Chapter Four L'Ombre qui Suit
尾けられていると気づいたのは、夜会の帰り道だった。
馬車に乗り込む前、石畳に降りた足が一瞬止まった。
理由は分からないけど、ただ何か空気の重さが違った。
人の視線には質がある。
好奇、羨望、嫉妬、それぞれに固有の重さがあって私はそれを長年かけて体で覚えてきた。
今夜感じたものは、そのどれでもなかった。
もっと、冷たいものだった。
私は振り返らなかった。
振り返ることが得策でないときがある。
気づいていないふりをして馬車に乗り込み、御者に出発を告げた。
窓の外を流れる夜の街を眺めながら、頭の中で今夜の夜会を逆再生した。
誰が近くにいたか。
誰が私を見ていたか。
誰が、いなくなったか。
ダリウス侯爵の手の者か。
それとも別の誰かか。
情報を掴みすぎた代償は、いつかこういう形で現れる。
それは分かっていた。
分かっていて、それでも手を止めなかった。止める理由がなかったから。
ただ今夜初めて、少しだけ、自分の判断を疑った。
✦ ✦ ✦
翌日、マルグリットが私の部屋に入ってきたのは朝の支度が終わった頃だった。
「昨夜、邸の裏門の近くに人影があったそうです。門番が声をかけたら逃げたと」
私は鏡の中の自分を見ながら答えた。
「そう」
「ミシェルローズ様」
「分かっているわ」
マルグリットは何も言わなかった。
彼女はそういう人だ。
意見を押しつけない。
ただ事実を伝えて、あとは私が決める。それが私たちの長年の距離感だった。
それでも今朝の彼女の目には、いつもより少しだけ余分なものが宿っていた。
心配、というやつだ。
余計なことを…思いながら、どこかで少しだけ、その目が温かいとも思った。
私はすぐにその感想を頭の隅へ押しやった。
今は余計なことを考えている場合ではない。
「引き続き門番には気をつけるよう伝えてください。それだけでいいわ」
✦ ✦ ✦
その日の午後、ベネディクトから文が届いた。
短い文で、今夜少し話せるかと。
差出人の名前がなくても、筆跡で分かった。
私はしばらくその文を眺めた。
「どうして、今日?」
昨夜の尾行のことを、彼が知っているはずはない。
知るすべがない。
それとも知っているのか。
あの男のことだから、何かを察していても不思議ではない。
それが余計に答えを返すことへの躊躇いになった。
結局、私は返事を書いた。
今夜八時に、ヴァレンタイン家の庭園で。
文を書き終えて、私は自分が少し急いで筆を走らせたことに気づいた。
急ぐ理由など、どこにもないのに。
✦ ✦ ✦
夜の庭園は静かだった。
燭台の光が届かない分、月が明るかった。
枯れた薔薇の棚が月光の中で影を作っている。
春になれば赤く、あるいは白く咲き誇るそれが、今は骨格だけを晒している。
ベネディクトは約束の時刻の少し前に来た。
足音はせず、気づいたらそこにいた。
「来てくれてありがとう」
「文をいただいたので」
私たちは薔薇の棚の前に並んだ。
しばらく、どちらも黙っていた。
夜風が髪を揺らす。
冷たいが、嫌いではない温度だった。
「最近、調べていることがあるでしょう」
やがてベネディクトが口を開いた。
問いかけではなく堪忍だった。
「ええ」
「深いところまで来ている」
「知っています」
月が薄い雲の裏に隠れて、庭園が少し暗くなった。
ベネディクトは薔薇の棚を眺めながら、何かを考えているような、何も考えていないような顔をしていた。
その横顔は相変わらず読めない。
「手を引く気はないんだね」
「ありません」
彼は少し間を置いてから、静かに笑った。
責めるでも呆れるでもない、ただ穏やかな笑みだった。
「そうか」
ベネディクトは、それだけ言ってそれ以上は何も言わなかった。
止めないのか、と思った。
忠告するわけでも、理由を聞くわけでもなく、ただ『そうか』で終わる。
その潔さが、妙に引っかかった。
なぜ、何も言わないの。
その問いを、私は口にしなかった。
聞いてしまえば、何かが変わる気がした。
何が変わるのかは分からない。
ただ、今はまだ聞かない方がいいと、理由のない確信があった。
月がまた顔を出して庭園に光が戻ってくる。ベネディクトの白銀の髪が、その光の中で静かに輝いた。
私たちは少しの間、並んで庭園を眺めた。
それだけのはずだった。
なのに帰り際、自室に戻って扉を閉めた瞬間、私はその夜の空気をまだ体の中に感じていた。
冷たい夜風と、月の光と、何も言わずに隣に立っていた人間のことを。
余計なことを考えている。
私はそう自分に言い聞かせた。
明日からまた、やるべきことがある。
それだけを考えればいい。




