Chapter Thirty Le Lendemain
何かが劇的に変わったわけではなかった。
翌朝目が覚めた時、邸はいつも通りだった。
マルグリットがカーテンを開けたので朝の光が入ってきた。
朝食をとって、刺繍をして、午後は書類の整理をした。
どこにも、昨日と違う点はなかった。
ただ、頭の中が静かだった。
これまで何かをするたびに考え事が混ざっていた。
ベネディクトのことを、縁談のことを、ナタリーのことを。
でも今日は、刺繍をしている間ただ刺繍をしていた。
音楽を弾いている間、ただ音楽を弾いていた。
その空間がとても静かで、それが少し不思議だった。
「今日は随分と穏やかなお顔をされていますね、お嬢様」
「そう?」
「はい。昨日、何かありましたか」
「少しね」
✦ ✦ ✦
三日後、夜会があった。
広間に入った時ベネディクトはすでにいて視線が合った。
それだけだったが今日のそれは、以前とは少し違った。
以前は視線が合うたびに何かを確認しようとしていた。
この人は何を考えているのか、どこまで読めるのかと。
今日は、ただ会えたという感覚があった。
夜会の途中、自然な流れで隣に並んだ。
「今夜は顔色がいいね、シェリー」
「あなたもね」
「そう見える?」
「見えるわ。いつもより少し人間らしい顔をしている」
「クロエ嬢と同じことを言う」
「あの娘は目がいいのよ」
夜会の空気、誰が誰と話しているか、次の週の茶会の話。
以前と変わらない他愛のない話だけど今日は少し温度が違った。
言葉の端に小さな余白があった。
その余白が、心地よかった。
ベネディクトが隣にいるにも関わらず、セバスティアンが今夜も来ていた。
私のそばに来て、気の利いた言葉を並べた。
私はいつも通り対応して、ベネディクトは今夜その様子を見ても何も言わなかった。
ただ、穏やかな顔でこちらを見ており以前とは違う目だった。
あの夜は、かすかに何かが揺れていた。
今夜は揺れることなく、ただ静かに私を見ていた。
セバスティアンが去った後、ベネディクトが口を開いた。
「大変だったね」
「いつものことよ。慣れているわ」
「そうだね。シェリーは強い」
以前なら、その言葉が少し痛かった。
強いと言われるたびに、何かが遠ざかる気がしていた。
でも今日は痛くなかった。
ただ、この人が私のことをそう思っていると、それだけが聞こえた。
「あなたも強いわ。ただ見せ方が違うだけで」
ベネディクトは少し間を置いてから、静かに笑った。
「それは、褒めているの?」
「どちらとも取れる言い方をしたつもりよ」
彼はまた笑った。
今夜の笑みは底の見えない穏やかさだけではなかった。
もう少し、人間らしかった。
✦ ✦ ✦
夜会の帰り道、馬車の中で私はしばらく窓の外を眺めた。
春の夜の街が、流れていく。
灯りの中に人の影が見える。
この街の誰も社交界の水面下で何が起きているか知らない。
誰が誰を愛していて、誰が誰を裏切っていて、誰が誰を守ろうとしているか。
でも今夜は、そういう考え方が少し遠かった。
ただ、今夜の夜会が楽しかったと素直に思えた。
それが少し、驚きだった。
社交界を楽しいと思ったことは、何度もある。
でもそれはいつも盤面を動かす楽しさだった。
今夜はあの人の隣にいることが楽しかった。
随分と、変わったものね。
そう思いながら悪い気はしなかった。
むしろ、これでよかったと思えた。
邸に帰り着いて、部屋に入るとマルグリットが待っていた。
支度を解きながら、他愛のない話をした。
「今夜は楽しかったですか」
「そうね。楽しかったわ」
窓の外に、春の月が出ていた。
明るくて、丸くて、温かい色をした月だった。
冬の月とは、少し違う色だった。




