Chapter Five Le Sang de la Rose
父から呼ばれたのは、翌朝のことだった。
アルベール・ヴァレンタイン。
ヴァレンタイン家の当主であり、私の父だ。
冷静で、計算高く、感情を表に出すことを好まない人間。
私が誰かに似ていると言われるとすれば、それはたいていこの人のことを指している。
褒め言葉だと受け取るべきか迷うが、おそらく事実ではある。
父の執務室は邸の奥にある。
分厚い扉を開けると、書類の並んだ机の向こうで父は書き物をしていた。
私が入っても顔を上げなかった。
それがこの人の流儀だ。急がない。焦らない。
相手を待たせることで、無言のうちに主導権を握る。
私は椅子に座って待った。
同じことをやり返した。
しばらくして、父は筆を置いた。
「ダリウス侯爵のことを調べているそうだな」
「どこでお聞きになりましたか」
「関係ない。深入りするな」
「理由をお聞かせいただけますか」
父の目が、初めてこちらを見た。
品定めするような目だった。
この目には慣れている。
幼い頃から、私はずっとこの目に値踏みされてきた。
愛情がないわけではないと今は知っている。
ただこの人の愛情は、いつも試験の形をしている。
「あれは手を出していい相手ではない」
「そのようですね。だからこそ気になります」
父はしばらく私を見ていた。
それから、ほんの少しだけ、口元が動いた。
確信はないけど笑ったのかもしれない。
「お前はいつもそうだ」
それだけ言って、また書き物に戻った。
それが父なりの、黙認だった。
✦ ✦ ✦
執務室を出ると、廊下で母のレイチェルと鉢合わせた。
母はいつも、こういうところに現れる。
父と私が話した後、偶然のように廊下で待っている。
本当に偶然なのかもしれないが、私はそうは思っていない。
少し後ろに、母の侍女が静かに控えていた。
長年母に仕え、そばにいる侍女
「アルベールと話していたの?」
「ええ」
母はしばらく私の顔を見ていた。
レイチェル・ヴァレンタイン。
この邸で唯一、私を値踏みしない目で見る人間だ。
それが時々、居心地悪かった。
値踏みには慣れているけれど慣れていないものの方が、扱い方が分からない。
「無理はしないでね」
「していません」
「そう」
彼女は微笑み、それ以上は何も言わなかった。
ただ、行きなさいと言うように少し体を引いて私のための道を空けた。
侍女も、静かに母の後ろへ下がった。
私は礼を言わずに歩き出した。
廊下の角を曲がってから、一度だけ振り返ったが母はもうそこにいなかった。
「無理はしないでね、か」
その言葉を、私はしばらく持て余した。
心配されることには慣れていない。
受け取り方が分からない。
だから考えるのをやめた。
今の私にはやるべきことがあるから、それだけを考えればいい。
✦ ✦ ✦
その夜、事態は動いた。
夜会の帰り道だった。
馬車が邸まであと少しというところで、急に速度が落ちた。
街灯の少ない区画に差し掛かった頃だった。
何かが道を塞いでいるのかと思った次の瞬間、御者の短い叫び声が聞こえた。
くぐもった音がして、それきり御者台が静かになった。
「え、なに?」
身体が緊張した。
本能的に、何かが違うと分かった。
窓の外を確認しようと身を乗り出した瞬間、馬車の扉が外から強引に引き開けられ蝶番が軋む音がした。
暗い路地で街灯の光が全く届かない、石畳の細い道。
目が慣れるまでの一瞬、何も見えなかった。
その一瞬で腕を掴まれた。
引きずり出される感覚は、思ったより暴力的だった。
ドレスの裾が引っかかり石畳に膝をついた瞬間、鈍い衝撃が膝から腰へ走った。
痛みより先に冷たさが来た。
夜の石畳の冷たさが、薄いドレス越しに直接、膝に刺さった。
顔を上げると、男が二人いた。
顔は布で覆われていた。
その手に、刃物が光っていた。
月明かりを受けて、鈍く白く光る刃だった。
声をあげようと喉まで来たところで、もう一人の男の手が口を塞いだ。
革手袋の硬い感触だった。
息が詰まり、鼻から息を吸おうとしたが体が強張って上手くいかなかった。
両手で男の腕を掴んで、爪を立ててもがいた。
革越しでも、力を込めれば相手の腕に届く。
男が低く舌打ちをした。
その僅かな隙に、体を横へ捻った。口が少し空いた。
「大人しくしろ。騒ぐな」
低い脅しの声に、もう一度叫ぼうとした。
でも石畳に膝をついたまま、腕を掴まれたままでは、声を出しても誰にも届かない。
この路地に人はいない。
そう気づいた時、初めて本物の恐怖が来た。
刃物を持った男が、一歩近づいた。
それにより刃が顔の近くに来た。
「ヴァレンタインの娘。王太子殿下と侯爵の取引について、どこまで知っている」
声が、出なかった。
出さなかったのではなく、恐怖と怒りが混ざり合って、言葉にならなかった。
「口を割らないなら、消えてもらう」
「侯爵閣下のご意向だ。知りすぎた者には、相応の結末がある」
刃物が動いた、その瞬間だった。
横合いから、二人の人間が走り込んできた。
足音が石畳に響いき、一人が刃物を持つ男の腕を外側から弾いた。
骨に響くような鈍い音がして、刃物が石畳に落ちた。
硬い金属音が路地に響きわたり、口を塞いでいた手が離れた。
私は咄嗟に後ろへ下がった。
膝が痛かったが構っていられなかった。
格闘の音がしばらく続いた。
拳が当たる音、誰かが石畳を踏む音、息を呑む音。
暗くて何が起きているか見えなかった。
ただ、男たちの声が段々と遠ざかっていった。
やがて足音が消え、静寂が戻ってきた。
男たちが逃げたのだろう。
私は石畳に両手をついたまま、しばらく動けなかった。
息が浅かった。
心臓が、まだ速く打っていた。
膝が痛く、掌に石畳の冷たさと粗い感触があった。
顔を上げると路地に二人立っていた。
一人は見知らぬ青年で、御者台の方へ駆けていった。
もう一人は、乱れた呼吸を整えながら、こちらを見ていた。
月明かりの中で、白銀の髪が光っていた。
「……ベネディクト」
彼は私のそばにしゃがんだ。
「怪我は」
「ない。ない、わ」
声が、少し掠れ、自分でも情けないと思った。
彼は何も言わなかった。
ただ、私が立ち上がるのを待った。
手を貸そうともしなかった。
必要かどうか聞きもせず、ただそこにいた。
私は自分で立ち上がった。
膝がひどく痛くて、震えていた。
膝だけでなく、手も、少し。
気づかれたかどうか分からない。
気づかれていたとしても、彼は何も言わなかった。
「ベネディクト、なぜここにいたの」
ベネディクトはしばらく黙っていた。
それから静かに答えた。
「偶然だよ」
嘘だと分かった。
分かった上で、私は何も言わなかった。
今は問い詰める力が残っていなかった。
御者台の方へ行った青年が戻ってきた。
「御者は気絶しているだけです。命に別状はありません」
落ち着いた声だった。
ベネディクトの側近だろうと、その時初めて気づいた。
「御者台は私が引き受けます」
青年はそのまま御者台へ上がった。
馬車まで戻る間、ベネディクトは少し後ろを歩いた。
隣でも前でもなく、少し後ろ。
守っているのか、距離を置いているのか、判断がつかない位置だった。
馬車に乗り込むがベネディクトは乗らなかった。
扉越しに、静かにこちらを見ていた。
「送ります。馬で」
反論する気力がその時の私にはなく、ただ頷いた。
馬車が動き出した。
窓越しに外を見ると、ベネディクトが馬を走らせながら並走していた。
遠からず、近からず、その距離がこの人らしいと思った。
私は膝の上で、静かに手を握った。
掌に、まだ石畳の冷たさと粗さが残っていた。
膝の痛みはまだあるが、震えは少しずつ収まっていた。
ただひとつだけ、はっきりと分かることがあった。
彼はあそこにいた。
あの場所に、あの時間に。
しかも偶然ではない。
なぜあなたは、いつも知っているの。
その問いが、今度は飲み込めなかった。




