Chapter Thirty-Two La Rose qui s'Épanouit
春の夜会は、冬のそれより少し明るかった。
窓が開いていて、外の空気が入ってくる。
花の香りが、かすかに混ざりシャンデリアの光がいつもと同じように宝石のように砕けて絹のドレスの上に降り注いでいた。
私はその中心に立っていた。
令嬢が話しかけてくると微笑んで返した。
夫人が噂話を持ってきたら相槌を打ちながら必要な情報だけを拾った。
若い男爵が緊張した顔で近づいてきた際は適度な温度で対応して適度なところで切り上げる。
何も変わっていなかった。
私は今日も、この場所で人を読んで、笑顔で戦っていた。
それは変わらない。
変わるつもりもない。
これが私だから。
ただ、広間の向こうに白銀の髪が見えた。
視線が合うとベネディクトが小さく頷いた。
私も返事として小さく頷いた。
それだけで、今夜の広間が、少し違う色を持った。
誰かの運命を静かに掌の上で転がしながら、その向こうに、私を見ている人がいる。
それが今夜は、少しも孤独でなかった。
✦ ✦ ✦
夜会の終わり際、自然な流れで二人になった。
テラスに出ると春の夜風が、冷たくなかった。
遠くで誰かが笑う声がして、音楽がかすかに聞こえていた。
「シェリー」
「何?」
「この婚約を、続けたい」
「それは、家のため?」
「違うよ。シェリーと続けたいから」
それ以上の説明も、言い訳も、理由の列挙もなかった。
ただそれだけを、この人はいつも言う。
全部を最も簡単な言葉に収めてしまう。
「……私も同じよ」
ベネディクトは微笑んだ。
今夜の笑みは、底が少し見えた。
穏やかで、温かくて、それでいて少し照れたような。
この人がそういう顔をするのを、初めて見た気がした。
「それを聞けてよかった」
「今更?もう十分伝わっていると思っていたけれど」
「言葉にしてもらうのと、分かっているのとは違うよ」
「………そうね。その通りだわ」
春の夜風が吹いた。
テラスの手すりの向こうに庭園が見えた。
暗い中に、綺麗に咲いているであろう沢山の種類の花々が見える。
今日も花が咲いているはずだった。
✦ ✦ ✦
帰り道、馬車の中で私はしばらく、今夜のことを考えていた。
この婚約を続けたい。
家のためではなくシェリーと続けたいからと言ってくれたベネディクト
政略婚約として始まったものが、今夜は別のものになった。
いや、正確にはなっていたのだと今夜確認した。
いつからそうなったのかは分からない。
少しずつ、気づかないうちに。
私はずっと、人を操ることでしか自分を守れなかった。
美しさも、知性も、駆け引きも、全部武器だった。
誰かに近づかれるたびに、盤面を探した。
この人はどこに弱点があるか。
どう動かせば、私に都合がいいか。
ベネディクトを見る時だけ、それができなかった。
最初から、盤面を探せなかった。
探そうとするたびに、何か別のものが邪魔をした。
その「別のもの」が何かを私はずっと認めたくなかった。
認めてしまえば何かが変わると思っていたから。
でも変わった。
変わっても、私は私のままだった。
社交界で人を翻弄することも、笑顔のまま誰かを沈めることも、盤面を動かすことも、全部変わっていない。
それが私だから。
それは変えない。変える必要もない。
ただ、その私の隣に、あの人がいる。
それだけが、変わったことのすべてだった。
馬車が邸に着き、春の夜の空気の中に園庭に咲いている薔薇の香りがあった。
私は人を愛せない、とずっと思っていた。
今は違う。
愛し方が分からなかっただけだと今は知っている。
そしてその愛し方を、あの人が教えてくれた。
言葉ではなく、四日間の帰り道を確認することや、暗い路地に現れること、『それだけのことだよ』と言い続けること。
春になったら薔薇を見に来ることで。
「好きよ、誰よりも」
私は扉を開けて、邸に入った。
明日もまた、社交界へ出る。
笑顔で戦い、人を読み、盤面を動かす。
それは変わらない。
ただ今夜だけは、戦うことを考えなかった。
庭園の薔薇が、春の闇の中で咲いていた。
黒に近い深紅の花が、誰のものでもなく、ただそこに咲いていた。




