第5章:絶対的支配の証明
大魔王城パンデモニウムの最下層からさらに地下深くへと続く、延々と終わりの見えない螺旋階段。魔帝都の地下深くに広がる魔王軍最大の魔力結晶精製所へと向かうその暗く湿った道程を、俺たちは認識阻害の魔法を展開したまま静かに下っていた。
壁面に埋め込まれた発光苔の青白い光だけが頼りの薄暗い空間には、俺の静かな足音と、背後に控えるシュピッツの衣擦れの音、そして最後尾を歩くニーナの怯えたような浅い呼吸音だけが微かに響いている。
「……マオ様。一つよろしいでしょうか」
周囲に監視の目がないことを確認したのか、シュピッツが背後の影から押し殺した声で尋ねてきた。
「なんだ」
「貴方様には、居ながらにして世界のすべてを見通す絶対の索敵スキル、天網の眼がございます。このような地下の汚れ仕事の現場など、玉座からその神の眼で見下ろせば一瞬で全容を把握できるはず。なぜわざわざ、自らの足でこのような埃っぽい地下へ赴く必要があるのでしょうか。貴方様の尊き御足が汚れることすら、私には耐え難いのですが」
シュピッツの疑問はもっともだ。実際、俺がエルザの結界を破る前にアールスハイムの状況を監視していた時は、天網の眼の力だけで都市の内部から人間たちの会話まで完全に把握していた。だが、相手が人間ではなく魔界の古き血筋である上位魔族となれば話は別だ。俺は歩みを止めることなく、冷淡な声で背後の狂信者に答えた。
「天網の眼は確かに便利だが、万能ではない。あれは対象の空間に極めて微細な探知の魔力波を張り巡らせることで視界を得る術式だ。鈍感な人間や下級魔族なら気づかないが、精製所の管理を任されているような古参の上位魔族であれば、自分が見られているという気配に気づく可能性がある」
「なるほど。気配を悟られれば、奴らは証拠を隠滅すると」
「そうだ。今回の視察の目的は、予算の横領と不正の証拠を完全に押さえ、奴らが溜め込んだ富ごと根こそぎ奪い取ることにある。ここで神眼を使い、警戒されて偽の帳簿を用意されたり、不当に搾取した魔石を別の空間に隠されたりしては二度手間になる。だからこそ、奴らが完全に油断し、暴利を貪っているその瞬間を、この足で直接踏み潰すのが最も合理的で確実なのだ」
俺の説明を聞いたシュピッツは、暗闇の中でぞっとするような冷たい笑みを浮かべた気配がした。
「素晴らしい。力による絶対的な蹂躙だけでなく、獲物が逃げる退路をあらかじめすべて塞ぎ、最も残酷なタイミングで絶望を突きつける。これぞまさに、我らが魔王様の深謀遠慮。前任の愚か者には決して持ち得なかった、冷徹なる支配者の知略にございます」
シュピッツの歓喜の声の背後で、ニーナが小さく息を呑む音が聞こえた。彼女の頭の中で、俺という存在の恐ろしさがさらに強固に組み上がっているのだろう。逆らう者を力でねじ伏せるだけの暴君であれば、まだ裏をかく隙がある。だが、俺は前世で領地経営と兵站のすべてを押し付けられ、人間の汚い欲望や不正の隠蔽工作を嫌というほど見てきた。数字の誤魔化しも、裏帳簿の作り方も、すべてを熟知している。だからこそ、相手がどのような手で逃げようとするかを先読みし、その希望を完璧にへし折ることができるのだ。
「ニーナ。遅れるな。ここから先は空気がさらに悪くなる」
「は、はいっ。マオ様」
俺が声をかけると、ニーナは慌てて小走りで俺の背中に追いついてきた。彼女の悪魔の尻尾は不安げに揺れ、両手で自身の修道服の裾をぎゅっと握りしめている。治癒能力に特化した彼女は、地下から這い上がってくる濃密な魔力溜まりの瘴気と、そこで苦しむ数多の生命の悲鳴を、すでに肌で感じ取っているはずだ。
やがて螺旋階段が終わり、巨大な鉄格子の扉の前にたどり着いた。ここが魔力結晶精製所の入り口だ。俺は認識阻害の魔法の出力を上げ、門番の魔族たちの目を欺いて悠然と内部へと足を踏み入れた。
そして、俺たちの目の前に広がったのは、まさに地獄と呼ぶにふさわしい光景だった。
「……ひどい」
ニーナが思わず両手で口を覆い、悲痛な声を漏らした。
俺が玉座で目を通していた報告書には、最新式の魔導ゴーレムによる完全自動化ラインが稼働し、労働環境は極めて良好であり、予算は適切に魔導具のメンテナンスに充てられていると書かれていた。だが、目の前にある現実はどうだ。
巨大な地下洞窟の中には、毒の沼のように澱んだ紫色の魔力溜まりが各所に点在し、呼吸をするだけで肺が焼けるような有毒ガスが充満している。報告書にあった最新式のゴーレムなどどこにもない。あるのは、とうの昔に魔力切れで動かなくなった旧式の土塊の残骸だけだ。
代わりに現場で重い岩を運び、魔力結晶を削り出しているのは、骨と皮だけになるまでやせ細った何千という下級魔族たちだった。彼らには有害な瘴気を防ぐための防護結界すら与えられず、ただボロ布を纏っただけの姿で、血を吐きながらピッケルを振るっている。少しでも動きが鈍れば、現場を監督している中位魔族の鞭が容赦なく背中に振り下ろされ、肉が裂ける鈍い音が地下空間に反響していた。
「動け。このウスノロ共が。今日のノルマが終わるまで水は一滴も与えんぞ」
肥え太った監督官が、倒れ伏した下級魔族の頭を蹴り上げながら怒鳴り散らしている。蹴られた魔族はピクリとも動かない。すでに瘴気に肺を侵され、息絶えているのだ。監督官は舌打ちをすると、死体をまるでゴミのように毒の沼へと蹴り落とした。
「あ……ああ……」
ニーナの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。彼女の強力な治癒の力は、この空間に満ちている数え切れないほどの痛み、苦しみ、そして死の波長をダイレクトに受信してしまっている。彼女の優しい心にとって、この惨状をただ見ていることなど耐えられるはずがなかった。
「待って……。死んじゃう。みんな、死んじゃう……。わたしが、わたしが治さないと」
ニーナが認識阻害の結界から飛び出そうと、無意識に一歩を踏み出した。その両手には、すでにあらゆる傷を癒す純白の完全聖域の光が灯り始めている。
だが、彼女が駆け出すよりも早く、俺は無造作に手を伸ばし、彼女のローブの襟首を後ろから強く掴んで引き戻した。
「ひゃうっ」
「動くなと言ったはずだ、ニーナ」
俺の極寒の冷気を帯びた声に、ニーナの肩がびくっと跳ねた。彼女は涙で濡れた顔で俺を振り返り、すがるような目を向けた。
「でも、マオ様……。あの子たち、病気で血を吐いてます。今すぐ治癒魔法をかけないと、本当に死んでしまいます。どうか、どうか助けに行かせてください」
「馬鹿め。お前が今あいつらを全快させたところで、何の意味がある。結果はどうなるか教えてやろう。監督官たちは労働者が元気になったのを見て喜ぶだろうな。そして、ノルマを今の三倍に引き上げ、あいつらを眠らせることもなくさらに過酷に鞭打ち続けるだけだ」
俺の残酷な、だが完全に論理的な指摘に、ニーナは言葉を失った。
「お前がやろうとしているのは、死に至る病を患っている者の表面の痛みだけを取り除き、病巣そのものを放置するのと同じことだ。対症療法など無意味だ。真の治癒とは、病巣そのものを物理的に完全に切除し、二度と再発しない環境を構築することを言う。お前のその安い同情心は、事態を余計に悪化させるだけだと知れ」
俺は掴んでいた襟首を離し、ニーナの顔を冷たく見下ろした。
「この腐敗の病巣は、現場で鞭を振るっている小悪党どもではない。本来設備投資に回されるべき莫大な予算をすべて横領し、この劣悪な環境を放置して私腹を肥やしているこの精製所の総責任者だ。そいつの首を物理的に刎ね落とし、魔王軍の絶対のルールを奴らの魂に刻み込むまでは、誰一人として治療することは許さん」
「……はい……。マオ、様……」
ニーナは唇を噛み締め、両手に灯っていた治癒の光を消して深く頭を下げた。俺の冷酷な合理主義の前に、彼女の感情的な正義感は完全に折れ曲がっていた。彼女は理解したのだ。俺のやり方は恐ろしく冷酷だが、結果的には前魔王の無責任な優しさよりも、遥かに確実で永遠の救済をもたらすという事実を。
俺たちは再び歩みを進め、精製所の最奥にある強固な防音結界と魔力障壁で守られた一郭へと向かった。そこは、劣悪な採掘現場とは完全に切り離された、場違いなほどに豪奢な巨大な両開き扉で閉ざされている。
俺は認識阻害の魔法を維持したまま、シュピッツに顎でしゃくって合図を送った。シュピッツは無言で頷くと、音もなく巨大な鎌を振るい、分厚い扉の蝶番と結界の術式だけを空間ごと綺麗に切断した。俺が扉を軽く押すと、重厚な扉は何の抵抗もなく静かに開き、俺たちは管理者の執務室の内部へと足を踏み入れた。
外の地獄のような惨状が嘘のように、その部屋はむせ返るような高級な香料の匂いと、眩いほどの金銀財宝で満たされていた。床には最高級の魔獣の毛皮が敷き詰められ、壁には美しい絵画が飾られている。そして部屋の中央にある巨大なテーブルでは、精製所の管理者である上位魔族ガルドが、数人の美しい夢魔を侍らせながら、血のように赤い高級ワインを煽っていた。
「がはははは。いやあ、笑いが止まらん。今月も予算はたっぷり下りてきたぞ。魔王とはいっても、所詮は飾り物よ。我ら古参の貴族が提出した報告書を、ろくに調べもせずにすべて承認しおったわ」
肥え太った豚のような腹を揺らしながら、ガルドが下品な笑い声を上げる。
「現場のゴミどもには泥水をすすらせておけばいい。浮いた予算はすべて俺のものだ。次は魔帝都の一等地にもう一つ屋敷を建ててやろうか。ははははっ」
夢魔たちが媚びるような声を上げ、ガルドの口に高級な果実を運ぶ。この地下で何千という同胞が血を吐いて死んでいくのを数字の上の塵としか思っていない、純粋な腐敗の象徴がそこにあった。
「……実に楽しそうだな、ゴミ」
俺は部屋の中央まで歩み寄ると、認識阻害の魔法を完全に解除した。
突如として何もない空間から現れた三人の人影に、夢魔たちが悲鳴を上げて部屋の隅へと逃げ惑う。ワイングラスを落としたガルドは、最初は目を丸くして驚愕し、次いで顔を真っ赤にして激怒した。
「な、なんだ貴様らは。どうやってこの防音結界を抜けた。ここを私、魔将ガルドの執務室と知っての狼藉か。警備兵、警備兵はいないのか」
ガルドが喚き散らすが、外の扉の結界はすでにシュピッツが両断している。どんなに叫ぼうと、彼の声が外の警備兵に届くことはない。
「貴様、見覚えがあるぞ。たしか四天王のシュピッツとかいう狂犬か。なぜこんな地下にいる。まさか、私の財産を狙って強盗にでも入ったつもりか。古き血筋である私を愚弄するなら、いくら四天王といえどタダでは済まさんぞ」
ガルドはシュピッツの顔を見てさらに態度を大きくしたが、シュピッツはガルドに言葉を返すことすら汚らわしいというように、ただ冷たい殺気を放つだけだった。ガルドの視線が、シュピッツの前に立つ俺へと移る。俺は角を隠さず、前魔王から受け継いだ圧倒的な魔力の覇気を隠すことなく解放した。
俺の姿と、その全身から溢れ出る深淵のような漆黒の魔力に触れた瞬間、ガルドの顔色が一気に青ざめた。
「ま、まさか……。貴方様は……魔王様……? いや、そんな馬鹿な。玉座から一歩も動かないはずの魔王が、なぜこのような地下の精製所に……」
ガルドは椅子から転げ落ちるように床に崩れ落ち、ガタガタと震え始めた。彼も上位魔族の端くれだ。目の前にいる存在が、報告書を素通りさせた無能な若造などではなく、自らの不正を完全に把握した上で、処刑のために直接足を運んできた死神であることに気づいたのだ。
「報告書は読ませてもらったぞ、ガルド。最新式のゴーレムによる自動化、良好な労働環境、適切な予算消化。……随分と素晴らしいファンタジー小説だった。人間界の三流作家でも、もう少しマシな嘘を吐くぞ」
俺の静かな、しかし絶対的な威圧を込めた言葉に、ガルドは床に額を擦り付けて必死に弁明を始めた。
「ち、違います。これは誤解にございます魔王様。現場の環境は確かに少し厳しいかもしれませんが、それもすべて魔王軍の魔力結晶の生産量を維持するため。私は私財を投げ打ってでも……」
「私財だと。領民の生き血を啜って集めたこの部屋のガラクタのことか。見苦しい言い訳は聞きたくない。お前の罪は、俺の予算を盗んだことだけではない。俺の所有物である労働力を無駄にすり減らし、魔王軍の生産効率を著しく低下させたことだ。無能な寄生虫に生きる価値はない」
俺の死刑宣告を聞いたガルドの瞳に、絶望と、そして窮鼠が猫を噛むような醜い反逆の光が宿った。彼は知っているのだ。横領の罪がバレた以上、魔王が自分を生かしておくはずがないと。ならば、ここで一か八かの賭けに出るしかないと。
「……ふざけるな。若造が、偉そうに魔王を気取るな」
ガルドが突然顔を上げ、狂ったように叫んだ。彼の太い指にはめられていた豪奢な指輪の一つが、不吉な赤い光を放ち始める。それは、彼が横領した莫大な資金で闇市場から買い集めたであろう、古代の希少な使い捨て魔導具だった。
「消えろ、狂犬め。強制空間転移」
ガルドが叫んだ瞬間、シュピッツの足元に複雑な幾何学模様の魔法陣が展開された。それは魔力による抵抗を一切許さない、座標指定の強制ワープの罠。シュピッツが鎌を振り下ろすよりも早く、光の柱が彼を包み込み、次の瞬間にはシュピッツの姿は執務室から完全に消え失せていた。
「きゃあっ」
ニーナが悲鳴を上げて俺の背中にしがみつく。
「はーっはっはっは。かかったな馬鹿め。あの狂犬は今頃、この精製所の最下層にある灼熱のマグマ溜まりの中だ。いくら四天王でも戻ってくるまでには時間がかかるだろう。そして魔王よ、お前は護衛なしでは何もできないただの飾り物だ。ここで私に殺されるのがお似合いだ」
ガルドはシュピッツを遠ざけたことで完全に勝ったと錯覚し、醜く歪んだ笑顔で立ち上がった。彼の中には、前魔王が一度も戦闘に身を投じたことがないという知識があり、戦闘経験のない素人だと思い込んでいるのだ。
「お前をここで灰にし、私が新たな魔王として君臨してやる。死ね。最上位炎魔術、地獄の竜巻」
ガルドの全身から膨大な魔力が噴き出し、執務室の空気を一瞬で灼熱へと変えた。彼の頭上に、すべてを焼き尽くす巨大な炎の竜巻が形成され、部屋の豪華な家具や絵画が瞬く間に灰へと変わっていく。それは上位魔族の名に恥じない、都市の一つを簡単に滅ぼせるほどの極大魔術だった。
俺の背中で、ニーナが恐怖に震えて目を閉じている。
俺は迫り来る炎の竜巻を前にしても、一歩も下がることはなかった。表情一つ変えることなく、ただ右手の指先を軽く前に突き出した。
「……随分と大掛かりな手品だな。だが、お前は魔術の基礎というものをまるで理解していない」
俺は強力な固有スキルや、派手な大魔術など使うつもりは一切なかった。魔力の操作とは、いかに効率よく、いかに高密度で事象を書き換えるかの計算のゲームだ。前世で魔力ゼロの身体で必死に魔術の理論だけを極めた俺からすれば、ガルドの魔術は魔力をごり押ししているだけの、無駄だらけの張りボテに過ぎない。
俺が選んだのは、初級の魔術師でも使える最も基礎的な魔法、水球だった。
だが、俺の体内にある魔王の底なしの魔力炉から引き出され、俺の完璧な理論によって極限まで圧縮されたその水球は、もはや基礎魔術の範疇を完全に逸脱していた。ビー玉ほどの大きさしかないその水滴には、海を丸ごと一つ圧縮したかのような異常な質量と重力が込められている。
「基礎魔術、水球。……潰れろ」
俺が指先でその水滴を弾いた。
音を置き去りにして射出された極小の水球は、ガルドの放った巨大な炎の竜巻のど真ん中へと一直線に飛び込んだ。
水が火を消したのではない。圧倒的な質量を持った水球が炎の竜巻の中心に到達した瞬間、その異常な重力場によって竜巻の術式そのものが内側へと引きずり込まれ、自壊したのだ。巨大な炎の渦が、まるでブラックホールに吸い込まれるように一瞬にして極小の点へと収束し、完全に消滅した。
「な……え……? 私の、私の最上位魔術が……ただの水球で……?」
ガルドは自身の最強の攻撃が、まるで幻であったかのように掻き消された光景を前に、完全に思考を停止させた。彼が状況を理解するよりも早く、炎を喰い破った極小の水球はそのまま真っ直ぐに飛び続け、ガルドの分厚い胸板のど真ん中を貫通した。
「が、はっ……」
派手な爆発も、血しぶきすらない。ただ、ガルドの胸の中心にぽっかりと小さな穴が開き、その肉体の内側から致命的な衝撃波が全身の骨と内臓を粉砕したのだ。
ガルドは白目を剥き、崩れた肉塊のように床へと倒れ伏した。
「……勘違いするなよ。俺がシュピッツを連れ歩いているのは、俺が弱いからではない。俺自身が手を下すまでもない雑魚を掃除させるための、便利な箒だからだ。俺はお前ごときが何万匹集まろうと、指先一つで蹂躙できる」
俺は倒れ伏してピクピクと痙攣しているガルドを見下ろし、冷徹な宣告を下した。
俺の背後で、目を開けたニーナが、魔法の基礎すら凌駕する俺の圧倒的な力を目の当たりにし、もはや恐怖すら通り越した完全な畏怖の目で俺を見つめていた。
執務室の床に倒れ伏し、ガルドは胸に開いた致命的な風穴から大量の血を流しながら、ヒューヒューと掠れた呼吸を繰り返していた。俺が放ったただの水球は、彼の放った最上位炎魔術を完全に飲み込んだ上で、彼の強靭な上位魔族としての肉体を紙切れのように貫通したのだ。魔力の運用効率と事象の書き換えという魔術の深淵において、前世で魔力ゼロの身体から理論だけを極限まで突き詰めた俺と、生まれ持った魔力量だけで胡坐をかいていたこのゴミとでは、生き物としての次元が違いすぎた。
「あ……が……。ば、ばかな……。わたしの、魔術が……」
信じられないものを見るような目で自身の胸の穴を見下ろすガルド。その直後、執務室の空間がガラスの割れるようなけたたましい音を立てて歪み、真っ赤に焼け焦げた次元の裂け目が口を開けた。
「……痴れ者が。このシュピッツに、よくもあのような下等な罠を仕掛けてくれたな」
裂け目の中から姿を現したのは、全身からドロドロに溶けたマグマを滴らせ、純粋な殺意の塊と化した四天王シュピッツだった。強制空間転移によって精製所の最下層にあるマグマ溜まりへと落とされた彼は、自らの力で空間そのものを切り裂き、文字通り地獄の底から歩いて戻ってきたのだ。彼の纏う衣は所々焼け焦げていたが、その肉体には傷一つない。ただ、主の御前で不覚を取ったという屈辱と、ガルドに対する無限の怒りが、彼の持つ巨大な死神の鎌をどす黒く発光させていた。
「しゅ、シュピッツ……。なぜ、もう戻って……」
「貴様のその醜い豚の首、千の肉片に切り刻んで豚の餌にしてくれるわ」
シュピッツが鎌を振り上げ、ガルドの首を刎ね飛ばそうとしたその瞬間、俺は静かに手を上げてそれを制止した。
「待て、シュピッツ。そいつを殺すな」
「……魔王様。このような恩知らずのゴミ虫に、慈悲をお与えになるのですか」
「慈悲だと。俺がそのような生温いものを持ち合わせているように見えるか。ただ殺すだけでは、こいつが俺から盗んだ莫大な予算と労働力の対価としては安すぎるというだけだ。罪には、それに相応しい合理的で完璧な罰を与えなければならない」
俺の言葉を聞き、シュピッツは鎌を下ろして深く一礼した。床で血の海に沈んでいるガルドは、俺が殺すなと言ったことで一瞬だけ安堵の表情を浮かべたが、それは次に来る真の絶望への前振りに過ぎなかった。俺はゆっくりと歩み寄り、ガルドの脂ぎった頭髪を掴んでその顔を無理やり持ち上げた。
「ガルド。お前は自分の特権と魔力に溺れ、他者から搾取することだけを覚えて肥え太った。お前が下級魔族たちを虫ケラのように扱い、毒の瘴気の中で死ぬまで働かせることができたのは、ひとえにお前が上位魔族としての強大な力と権力を持っていたからだ。……ならば、お前が最も恐れる地獄は、死ではないはずだ」
俺の冷たい瞳に見下ろされ、ガルドの顔面から再び血の気が引いていく。俺の右手から、あのエルザの結界を奪い取った時と同じ、漆黒の魔力の糸が無数に伸び始めた。
「や、やめろ……。何を、何をする気だ……」
「お前のすべてを、俺が有効活用してやる。全技能強奪」
俺が冷酷に宣告した瞬間、漆黒の糸がガルドの全身に深く突き刺さった。それは肉体を傷つけるものではない。彼が生まれながらにして持っていた上位魔族としての魔力回路、彼が長年かけて習得してきたすべての魔術の知識、そして彼を彼たらしめていた古き血筋の権能そのものを、魂の根源から根こそぎ引き剥がす絶対の簒奪だった。
「ああああああああああああああっ」
ガルドの口から、執務室の防音結界の残骸を震わせるほどの絶叫が響き渡った。彼の体から、上位魔族の証であった強大な魔力の光がずるずると引きずり出され、俺の手のひらへと吸い込まれていく。魔力を奪われるという喪失感は、四肢をもがれる物理的な痛みよりも遥かに恐ろしい精神の崩壊をもたらす。ガルドの立派だった角はボロボロに崩れ落ち、彼の肥え太った肉体は急速に萎み、ただの醜く老いぼれた脆弱な魔族へと変貌していった。
俺は奪い取ったガルドの能力と魔力を自身の魔力炉へと放り込み、一瞬で解析を終えた。
「……炎魔術の適性に、土壌操作のスキルか。地下の採掘場を管理するには確かに適した能力だ。ただ私腹を肥やすためだけに使っていたようだが、俺の完全支配で最適化すれば、ゴーレムの動力源として十分に使い物になる」
俺がそう呟くと、足元で完全に魔力を失い、這いつくばっているガルドがガタガタと震えながら俺を見上げた。彼はもはや魔法の火すら起こせない、下級魔族以下のただの非力な老人に成り下がっていた。
「あ、あぁ……。わたしの魔力が。わたしの力が……。かえ、返してくれ……」
「返してほしければ、自らの労働で買い戻すことだな。シュピッツ、このゴミを外の採掘現場へ引きずって行け」
俺の冷酷な命令に、シュピッツは最高に邪悪な笑みを浮かべてガルドの首根っこを掴み上げた。
「御意に。……おい、お前が今まで散々虫ケラのように扱ってきた下層の奴隷どもが、魔力を失ったお前を見てどんな顔をするか見物だな。お前は今日から、この精製所の最下層、最も瘴気の濃いエリアで死ぬまでピッケルを振り続けるのだ。安心しろ、ノルマを達成するまでは水一滴すら与えんぞ」
「い、いやだ……。それだけは、それだけは許してくれ。あんな地獄でわたしが生きられるわけが……」
「お前が彼らに強要していたことだ。存分に味わえ」
俺は泣き叫ぶガルドを一瞥もせず、背後でその光景を呆然と見つめていたニーナへと振り返った。
「さあ、邪魔な病巣は完全に切除した。次は対症療法の時間だ、ニーナ」
ニーナはビクッと肩を震わせた。彼女は俺がガルドからすべてを奪い、彼が今まで強要してきたのと同じ地獄へと突き落とす様を目の当たりにし、俺という存在の徹底した容赦のなさと、残酷なまでの公平性に言葉を失っていた。だが、俺が彼女に求めているのは恐怖による萎縮ではない。俺の駒としての完璧な働きだ。
俺たちはシュピッツに引きずられるガルドを先頭にして、再びあの地獄のような採掘現場へと戻ってきた。俺が執務室から奪い取った魔導具の力と自身の魔力を使い、地下空間に充満していた紫色の有毒な瘴気を一瞬にして浄化して吹き飛ばす。空気が澄み渡ったことで、現場の悲惨な状況がより鮮明に視界に飛び込んできた。
倒れ伏して血を吐く者、落石で手足を失った者、過労で完全に意識を失っている者。何千という下級魔族たちが、突然の瘴気の消失と、現れた俺たちの姿に戸惑いの目を向けていた。そして彼らの視線は、シュピッツにゴミのように引きずられ、魔力を失って無様に泣き喚いている元監督官、ガルドの姿に釘付けになった。
「あ、あれは……ガルド様……? なぜ、あんなお姿に……」
「角が……折れている。魔力も全く感じないぞ……」
ざわめきが広がる中、俺は認識阻害を完全に解き放ち、魔王としての圧倒的な覇気を地下空間全体に響き渡らせた。
「よく聞け、魔王軍の労働者たちよ。お前たちを不当に搾取し、俺の予算を盗み、この地獄を作り出していた寄生虫は、俺が今この瞬間にすべて排除した」
俺の低く響く声に、数千の労働者たちが一斉に息を呑み、本能的な畏怖からその場に平伏した。
「俺は新たなる魔王、マオだ。前任の無能な王はもういない。俺はお前たちに無意味な優しさを振り撒くつもりはないが、俺のために働く者には、相応の対価と完璧な環境を保証する。お前たちの流した血と汗は、決して俺の玉座を汚すようなゴミどもには渡さない」
俺の宣言は、彼らにとって信じられないものだったはずだ。今まで誰一人として彼らの苦境に見向きもせず、ただ搾取されるだけの存在だった彼らの前に、絶対的な力を持つ魔界の王が直接現れ、彼らを苦しめていた元凶を物理的に排除してくれたのだから。
「ニーナ。やれ」
俺が背後に控える純白の治癒士に命じると、ニーナは小さく頷き、震える足を前に進めた。彼女の顔には、先ほどまでの怯えだけではなく、俺から与えられた明確な役割に対する強い決意が宿っていた。彼女は両手を胸の前で組み、自身の持つ規格外の能力を地下空間全体へと解放した。
「届いて……。完全聖域」
地下の広大な空間が、眩いばかりの純白の光に包み込まれた。それは太陽の光を見たことがない地下の労働者たちにとって、まさに神の奇跡のような光景だっただろう。光の波が彼らの体を優しく撫でていくと、瘴気に侵されて黒く変色していた肺が正常な色を取り戻し、落石で潰れていた手足が瞬時に再生し、過労で削り取られていた生命力が底なしに溢れ出してきた。
「お、おお……。息が、息が苦しくない……」
「腕が……ちぎれたはずの腕が元通りになっている。痛みもない……」
数千人の下級魔族たちが、自身の体を確認し、次々と歓喜の声を上げ始めた。彼らは完全に癒された自身の肉体を抱きしめ、ある者は涙を流し、ある者は隣の仲間と抱き合って喜んでいる。そして彼らの視線は、純白の光を放つニーナと、その背後に絶対的な支配者として君臨する俺へと一斉に向けられた。
「魔王様……。マオ様が、俺たちを救ってくださった……」
「ガルドを成敗し、俺たちの病を治してくださった。あぁ、なんという御方だ……」
誰かが床に額を擦り付け、感謝の言葉を口にしたのを皮切りに、数千の労働者たちが一斉に俺に向かって最も深い平伏の姿勢をとった。彼らの瞳に宿っているのは、恐怖による服従ではない。自身を地獄から引き上げ、真の救済を与えてくれた絶対的な王に対する、狂信的なまでの忠誠と崇拝だった。
「マオ様。我らが至高の魔王、マオ様。我らの命、すべて貴方様のために……」
地下空間が、俺の言葉を待つ数千の熱狂的な声で揺れている。俺は前世で、どれだけ努力しても無能と虐げられ、すべてを奪われた。だが今はどうだ。俺が合理的な決断を下し、不要なものを排除し、必要な場所に適切な力を配置しただけで、これほどまでの熱狂と忠誠が手に入る。これが王の力。これが、すべてを支配するということだ。
「さあ、働け。お前たちの健康な肉体は、俺の魔王軍を最強にするための貴重な資産だ。俺の覇道のために、その命の限りピッケルを振るい続けろ。俺の期待に応える限り、二度とお前たちを飢えさせることはない」
俺の冷徹な、しかし確実な未来の保証を約束する言葉に、労働者たちは歓喜の雄叫びを上げて一斉に作業に戻っていった。彼らの動きには先ほどまでの悲壮感は微塵もなく、魔王への忠誠心という新たな燃料を得て、かつてないほどの効率で魔力結晶を掘り出し始めた。
その様子を、ニーナは呆然と見つめていた。彼女の悪魔の尻尾は力なく垂れ下がっているが、その瞳に浮かんでいる感情は、先ほどの執務室での恐怖とは全く質の異なるものだった。
彼女は理解したのだ。前魔王がどれほど優しい言葉をかけ、どれほど彼女の頭を撫でてくれようとも、あの地下の惨状は一日たりとも改善されなかった。前魔王の優しさは、ただ彼自身の心を慰めるための自己満足であり、現実の地獄には何の救いももたらさなかった。しかし、目の前にいる新しい魔王はどうだ。彼は冷酷で、恐ろしく、計算高く、他者を駒としか思っていない。彼女に対しても、役に立たなければ切り捨てると平然と言い放った。だが、その冷徹な合理主義と圧倒的な暴力が、結果として誰よりも早く、誰よりも確実に、数千の苦しむ命を地獄から救い出したのだ。
表面上の優しさでゆっくりと殺される世界か。それとも、冷酷な管理の下で確実に生かされる世界か。ニーナの優しい心にとって、どちらが真の救済であるかは明らかだった。
「……マオ、様……」
ニーナの声には、もう微かな震えしかなかった。彼女はゆっくりと俺の隣に歩み寄り、自らの意思で俺の漆黒のマントの裾を小さな手でぎゅっと握りしめた。
「どうした、ニーナ。まだお前の甘ったれた同情心は満たされないか」
「……ちがいます。わたし、わかりました。マオ様が仰っていたことの、本当の意味が」
ニーナは俺を見上げ、涙で濡れた目を瞬かせながら、はっきりとした声で言った。
「前の魔王様は、わたしに居場所をくれました。でも、マオ様は、この世界の病気を……本当の意味で治すことができるんですね。たとえそのやり方が、すごく怖くて、冷たくても……」
「俺は世界の病を治すつもりなどない。俺の邪魔になる不具合を物理的に排除しているだけだ。勘違いするな」
俺が冷たく突き放しても、ニーナはマントの裾を握る手を離さなかった。彼女の尻尾が、ほんの少しだけ、俺に対する畏怖と依存を示すように揺れている。
「それでも……わたしは、マオ様に従います。わたしの治癒の力は、マオ様が切り捨てないと言ってくださった人たちのために、全部使います。だから……わたしを、ずっとマオ様の傍に置いてください。マオ様が作る新しい世界を、わたしにも手伝わせてください」
それは、彼女が自身の存在意義を完全に俺へと委ねた瞬間だった。圧倒的な恐怖で支配されながらも、俺がもたらす結果の正しさに抗うことができず、自ら進んで俺の所有物となることを選んだのだ。シュピッツのような狂信とはまた違う、善性を持った者特有の、追い詰められた末の絶対的な依存。
これこそが、俺が望んでいた完璧な服従の形だった。
「いいだろう。ならば俺の期待を裏切るな。お前のその力、骨の髄まで俺の覇道のためにこき使ってやる」
俺がそう告げると、ニーナは安心したように小さく微笑み、再び深く頭を下げた。
俺の魔王領の視察は、これ以上ないほどの成果を上げた。無能な寄生虫を排除し、莫大な予算を取り戻し、数千の労働者の狂信的な忠誠を得て、さらには四天王である最強の治癒士の心を完全に支配下に置いた。
アールスハイムの人間たちを絶望の牢獄に閉じ込め、魔界の内部の腐敗を浄化した今、俺の基盤は完全に盤石なものとなった。莫大な資産と、絶対服従の軍勢、そして俺自身の最強の知略とスキル。これらすべてを動員し、俺は本格的な人間界への侵攻、すなわちこの腐りきった世界そのものへの徹底的な復讐と支配を開始する。
暗い地下空間から、俺は天網の眼を通して遥か彼方の人間界の空を見上げた。俺を捨てた愚かな貴族どもが、俺の作り出した絶望の中でどれほど醜く足掻くのか。そして、この世界が俺の力の前にどう崩れ去っていくのか。




