第4章:白き治癒士の違和感
アールスハイムを『万象拒絶の牢獄』で完全に封鎖し、真綿で首を絞めるような地獄の責め苦を与えてから数日が経過した。大魔王城パンデモニウムの最上階、広大な執務室。俺は分厚い黒檀のデスクに向かい、山のように積まれた羊皮紙の書類を猛烈な勢いで処理していた。
「おお……。なんという決断力。なんという筆の速度。領地から上がってくる陳情書を、目を通した瞬間に裁架なさるとは。まさに書類の山を一刀両断する蹂躙劇。さすがは我が至高の魔王様」
「……シュピッツ。頼むから少し黙ってくれ。気が散る」
俺は羽ペンを走らせながら、深いため息を吐いた。俺の背後には、四天王の一人である狂信の魔将シュピッツが、巨大な鎌を抱えたまま一歩も離れずに張り付いている。彼は俺が書類にサインをするたびに歓喜の声を上げ、俺が茶を飲めば魔王様の喉を潤す栄誉を与えられた茶葉め、と意味不明な賛美を口にする。忠誠心が高いのは非常に結構なのだが、いかんせんやかましすぎる。
「も、申し訳ございません。魔王様のあまりにも完璧な内政手腕に見惚れるあまり、つい口が……。この無礼な舌、今すぐ我が鎌で切り落としましょうか」
「いらん。お前は俺の最強の剣だ。舌を失って報告ができなくなっては困る。ただ、もう少し静かに控えていろ」
「ははっ。もったいなきお言葉。このシュピッツ、呼吸の音すら消し去り、影として貴方様に付き従いましょう」
シュピッツが気配を完全に消して背後に同化したのを確認し、俺は再び書類に目を落とした。俺が今やっているのは、魔王領全体の予算の見直しと、物流網の再構築だ。前魔王は争いを好まない優しい性格だったため、各領主からの予算請求をロクに審査もせず言い値で承認していた。結果として、魔王軍の莫大な資産は一部の汚職魔族や非効率な事業に垂れ流しになっていたのだ。前世で、魔力がないというだけで実家の領地経営や兵站管理をすべて押し付けられていた俺からすれば、このお粗末な管理体制は虫唾が走る。
「第一魔界層の防壁修繕費、水増しが酷すぎるな。予算を三割カットし、浮いた魔石を兵器開発部門へ回せ。それと、地下農園のゴーレム稼働率が落ちている。整備班の責任者を更迭し、実力主義で再配置しろ」
俺が次々と冷徹な合理主義で魔王領の膿を出し、最適化していくたびに、背後の空間から、素晴らしい……、というシュピッツの押し殺した声が漏れ聞こえてくるが、俺はそれを無視して立ち上がった。
「書類上の数字だけでは限界がある。シュピッツ、視察に出るぞ。実際に俺の領地と、軍の施設をこの目で確認しておく必要がある」
「御意。すぐに近衛兵一万を招集し、魔帝都のパレードの準備を」
「必要ない。お前一人だけついてこい。お忍びで現場のリアルな状況を見るんだ」
魔王城の城下町である魔帝都は、俺が想像していたよりも遥かに活気にあふれていた。空にはワイバーンが飛び交い、大通りには様々な種族の魔族たちが店を構え、強靭な肉体を持つ労働者たちが巨大な石材を運んでいる。俺は認識阻害の魔法で角と魔力を隠し、ただの上級魔族のふりをして街を歩いていた。もちろん、背後には大鎌を隠したシュピッツが、周囲の通行人に殺気を振り撒きながらぴったりと張り付いている。
「ふむ……インフラは悪くないが、流通の導線が甘いな。西の商業区と東の工業区を繋ぐ大通りを拡張すれば、物流の効率はさらに二割上がる」
前世の知識と、俺の頭脳が次々と都市計画を組み上げていく。そんな風に街を視察しながら、魔王軍の軍事施設が立ち並ぶ区画へと足を踏み入れた時のことだった。
「きゃあああああ」
巨大な兵器庫の建設現場から、悲鳴が上がった。見れば、クレーン代わりの巨大なゴーレムがバランスを崩し、吊り上げていた数十トンはある鉄骨が、下で作業をしていた魔族の労働者たちの上に落下してしまったのだ。ズドォォォン、という地響きと共に、もうもうと土煙が舞い上がる。
「おい、大丈夫か。誰か、早く治癒術師を呼べ」
「だ、駄目だ……完全に潰されてる。息をしてねえ」
現場は一瞬にしてパニックに陥った。俺が状況を確認しようと足を踏み出そうとした、その瞬間。
「ど、どどど、どいてくださぁぁーい」
涙目の叫び声と共に、小柄な人影が猛スピードで俺の横を駆け抜けていった。淡いピンク色のふわふわとした髪。白を基調とした、修道服のようなゆったりとしたローブ。そして、ローブの裾から生えている、先端がスペードの形をした可愛らしい悪魔の尻尾が、焦りとパニックでぶんぶんと激しく振り回されている。
「あ、あれは……」
「……ええ。四天王が一角、医療・治癒部門のトップである聖魔のニーナにございます。相変わらず、魔将の威厳もへったくれもない小娘ですが」
シュピッツが呆れたように呟いた。彼女が四天王。あんな、ちょっと転んだだけで泣き出しそうな、引っ込み思案の小動物のような少女が。俺の疑問は、次の瞬間に提示された圧倒的な規格外の力によって吹き飛ばされることになった。
「うぅ……っ、ひどい怪我……。でも、大丈夫です。すぐに治しますからっ」
ニーナは、鉄骨の下敷きになり、原型を留めないほどに潰れ、完全に即死している労働者の肉塊の前に膝をついた。常識的に考えれば、どんな治癒魔法でも蘇生は不可能。回復魔法は生きた細胞を活性化させるものであり、死者や欠損した肉体を元に戻すことはできないからだ。だが、彼女の細い両手から、眩いばかりの純白の光が放たれた。
「完全聖域」
光が労働者を包み込むと、信じられない光景が起こった。ミンチになっていた肉体が、まるで時間を逆行するように一瞬にして再構築されていく。砕けた骨が繋がり、千切れた内臓が再生し、失われた血液が満ちていく。それからわずか三秒後。完全に死んでいたはずの労働者が、ぶはっ、と息を吹き返し、何事もなかったかのように立ち上がったのだ。
「え……。俺、たしか鉄骨に潰されて……」
「よ、よかったですぅ……。痛いところは残ってませんか……」
ニーナは安堵の涙をポロポロとこぼしながら、へなへなとその場に座り込んでしまった。彼女の悪魔の尻尾が、安心したようにパタパタと緩やかに揺れている。
なるほど。あれが四天王に選ばれた理由か。治癒という概念を超越した、事象の書き換えに近い絶対再生。どんな病も、どんな傷も、たとえ死の淵であっても完全に癒しきる、あまりにもチートすぎる能力。彼女自身の戦闘力は皆無だろうが、あの能力が軍にあるだけで、魔王軍の兵士は実質的に不死身となる。能力の特化具合が極端すぎて四天王に数えられているというわけだ。
「おい、ニーナ様が助けてくださったぞ」
「ありがとうございます、ニーナ様。さすがは四天王」
周囲の労働者たちが一斉に平伏し、感謝の言葉を述べる。ニーナは、ひゃぅっ、と顔を真っ赤にしてパニックになり、近くにあった木箱の裏に慌てて隠れてしまった。尻尾だけが隠れきれずに外にはみ出し、恥ずかしさで縮こまっている。
「……シュピッツ。あいつ、前魔王がスカウトしたのか」
「はっ。数年前、人間界との国境付近で倒れていたところを、前任の優しき愚か者が拾って参りました。あのように臆病で引っ込み思案な性格ゆえ、前任の生温い気配によく懐いておりました」
なるほど。前魔王の過保護な優しさに惹かれて魔王軍に身を寄せているわけか。俺は認識阻害の魔法を解き、本来の魔王としての姿を現したまま、木箱の裏に隠れているニーナへとゆっくり歩み寄った。
「ご苦労だったな、ニーナ」
俺が声をかけると、ニーナの尻尾がピーン、と直立した。
「あ、あわわわっ。こ、このお声は……魔王様」
彼女は顔を輝かせ、嬉しそうに木箱の裏から飛び出してきた。前魔王のことが大好きな彼女にとって、主君からの労いは何よりの喜びなのだろう。彼女の尻尾は千切れんばかりにパタパタと激しく振られ、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「魔王様、視察にいらしてたんですね。私、ちゃんと皆さんの怪我を――」
タタタッ、と俺の足元まで駆け寄ってきたニーナが、言葉を紡ごうと俺を見上げた、その瞬間だった。
「――え」
ニーナの動きが、完全にフリーズした。激しく振られていた尻尾が、ピタッ……と不自然に止まる。彼女の瞳が、俺の姿を、俺の顔を、そして俺の全身から放たれる気配を捉えた。前魔王のそれは、春の陽だまりのように暖かく、すべてを包み込むような柔らかいものだったはずだ。だが、今の俺から放たれているのは、底なしの深淵のように冷酷で、合理的で、圧倒的な死と絶望を内包した漆黒の覇気。中身の魂が入れ替わっているのだから、当然だ。ニーナの顔から、スゥッと血の気が引いていくのがわかった。
「あ……れ……。魔王、様……」
止まっていた彼女の尻尾が、シュン……と完全に垂れ下がり、怯えたように自身の両足の間に深く巻き込まれた。頭から生えている小さな角の横の耳も、ペタンと後ろに倒れている。彼女の治癒能力は、他者の生命力や魔力の波長を極めて敏感に読み取る特性を持っているのだろう。彼女の直感が、目の前にいる存在が自分の大好きだった魔王様のガワを被った、全く別の、恐ろしいバケモノであると告げていた。
「どうした。気分でも悪いのか」
俺はあえて、前魔王の記憶から引き出した優しい微笑みを作って彼女に問いかけた。だが、それが逆に彼女の恐怖を煽ったらしい。ニーナは、ひぃっ、と短い悲鳴を上げ、ガタガタと震えながら数歩後ずさりした。
「ち、ちが……っ、あなたは……だれ……っ」
ニーナが震える声で、核心を突く言葉を漏らした。その瞬間、俺の背後に控えていたシュピッツの瞳に、ギラリと危険な殺意が宿った。
シュピッツの瞳に、ギラリと危険な殺意が宿った。
「貴様……。今、我が至高の主に向かって、なんと言った」
地を這うような、ぞっとするほど冷たいシュピッツの声が響く。先ほどまでやかましいほどに俺を賛美していた狂信者の面影はどこにもない。そこにあるのは、主を侮辱されたことに対する純粋で濃密な殺意だけだった。シュピッツの背後に背負われていた巨大な死神の鎌が、主の意思に呼応するように禍々しい黒いオーラを放ち始める。空間そのものがギリギリと軋む音を立て、ニーナの周囲の空気が一気に氷点下まで下がったかのような錯覚を引き起こした。
「ひっ……。あ、シュピッツ、さん……。ちが、ちがうの、わたしはただ」
ニーナは腰を抜かしたまま、恐怖でガチガチと歯を鳴らして後ずさりする。彼女の悪魔の尻尾は完全に股の間に挟まり、頭の上の小さな耳はペタンと伏せられ、大きな瞳からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。彼女の規格外の治癒能力は他者の生命や波長を読み取ることに特化しているがゆえに、シュピッツが放つ本物の殺気を誰よりも敏感に感じ取ってしまっているのだ。彼女には戦闘能力が一切ない。シュピッツがその鎌をわずかに振るうだけで、彼女の小さな体は空間ごと両断され、治癒魔法を使う暇もなく絶対の死を迎えることになる。
「我が魔王様の魂の尊さを理解できぬ愚物め。前任の生温い気配に絆されただけのペットが、四天王の末席に座っていることすら反吐が出る。魔王様に不敬を働いた罪、その命をもって償え」
シュピッツが右手を高く掲げた。空間を断ち切る絶対の権能、斬撃王が発動する寸前。俺は静かに、だが絶対的な威圧を込めた声で短く命じた。
「やめろ、シュピッツ」
その一言だけで十分だった。シュピッツの鎌から放たれていた禍々しいオーラが一瞬にして霧散し、彼は掲げていた右手を下ろすと、すぐさま俺の足元に深く跪いた。
「ははっ。出過ぎた真似をいたしました。どうかこの愚かな配下にお叱りを」
「お前の忠誠は理解している。だが、俺の許可なく俺の駒を壊すことは許さん。下がっていろ」
「御意のままに」
シュピッツは恭しく一礼すると、再び俺の背後の影へと同化して気配を完全に絶った。ほんの数秒前まで確実な死の淵に立たされていたニーナは、何が起きたのか理解できないというように、呆然と俺を見上げている。彼女の瞳には、前魔王よりも遥かに恐ろしい存在であるはずの俺が、あの狂人シュピッツを言葉一つで完全に服従させているという事実に対する深い混乱が渦巻いていた。
「さて、ニーナ。ここには周囲の目がある。場所を変えよう」
俺はアールスハイムの結界魔術師エルザから奪い取り、進化させたスキル万象拒絶の牢獄を極小規模で発動させた。俺とニーナの周囲数メートルの空間だけを、外界から完全に遮断する漆黒のドームが覆い尽くす。光も音も魔力も完全に遮断された、誰にも邪魔されない絶対の密室。周囲で平伏していた労働者たちの姿も消え、暗闇の中には俺が指先で灯した小さな魔力の炎だけが揺らめいている。
「ひゃっ……。な、なにこれ……。まっくら……。いや、だして、だしてください……」
ニーナはパニックを起こし、漆黒の結界の壁を小さな両手でバンバンと叩き始めた。だが、どれほど叩こうとも、この結界は内部からの物理的干渉を完全に無効化する。彼女の細い腕では傷一つ付けることはできない。
「無駄だ。これは俺が構築した絶対の牢獄。俺が解除しない限り、お前がそこから抜け出すことは永遠に不可能だ。落ち着いて俺の話を聞け」
俺の冷たく低い声が、狭い空間に反響する。ニーナはびくっと肩を震わせると、壁を叩くのをやめ、怯えた子犬のように結界の隅にうずくまった。彼女の尻尾が恐怖で小刻みに震えているのが、炎の明かりに照らされてよく見えた。
「お前の直感は正しい。俺はお前が慕っていたあの優しい魔王ではない。肉体こそ同じだが、中に入っている魂は全くの別物だ。俺の名はマオ。この腐りきった世界を徹底的に蹂躙し、支配するために深淵から喚び出された絶望の化身だ」
俺が真実を告げると、ニーナの大きな瞳からさらに涙が溢れ出した。彼女は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き始めた。
「うわぁぁぁん。どうして……。どうして魔王様がいなくなっちゃったの……。あんなに優しかったのに。わたしを拾ってくれて、たくさん頭を撫でてくれたのに。魔王様を返してよぉ……」
彼女の悲痛な叫びを聞いても、俺の心には何の感情も湧かなかった。むしろ、その無知で甘ったれた思考に対する冷たい怒りだけが静かに燃え上がっていく。
「返してほしいか。ならば教えてやろう。お前が慕っていたあの優しい前魔王は、俺やシュピッツが殺したわけではない。奴は自らの意思で、この玉座から逃げ出したのだ」
「え……」
ニーナが泣き止み、信じられないという顔で俺を見た。
「奴は優しすぎた。魔界の王という、何百万という命を背負い、時には冷酷な決断を下さなければならない重圧に耐えきれなくなったのだ。人間との争いを避けるために無駄な譲歩を繰り返し、魔界内部の腐敗を見て見ぬふりをした。そして最後には、自らの手で自身を永久封印し、すべてを投げ出そうとした。お前を拾い、頭を撫でていたのは、ただの現実逃避だ。奴はお前というペットを可愛がることで、王としての責任から目を背けていたに過ぎない」
「うそ……。うそだ。魔王様はそんなことしない。だれよりも平和を願って……」
「平和だと。笑わせるな」
俺は一歩前へ踏み出し、うずくまるニーナを見下ろした。俺の全身から放たれる圧倒的な魔力の重圧に、ニーナは息を呑んで体を硬直させる。
「お前は先ほど、潰された労働者を治療したな。なぜあのような事故が起きたか考えたことはあるか。あれは不運な事故などではない。前魔王が各領主への予算管理を怠り、生温い態度で汚職を放置した結果だ。防壁の修繕費やゴーレムのメンテナンス費用は一部の強欲な貴族たちに横領され、現場には常に老朽化した機材が回されていた。お前が治したあの男は、前魔王の優しさという名の無責任によって殺されかけたのだ」
「あ……」
ニーナの口から、言葉にならない声が漏れる。彼女はただ治癒魔法を使うだけで、魔界の政治や経済の裏側など何も知らなかったのだろう。前魔王に守られた安全な箱庭の中で、ただ目の前の怪我人を治すことだけで満足していたのだ。
「お前が知らないだけで、この魔界には前魔王の無能によって飢えに苦しむ領民や、人間との国境付近で無意味な死を遂げている兵士たちが山のようにいる。お前はその全員を救えるのか。お前のその規格外の治癒魔法で、魔界中のすべての死者を蘇生させて回るつもりか」
「そ、それは……。わたしはただ、目の前で苦しんでいる人を……」
「それが偽善だと言っているのだ」
俺はニーナの胸ぐらを掴み、強引に立たせた。小柄な彼女の体は羽のように軽く、俺の手の中でガタガタと震えている。
「真の平和とは、圧倒的な暴力と恐怖による完全な管理と支配の先にしか存在しない。俺はこの魔界のすべての予算を最適化し、軍備を拡張し、俺に逆らう愚かな人間たちを根絶やしにする。無能な領主はすべて粛清し、俺の定めた絶対のルールの下で徹底的な実力主義を敷く。そうすれば、今日のようなくだらない事故も、無意味な飢餓もすべて消え去る。俺がもたらすのは、前魔王のような生温い現実逃避ではなく、血塗られた道の先にある冷酷で完璧な秩序だ」
俺は掴んでいた手を離し、ニーナを再び床に突き飛ばした。彼女は咳き込みながら床に手をつき、怯えた目で俺を見上げている。
「前魔王はもういない。奴の魂は完全に消滅した。お前がどれほど泣き喚こうが、どれほど強大な治癒魔法を使おうが、失われた魂を再生させることはできない。ここにある現実は、俺という新しい魔王がこの世界のすべてを蹂躙し、支配するという事実だけだ」
俺は冷たく言い放ち、再び彼女に選択を突きつけた。
「さあ、どうするニーナ。お前はこの新しい現実に耐えきれず、ここで俺に殺されるか。それとも、その強大な治癒能力を俺の覇道のために捧げるか。お前が俺に従わないというのなら、俺はお前からそのスキルを強奪し、お前をただの無力な小娘にして外の労働者たちの中に放り投げるだけだ。だが、お前が自らの意思で俺に服従するなら、お前の居場所は残してやる。お前はこれからも、俺の軍勢の中で傷ついた兵士たちを治し続けることができる」
「わ、わたしは……」
ニーナは混乱の極みにあった。彼女の心は前魔王への思慕と、俺という圧倒的な恐怖への恐怖、そして自身の能力に対する責任感の間で激しく揺れ動いている。彼女は戦う力を持たない。逃げることもできない。そして何より、彼女自身が根っからの善人であり、他者が傷つくのを見過ごせない性格であることを、俺は完全に理解して利用していた。
「考えても見ろ。俺の軍はこれから人間界へと本格的な侵攻を開始する。当然、数え切れないほどの魔族の兵士たちが傷つき、血を流すことになるだろう。お前がここで俺に逆らってスキルを奪われれば、その兵士たちは誰にも治療されずに苦しみながら死んでいくことになる。お前はそれを望むのか。お前の身勝手な感傷のせいで、救えるはずの命を見捨てるのか」
「ちがう……。わたしは、誰も死なせたくない……。みんなが笑ってられる世界が……」
「ならば俺に従え」
俺の言葉が、鋭い刃となって彼女の心に突き刺さった。
「俺が世界を支配すれば、無駄な争いはなくなる。俺の絶対的な恐怖が、すべての反逆の意思をへし折るからだ。その過程で流れる血は、お前の治癒魔法で塞げ。俺がお前という存在に価値を認めているうちに、その頭を床に擦り付けろ。お前が守りたいものを守るためには、俺という最悪の存在に縋り付くしかないのだと理解しろ」
俺の冷酷な論理と、そこから逃れられない現実を前にして、ニーナの心は完全に包囲されていた。彼女はゆっくりと自身の両手を見つめた。数え切れないほどの命を救ってきたその手は、今はただ無力に震えている。彼女の瞳から、抵抗の光が完全に失われていくのがわかった。彼女は自分がどれほど無力で、俺という存在の前にただ流されるしかないちっぽけな存在であるかを悟ったのだ。
「……わかり、ました……」
掠れた声が、漆黒の結界の中に響いた。
ニーナはゆっくりと姿勢を正し、正座のような形で床に座り直した。そして、彼女の小さな両手が床につき、淡いピンク色の髪が床に触れるほどに深く、深く頭を下げた。彼女の悪魔の尻尾が、完全に力を失って床に投げ出されている。
「わたしは……魔王様、マオ様に、服従します。わたしの治癒の力は、すべてマオ様のために使います……。だから、どうか……誰も無駄に死なせないでください……」
彼女の口から紡がれた、心からの服従の誓い。それはアールスハイムの結界魔術師エルザから奪ったような、絶望と恐怖による強制的な服従ではない。自身の存在意義と責任感を利用され、自ら逃げ道を断たれたことによる、精神的な完全屈服であった。俺の脳内に、固有スキル全技能強奪の条件が満たされたことを知らせる無機質な感覚が響いた。だが、俺は彼女からスキルを奪うことはしなかった。
奪ってしまえば、俺自身が治癒魔法を使わなければならなくなる。俺の魔力は破壊と支配のためにこそあるべきであり、後方で兵士の傷を癒すような退屈な作業は、この小娘にやらせておけばいい。それに、この規格外の治癒能力を持った少女が、俺という存在に完全に依存し、俺の命令なしでは生きられないように調教していく方が、今後の支配において遥かに有用だからだ。
「賢明な判断だ、ニーナ」
俺はひざまずく彼女の前に立ち、その淡いピンク色の髪にゆっくりと手を伸ばした。前魔王がそうしていたように、優しく、だが確かな所有権を主張するように彼女の頭を撫でる。
「ひゃぅ……」
俺の手に触れられた瞬間、ニーナの肩がビクッと跳ねた。彼女の体は恐怖で強張っていたが、決して逃げ出そうとはしなかった。俺の冷たい手の感触に、彼女はゆっくりと目を閉じ、ただその撫でられる感覚に身を委ねている。前魔王の温もりとは全く違う、冷酷で圧倒的な支配者の手。だが、今の彼女にとって、自身の存在を肯定してくれるのはこの恐ろしい手だけなのだ。
「お前はこれからも俺の軍で治癒術師として働け。俺が命じた者を治し、俺が見捨てた者は見捨てろ。お前の善意も、お前の治癒能力も、これからはすべて俺の采配の下にある。俺の言う通りにしていれば、お前の望む通り、救える命はすべて救わせてやる」
「はい……。はい、マオ様……」
ニーナは顔を伏せたまま、従順な声で答えた。彼女の尻尾が、ほんの少しだけ、俺に媚びるように小さく揺れた。恐怖と絶望の中で与えられたわずかな役割という名の希望。それにすがりつく彼女の姿は、ひどく惨めで、そして最高に愛らしかった。
俺は結界を解除した。周囲を覆っていた漆黒のドームが一瞬にして消え去り、再び建設現場の喧騒と土煙の匂いが戻ってくる。周囲の労働者たちは、俺たちが突然消えてまた現れたことに驚いていたが、俺の姿を見てすぐに平伏した。
「さて、視察の続きと行こうか。ニーナ、お前もついてこい。お前の目で、俺の支配する新しい魔王領の姿をしっかりと見せてやる」
「は、はいっ。マオ様」
ニーナは慌てて立ち上がり、俺の背中の後ろにちょこんとついてきた。シュピッツが影の中から冷たい視線を彼女に向けていたが、もはや殺意は消え失せている。彼はただ、俺に完全に服従した新たなペットとして彼女を見下しているだけだった。
俺の前世の記憶にある、不当に搾取され、見下されていた俺の姿。あの日の無力な俺はもうどこにもいない。今の俺は、知略と圧倒的な力でこの世界のすべてを掌握する最強の魔王だ。かつて俺を無能と嘲笑った人間たちを絶望の底に叩き落とし、魔界の腐敗を完全に浄化し、そしてこの規格外の力を持つ四天王たちすらも、俺の覇道のための完全な駒として使い潰してやる。




