Chapter Twenty-Nine Quand les Roses s'Épanouissent
薔薇が咲いたのはナタリーの件から十日後のことだった。
朝、庭園に出ると棚の一角に赤い花が開いていた。
まだ数輪だけだったが確かに咲いていた。
冬の間ずっと枯れた骨格だけを晒していた棚が、今日は少しだけ色を持っていた。
私はしばらくその花を眺めた。
約束を思い出した。
春になったら薔薇が咲いたら見に来てもいい、と言ったら来ると言っていた。
その日の午後、ベネディクトが文も寄越さずにヴァレンタイン家に来た。
でも今日は、それが少しも驚かなかった。
マルグリットが「ローゼンベルク様がいらしています」と告げた時、私はすでに庭園にいた。
「こちらへ案内してちょうだい」
ベネディクトが庭園に入ってきて、私が薔薇の棚の前に立っているのを見ると少しだけ目を細めた。
それから、静かに歩いてきた。
「綺麗に咲いたね」
「ええ。今朝、気づいたわ」
二人で並んで薔薇を眺めた。
赤い花が、春の光の中で揺れていた。
私の髪と同じ色だ、とふと思った。
黒に近い深紅。
光の中でだけ、赤が滲む。
「ナタリーの件、落ち着いたね」
「ええ。父が処理してくれたわ。モローについてもローゼンベルク家の外交ルートから圧力をかけてもらえると助かるわ」
「もう動いている」
「ありがとう」
春の風が吹き薔薇の花びらが少し揺れた。
「シェリー」
「何?」
彼はしばらく薔薇を見ていた。
それから、こちらを向いて真正面から私を見た。
「君のことが、好きだ」
声の温度は穏やかだった。
でもその言葉は、これまでの『それだけだよ』でも『シェリーがいるから』でもなかった。
もっと直接的な削ぎ落とすものが何もない言葉だった。
私は何も言えなかった。
言えなかったのではなく、すぐには言葉が出てこなかった。
頭の中には静寂しかなかったからだ。
「ずっとそうだったよ。シェリーが社交界で人を翻弄している時も、危ない目に遭っている時も一緒に戦っている時も。ずっと」
「……知っていたわ。あなたがそう思っていること」
「知っていたんだね」
彼は少し笑った。
でも今日は少し照れたような珍しい笑みだった。
「読めない人だと思っていたけれど。最近は、あなたのことを少しずつ読めるようになってきた」
「それは、困ったな」
「なぜ?」
「シェリーに読まれると、隠せるものがなくなる」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
隠せるものがなくなる。
この人は、私に読まれることを恐れていない。
むしろ、受け入れている。
私は薔薇の棚を見た。
赤い花が、風に揺れていた。
「私も、あなたのことが好きよ」
言ってしまった、と思った。
でも今日は言ってしまったことへの驚きが、ほとんどなかった。
当たり前のことを、当たり前に言った。
ベネディクトは静かに微笑んだ。
いつもの穏やかな笑みだったが、今日はその奥に、隠しようのない温かさがあった。
「知っていたよ」
「いつから?」
「シェリーが、私のために資料を集めてくれた夜から」
父の外交交渉の資料を集めた夜のことだ、と分かった。
『任せてください』と書いた文のことだ。
あの時から、この人には伝わっていたのかもしれない。
「ずいぶん早いのね」
「シェリーが気づくのが、遅かっただけだよ」
少し腹が立ったが笑えた。
笑えてしまったことが、少し意外だった。
二人で並んで、また薔薇を眺めた。
春の光の中で、赤い花が揺れていた。
風が吹くたびに、花びらが小さく動く。
「これからもシェリーの隣にいていい?」
「……ええ。いてください」
薔薇が咲いていた。
春が来ていた。
そして私の隣に、この人がいた。
ずっと、私は人を愛せないと思っていた。
でも今日、その確信は静かに跡形もなく消えていた。




