべきかどうか、この数日、幾度も自問してきた。書くべきだという思いと、書いたところで誰にも扱えないという思いが、交互に浮かんでは消えていく。


結局、フィーネは何も書かなかった。悪意があるわけではない。誰かを困らせてやろうという気持ちも、正直なところない。ただ、そもそも書き出すという形にしたことが一度もなかった。取引先ごとの機微は、いつも頭の中でだけ組み立てられ、頭の中でだけ処理されてきたものだ。今さら一枚の紙にまとめようとしても、どこから手をつければいいのか、フィーネ自身にも見当がつかない。数字だけを並べた覚書なら書けるかもしれないが、それでは肝心なところが伝わらない。


だから、机の上には何も残さない。詫び状の一通も、置き手紙の一枚も。それが不親切だと咎められることは、覚悟していた。それでも構わない。


荷物をまとめ終えると、フィーネは蝋燭を吹き消し、しばらく暗闇の中に立っていた。窓の外はまだ黒く、屋敷全体が寝静まっている。誰かに見つかる心配はほとんどない。それでも、足音を殺す癖だけは体に染みついたまま抜けなかった。


部屋を出る前に、フィーネは一度だけ振り返った。この部屋に机を据えたばかりの頃、まだ何もかもが物珍しかった朝のことを思い出す。四年のあいだ、数えきれない書簡をここで書いてきた。誰かの名で出され、誰の記憶にも残らなかった仕事の跡。名残惜しさのようなものが、たしかにある。けれど、それ以上に強く感じたのは、ここにはもう自分の名前で呼ばれるものが何もない、という乾いた確信だった。


廊下は静まり返っていた。使用人たちの部屋の前を通る時も、灯りひとつ漏れていない。父の書斎の前を過ぎる時だけ、フィーネはわずかに歩みを緩めた。幼い頃、この部屋でよく数字の読み方を教わった。あの頃の父は、フィーネに何かを託すつもりで教えていたわけではなかったはずだ。それでも、教わったものは今、確かにフィーネの中に残っている。


階段は音を立てないよう、端のほうを選んで降りた。使用人たちが起き出すには、まだ一刻ほど早い。玄関ではなく裏口を選んだのは、朝の見回りに来る誰かと鉢合わせる危険を避けるためだった。裏口の鍵をそっと外す。使い終えた鍵は、元の位置に戻した。誰かに疑われるようなことだけは、最後まで残したくなかった。


裏庭を抜けると、夜気が思いのほか冷たかった。あらかじめ調べておいた道を辿ると、村はずれに一台の乗合馬車が停まっている。御者は寝ぼけ眼で手綱を握っていた。フィーネは行き先を告げ、運賃を渡し、狭い座席の隅に腰を下ろす。他に乗客の姿はない。


馬車が動き出す。窓の外を、見慣れた生垣と、屋敷の門灯が過ぎていく。誰かが追いかけてくることはない。呼び止める声も、灯りを掲げて走り出てくる人影もなかった。当然だった。フィーネがいなくなったことに、まだ誰も気づいていない。


門灯が遠ざかるにつれ、フィーネは膝の上で両手を重ねた。悲しみのようなものが胸の底にないわけではない。それでも涙は出てこない。もう長いこと、泣くという反応そのものを忘れているような気さえした。


代わりに浮かんだのは、これから先のことだった。隣領に着いたら、まず家名を変える。ラングの家名は、生家にもフォルクマー家との間柄にも結びつきすぎている。次に、当座をしのぐだけの仕事を探す。身分を証す書状は持たない。持てるはずもない。頼れるのは、これまで培ってきた帳簿と交渉の勘だけだった。


不安がないと言えば嘘になる。仕事が見つからなければ、路銀は数ヶ月と持たない。年齢を偽ることもできず、身元を保証してくれる者も隣領にはいない。それでも、恐ろしさよりも、乾いた解放感のほうがわずかに勝っていた。誰かに頼まれて動くのではなく、自分の判断だけで次の一歩を選ぶ。そのことが、こんなにも軽いとは思っていなかった。


御者が小さく欠伸をし、馬に短く声をかける。轍の継ぎ目を越えるたび、車体がわずかに軋んだ。窓の外に流れる景色は、見慣れた牧草地から、やがて見たことのない雑木林へと変わっていく。フィーネはその変化を、ひとつひとつ目で追った。見覚えのないものが増えていくことが、今は恐ろしさよりも安堵に近い感覚を連れてくる。


夜明けの気配が、東の空にわずかに滲み始めている。馬車は街道を進み、屋敷のある方角はすでに遠い。振り返れば、まだ屋敷の輪郭くらいは見えるかもしれない。フィーネはあえてそちらに目をやらなかった。膝の上の鞄には、羅針盤の重みだけが小さく伝わっている。父ならば、この道の先に何を見るだろうか。答えの出ない問いを、フィーネは急いで手放した。今はまだ、記念の品でしかない。それでいい。


道の両脇に並ぶ木々の輪郭が、少しずつ濃さを増していく。夜が明けきる前のこの時間が、フィーネは昔から好きだった。誰にも呼ばれず、誰にも頼まれず、ただ自分だけが起きているような、静かな錯覚を許してくれる時間だ。この先の暮らしがどうなるか、確かなことは何ひとつない。それでも、この時間だけは、しばらく自分だけのものにしておいてもいいはずだった。


馬車の轍が屋敷の門を離れても、フィーネは一度も窓の外を振り返らなかった。

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