都合のいい令嬢
朝の光が執務机に届く頃には、フィーネはすでに三通の返信を書き終えていた。
フォルクマー家の別邸に置かれたこの小部屋は、本来は誰のためのものでもない。取引先からの確認状、縁談がらみの近況伺い、社交界の招待への礼状。差出人の名は常に父か婚約者のものだが、文面を整えるのは決まってフィーネの役目だった。手元のそろばんは、この執務机に据えられてから幾年も経つ屋敷の備品で、珠の艶は幾年もの指の跡でとうに丸くなっている。数字を合わせるだけの単純な作業に見えて、その裏には取引先ごとの機嫌や、支払いの猶予をどこまで頼めるかという、誰にも見せない判断が積み重なっていた。
この部屋に机を構えるようになったのは、婚約が決まった直後のことだ。義母となるはずだった人に「あなたなら安心して任せられる」と言われ、以来この場所はフィーネの持ち場になった。安心という言葉が、都合がいいという言葉の言い換えでしかないと気づいたのは、もっと後になってからのことだった。
茶を運んできた侍女が、盆を置きながら言う。
「フィーネ様は本当にお勤めが早くていらっしゃいますね。おかげでこの家は助かっております」
悪気のない言葉だった。むしろ好意からの称賛だとわかっている。フィーネは礼を言い、茶に口をつけた。助かっている、という言葉の軽さだけが、いつまでも耳の奥に残る。
書き終えた返信に封をしていると、扉の外で足音がした。
「フィーネ様、旦那様がお呼びです」
筆を置く。呼ばれる理由に、心当たりはひとつしかなかった。
エルンストの執務室に入ると、彼は椅子に深くもたれ、指先で肘掛けを軽く叩いていた。困りごとがある時、彼はいつもこうして落ち着かなさを隠しきれない。フィーネは扉を閉め、続きを待った。
「また、あの人が」
エルンストは言葉を選びながら切り出した。街の宝飾店で、婚約披露の贈り物と偽って高価な品を仕立てさせ、支払いを先延ばしにしたまま姿を消したのだという。店主は業を煮やし、近くフォルクマー家に直接掛け合いに来る構えらしい。話す間、エルンストの声には申し訳なさよりも、面倒事から一日でも早く解放されたいという響きのほうが勝っている。
「店主にはどのように」
フィーネが尋ねると、エルンストは肩をすくめた。
「そこまでは、お前に任せる。昔からそうしてきただろう」
「お前が一番うまく収めるだろう。いつものように頼む」
その言い方に、フィーネは驚かなかった。驚けなくなっていた、というほうが近い。似た頼み事を、これまで幾度受けてきたか。店主への詫び状の文面、支払いの分割案、外に漏れないための手土産の選定。組み立て方は毎回違っても、頼まれる自分の立場だけは、四年のあいだ変わったことがない。
「かしこまりました」
答える声は、いつもと同じ調子で出た。エルンストは安堵した表情を見せ、それ以上フィーネの顔を見ない。用件は済んだとばかりに、机の上の別の書類に手を伸ばす。フィーネが一礼して下がる間も、彼の視線が一度もこちらに戻ることはなかった。
その日の午後、フィーネは自ら宝飾店に足を運んだ。扉を開けると、店主は待ちかねたように腕を組んで立っている。
「約束の期日はとうに過ぎております。フォルクマー家のご令嬢とはいえ、これ以上はお待ちできません」
「承知しております。まずは、これまでの経緯を伺わせてください」
フィーネは店主の言い分を遮らずに聞き終えると、支払いを三度に分けて納める案と、当面のあいだ屋敷の贈答品をこの店から継続して仕立てるという条件を静かに並べた。店主の眉間の皺が、少しずつ緩んでいく。
「二月以内に、最初の分だけでも」
「一月半以内に。その代わり、次の贈答の発注は必ずこちらから」
店主はしばらく黙り込み、深く息を吐いてから頷いた。
「フィーネ様がそうおっしゃるなら」
名指しで頼りにされているのは、いつもエルンストではなく、フィーネのほうだった。フォルクマー家の名は、この日もどうにか守られる。
店を出て馬車に戻る道すがら、フィーネは自分の返事を胸の中でもう一度なぞった。かしこまりました。この四年、数えきれないほど口にしてきた言葉だった。断ったことは一度もない。断るという発想自体を、いつからか持たなくなっていた。
その夜、自室に戻ったフィーネは、卓上にそろばんを引き寄せ、宝飾店に支払った額を確かめるようにもう一度弾いた。珠の音だけが響く静かな部屋で、指先は迷いなく動く。この程度の計算なら、もう考えるまでもない。
問題は、金額ではなかった。
弾きながら、フィーネは頭の中で数えていた。似たような後始末を、これまでいくつ引き受けてきたか。相手の顔、頼まれた場所、断らなかった自分の返事。数えるほどに、その数はきりがないことに気づく。紙に書き出したことは一度もない。誰かに読まれて困るからではなく、そもそも書き出すという発想を持ったことがなかった。すべては、フィーネの頭の中にだけある。
もし今、ここを去るとしたら、何を持っていけるだろう。持っていけるものなど、最初からほとんどない。取引先との信頼も、店主たちの顔も、フォルクマー家という看板があってこそ通用してきたものだ。それでも、看板を失えば何も残らないとは、どうしても思えなかった。看板の下で交わしてきた言葉のひとつひとつは、フィーネ自身が選び、組み立ててきたものだった。
そろばんを置き、フィーネはしばらく蝋燭の火を見つめる。守ってきたのは、フォルクマー家の体面であり、エルンストの安穏でもある。誰ひとりとして、フィーネ自身の名前を守ろうとしたことはない。
窓の外はすでに暗い。灯りを落とさないまま、フィーネはしばらく机の前に座っていた。明日、また同じような頼み事が来ても、断らない自分の姿が容易に浮かぶ。浮かんでしまうことが、何より恐ろしかった。
決めるべきことは、もう決まっている。あとは、いつ、どのように動くかだけだった。
翌朝、宝飾店との話がついたことをエルンストに報告すると、彼は簡単に礼を言い、すぐに別の話題に移った。書類に落とされたその視線に、昨夜の決意を疑わせる隙は見当たらない。フィーネの表情にも、いつもと違うところは何もなかった。
「今回も助かった。お前がいると、本当に心強い」
エルンストの言葉に、フィーネは静かに頭を下げる。心強い、という響きの軽さに、驚きはもうなかった。
かしこまりました、とフィーネは最後にもう一度だけ、その言葉を選んで使った。




