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第3章:アールスハイムの崩壊

アールスハイムの空を覆い尽くした絶望の軍勢。

漆黒の竜の背から見下ろす俺の目に映るのは、恐怖に顔を引きつらせ、泥水をすすりながら天を仰ぐ市民たちの姿だった。

彼らの顔には「なぜ自分たちがこんな目に遭うのか」という、理不尽な被害者としての悲壮感が張り付いている。

その虫唾が走るほどに自己中心的な顔つきを見て、俺は冷たい怒りと共に、かつてこの街で味わった泥の味を思い出していた。


『――市民ども。貴様らは今、理不尽な暴力に怯え、神に救いを求める哀れな子羊のつもりだろう。だが、俺は知っているぞ。お前たちのその薄汚い本性を』


俺の声が、魔法拡声によって空気を震わせ、都市の隅々にまで降り注ぐ。

暴徒と化していた者たちも、警備兵も、その場に縫い付けられたように動けなくなっていた。


『俺を捨てたのは、あの身勝手な両親だけではない。この都市に住むお前たち全員だ』


俺の脳裏に、一つの鮮明な記憶が蘇る。


魔力がないと虐げられ、あの館を飛び出した俺は、己の知識だけを頼りに生きる決意をした。路地裏の片隅に小さな店舗を構え、土壌と気候の知識、そして緻密な温度管理を駆使して、魔法に頼らずとも育つ、宝石のように甘く美しい幻の赤苺の栽培に成功したのだ。

その店は、俺の全てだった。

そしてそこには、俺の唯一の家族がいた。

吹けば飛ぶような小さな炎の獣魔、ミオだ。

魔力のない俺によく懐き、不器用ながらも一生懸命に苺の苗を温め、店番を手伝ってくれた、優しくて賢い小さな相棒。ミオがいれば、両親に捨てられた孤独など、どうでもよかった。

だが、この都市の人間たちは、そんな俺のささやかな箱庭すら許さなかった。


『魔力もない無能な貴族崩れが、いっぱしに商売などと生意気な』

『あんな甘い果実、どうせ裏で汚い手を使っているに違いない』


同業者たちの嫉妬。衛兵たちの不当なみかじめ料の要求。

そして、街のゴロツキや一般市民でさえも元貴族の落ちこぼれという恰好のサンドバッグを見つけ、日々の憂さ晴らしに店へ嫌がらせにきた。

丹精込めて育てた苺を踏みにじられ、売り上げを奪われ、それでも俺はミオと共に歯を食いしばって耐え続けた。


だがある夜、奴らはついに一線を越えた。


『ちょっとした【いたずら】だ。身の程を教えてやるんだよ』


酒に酔った商人たちとゴロツキが、笑いながら俺の店に松明を投げ込んだのだ。

乾燥した木造の店舗は瞬く間に炎に包まれた。俺はゴロツキどもに押さえつけられ、ただ燃え盛る店を見ていることしかできなかった。


「ミオ……!逃げろ、ミオォォッ!!」


あの日の俺の絶叫を、今でもはっきりと覚えている。

ミオは逃げなかった。俺たちの宝物である苺の苗を、小さな体で炎から守ろうとして……そのまま、炎に飲み込まれていった。炎はしばらくして水性結界魔術により消火された。

すべてが灰になった後、黒焦げになった小さなミオの骸を抱きしめて泣き叫ぶ俺を見て、連中はこう言ったのだ。


『たかが下等な獣魔一匹で大げさな。ざまあみろ、これで思い知っただろう』と。嘲笑しながら。

消火に当たった一人の女結界魔術師が『身の程を知らぬものが夢を見るから』と。




『思い出したか、アールスハイムの愚民ども』


上空から放つ俺の声に、広場にいた数人の商人やゴロツキが、ハッと息を呑むのが『天網の眼』を通して見えた。

彼らはようやく、空に浮かぶ絶望の魔王が、かつて自分たちが笑いながらすべてを奪い、踏みにじり、辺境へと追いやったあの『無能な少年』であることに気づいたのだ。


「あ、ああっ……嘘だ、嘘だろ……?」

「あ、あの時の……許してくれ、あれはただの悪ふざけで……」


広場のあちこちで、絶望と後悔に満ちた悲鳴が上がり始める。


『許す? 慈悲? ……俺の大切なミオを焼き殺し、俺のすべてを嘲笑ったお前たちが、どの口でそれを言うのだ』


俺は、漆黒の竜の背で、ゆっくりと右手を振り上げた。

俺の掌に、魔界の深淵よりも昏い、圧倒的な密度の魔力が球体となって収束していく。


『この一週間の飢えと苦しみは、ほんの挨拶代わりだ。これより、お前たちが俺から奪ったように、俺もお前たちのすべてを蹂躙する』


狙うのは、人間たちの命ではない。

かつて彼らが俺の店を焼き払ったように、彼らが最も執着し、己の価値だと信じて疑わない『富の象徴』だ。


『天網の眼』でロックオンしたのは、都市の中心部に立ち並ぶ、かつて俺を迫害した商人たちの巨大な商館、そして、レオンハルト男爵が富を溜め込んでいる大金庫。


『まずは、貴様らの誇りを灰にしてやろう。――【極大破滅魔弾ルインズ・バースト】』


俺の右手から放たれた漆黒の流星雨が、何万という悲鳴を置き去りにして、アールスハイムの街並みへと降り注いだ。


俺の右手から放たれた漆黒の流星雨は、アールスハイムの中心部へと正確に降り注いだ。標的はレオンハルト男爵の巨大な金庫室と、俺の店を焼き払った商人たちの豪奢な商館のみである。市民たちの命など最初から狙っていない。奴らが最も愛し、己の価値そのものだと信じ込んでいる富と権力の象徴だけを、物理的に、そして徹底的に破壊するための魔弾だ。


強固な魔法障壁が施されていたはずの鋼鉄の扉は、俺の魔力が触れた瞬間に飴細工のようにドロドロに融解した。何世代にもわたって領民から搾取し、周辺諸国の商人たちを騙して築き上げた黄金の山が、原型をとどめない鉄と金の海へと沈んでいく。


「あ、あ……私の、私の全財産が……」


広場の片隅で、腹の出た商人が膝から崩れ落ちた。かつて俺の育てた果実を踏みにじり、ミオを焼き殺した男の一人だ。その男が絶望に顔を歪め、自身の全てであった商館が灰に変わっていく様をただ見つめている。俺は上空の竜の背から、その光景を天網の眼を通して観察していた。彼らが流す涙には、ミオが死んだ時に俺が流した血の涙ほどの価値もない。一方、アールスハイムの中心にそびえる魔術塔の最上階では、この都市の防衛を一手に担う天才結界魔術師エルザ・フォン・アーレンスが、自身の展開している防衛陣の異常な魔力干渉に息を呑んでいた。

彼女は幼い頃から神童と呼ばれ、あらゆる属性の防御魔法を極めた逸材である。レオンハルト男爵に莫大な報酬で雇われてはいるが、彼女自身の誇りは金ではなく、自身の構築した絶対の盾、多重最強結界にあった。火の属性には水の防壁を、物理的な衝撃には風の反発を、光の魔法には闇の吸収層をというように、互いの弱点を補い合う緻密に計算された七十八層の魔法陣が、都市を外界から完全に隔離している。彼女にとってこの結界は自身の命よりも重い芸術作品であり、絶対に破られることのない無敵の城壁のはずだった。


「……あり得ない。私の結界を透過して、内部の建造物だけをピンポイントで破壊しているというの。あれほどの質量を持った魔力攻撃を、結界の表面で相殺することすらできないなんて」


エルザは青ざめた唇を噛み締め、水晶球に映る空の軍勢を見上げた。黒竜の背に立つ魔王の姿は、彼女の理解を超越した絶対的な死の象徴として映っていた。しかし、彼女は自身の誇りを捨てることはできなかった。ここで屈すれば、天才と呼ばれた彼女の人生そのものが無価値になってしまう。


「防衛魔術師団、全魔力を私に集中させなさい。結界の出力を限界まで引き上げます。たとえ魔王軍だろうと、私とあなたたちの命を懸けたこの盾を抜くことなど絶対に不可能なのだから」


エルザの指示により、数十人の上位魔術師たちが一斉に詠唱を開始する。都市を覆う半透明の光のドームが、さらに幾重にも重なり合い、眩いほどの輝きを放ち始めた。それは、絶望的な状況下で人間たちが縋り付いた、最後の希望の光であった。

俺は眼下で光り輝くその結界を見て、静かに息を吐いた。愚かな抵抗だ。どれほど分厚い紙を重ねようとも、鋼の刃の前では何の意味もなさないというのに。俺は傍らに控える狂信の魔将へと視線を向けた。


「シュピッツ。あの女がこの都市の最後の希望らしい。あの眩い光が、奴らの無駄なプライドの結晶だ。……行って、粉砕してこい」


俺の静かな命令に、シュピッツは身の毛のよだつような冷たい笑みを浮かべて深く一礼した。


「御意に。我が至高の魔王様。あの小賢しい光ごと、人間どもの希望を永遠の闇へと切り裂いてご覧に入れましょう」


シュピッツの姿が、ふっとその場からかき消えた。次の瞬間には、彼は上空数千メートルの高さから、アールスハイムの結界の頂点を目指して一直線に落下していた。一切の魔力障壁を張らず、ただ自身の肉体と巨大な鎌の重みだけで重力に従って落ちていく。

魔術塔で陣頭指揮を執っていたエルザは、上空から急速に接近してくる一つの黒い点に気づいた。


「敵将の単独降下……。愚かな。今の多重最強結界は、竜のブレスすら跳ね返す最高硬度になっています。あのような質量兵器による特攻など、結界に触れた瞬間に自身の体がミンチになるだけです」


エルザは防御陣の術式を微調整し、衝突の瞬間に発生する衝撃波を相殺する準備を整えた。彼女の目には、落下してくる魔将の姿が、自殺志願者のようにしか見えていなかった。しかし、シュピッツは結界に激突する直前で、空中でぴたりと静止した。重力という法則すら無視したようなその動きに、エルザの表情がわずかに強張る。空中に浮かぶシュピッツは、巨大な死神の鎌をゆっくりと頭上に振りかぶった。彼の口が、三日月のように歪に裂ける。


「その程度の薄皮で、我が魔王様の御前に立とうなどと。片腹痛いわ」


シュピッツの固有スキル、斬撃王が発動した。彼が振るうのは、物理的な刃ではない。空間そのものを切断し、間に存在するあらゆる概念を二つに分かつ、絶対的な破壊の権能である。


音はなかった。


シュピッツの鎌が振り下ろされた瞬間、エルザが絶対の自信を持っていた七十八層の多重最強結界は、まるで薄いガラス細工のように、音もなく、あっけなく両断された。防御魔法が相殺されたのではない。結界という概念そのものが、空間ごと殺されたのだ。


「……へェ」


エルザの喉から、間の抜けた声が漏れる。結界が破壊されたことによる魔力の逆流が、魔術塔の内部に凄まじい嵐を巻き起こした。陣を構築していた数十人の上位魔術師たちが、一瞬にして血を吐き、糸の切れた操り人形のように次々と倒れ伏していく。絶対の盾が消滅した都市の空に、シュピッツの冷酷な声が響き渡った。


「終わりだ。人間ども」


結界が完全に消失し、丸裸になったアールスハイムの魔術塔。俺は黒竜の背から静かに飛び降り、エルザたちが倒れ伏す塔の屋上へと降り立った。足元には、全身から魔力を失い、震えることしかできないエルザの姿がある。

彼女は自身の全てであった結界を、一振りの鎌で完全に否定されたのだ。その絶望と喪失感は、俺がミオを失った時の痛みに比べれば万分の一にも満たないだろうが、彼女のちっぽけなプライドをへし折るには十分すぎた。


「……ば、化け物……」


エルザは床に這いつくばったまま、俺を見上げて呪詛のように呟いた。その瞳には、かつての知性や余裕は微塵もなく、ただ原初的な恐怖だけが色濃く浮かんでいる。俺はゆっくりとした足取りで、彼女の目の前へと歩み寄った。俺の歩みに合わせて、魔王としての底知れぬ魔力が周囲の空気を凍りつかせていく。俺がブーツを鳴らして歩みを進めるたびに、塔の床材が魔力の重圧に耐えきれずにメキメキと悲鳴を上げてひび割れていく。


「お前がこの都市の最高戦力か。天才結界魔術師エルザ・フォン・アーレンス。お前の築き上げた防壁は、俺の部下の気まぐれな一振りで消え去った。これが、お前たちが俺から全てを奪い、見下してきた結果だ」


俺の言葉を聞いたエルザは、ハッとして俺の顔を凝視した。


「あなた……まさか、あの時の……魔力なしの……」

「そうだ。お前たちが不当に搾取し、俺の店を焼き、大切な家族を殺したあの時の出来損ないだ。俺は地獄の底から這い上がり、お前たちの全てを奪いに来た」


俺の冷たい宣告に、エルザは恐怖で顔を引きつらせながらも、最後の力を振り絞って立ち上がろうとした。結界が破られたのなら、攻撃で魔王を打倒するしかない。彼女の手に、残された全ての魔力を込めた極大の雷撃魔法が形成されていく。


「ふざけるな。私は、私は天才結界魔術師エルザよ。お前のような元人間の化け物に、屈してたまるか……」


彼女の悲痛な叫びと共に放たれた白銀の雷撃が、真っ直ぐに俺の胸元へと迫る。それは都市を一つ灰にするほどの威力を持った、彼女の文字通り決死の一撃だった。


だが、俺は避けることすらしなかった。俺の体から無意識に溢れ出ている魔王の瘴気が、自動的に防御の層を形成しているのだ。エルザの放った雷撃は、俺の纏う瘴気に触れた瞬間に、まるで幻であったかのように掻き消えた。魔術の構成式そのものが、圧倒的な魔力の質の違いによって強制的に書き換えられ、無害化されたのだ。


「……な、嘘でしょう。私の全魔力を込めた一撃が、傷一つ……」


エルザの顔から、ついに全ての血の気が引いた。防御でも攻撃でも、魔王という存在に傷一つ負わせることができない。自身の積み上げてきた人生の全てが、圧倒的な力の前に完全に否定された瞬間だった。

俺はゆっくりと右手を伸ばし、恐怖に凍りつくエルザの細い首を掴んで、片手で空中に吊り上げた。


「がっ……あ……」

「抵抗は終わりか。天才魔術師。お前の誇りも、努力も、俺の痛みの前では等しく無価値だということが、これで理解できたか」


俺の冷酷な問いかけに、エルザは苦しげに顔を歪めながら、俺の目を見つめ返した。俺の瞳の奥底で渦巻く、ミオを奪われた激しい憎悪と、底なしの絶望の闇。それに触れた瞬間、彼女の心の中で、何かが決定的に折れる音がした。絶対に勝てない。逃げることもできない。彼女の魂が、真の恐怖と絶望に染まりきっていくのを、俺の手のひら越しにはっきりと感じ取ることができた。

俺の右手は、エルザの細い首を締め上げたまま、空高く掲げられていた。

足元から伝わってくる魔術塔の崩壊音すらも、今の彼女の耳には届いていないだろう。ただ、俺の瞳の奥に広がる底なしの漆黒と、そこから溢れ出す圧倒的な『死』の気配だけが、彼女の全神経を支配していた。


「がっ……あ……う……」


エルザの口から、もはや言葉にもならない掠れた音が漏れる。

彼女は天才だった。幼い頃から周囲にちやほやされ、魔法の才において挫折を知らずに生きてきたのだろう。彼女の構築した『多重最強結界』は確かに人間の基準からすれば芸術的な完成度を誇っていた。だが、所詮は人間の基準に過ぎない。魔界の最前線で何百年も殺し合いを続けてきたシュピッツの『空間そのものを両断する』という理不尽な権能の前では、紙切れほどの価値もなかったのだ。


そして今、彼女の全魔力を込めた決死の雷撃すらも、俺の纏う瘴気のヴェールを一枚剥がすことすらできずに消滅した。

攻撃も、防御も、彼女の存在意義のすべてが、俺という規格外の存在の前に完全に否定された。


「……理解したか。お前がどれほどの時間をかけて技術を磨こうが、どれほど周囲から天才と崇められようが、俺の前では路傍の石と何ら変わりはない。お前の命も、誇りも、俺が指先一つ動かせば一瞬で消え去る塵芥に過ぎないのだ」


俺の冷徹な声が、彼女の鼓膜を直接震わせる。

エルザの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。それは死の恐怖からくる涙ではない。自身の積み上げてきた人生のすべてが無価値であったと悟った、絶対的な喪失感と絶望の涙だ。


「……ぁ……あ……」


彼女の抵抗する意志が、砂上の楼閣のようにサラサラと崩れ去っていくのを、俺は掌越しにはっきりと感じ取っていた。俺を打倒するという意志も、都市を守るという使命感も、結界魔術師としてのプライドも、すべてが魔王の恐怖によって塗り潰されていく。

俺はゆっくりと右手の力を緩め、彼女を冷たい石の床へと放り投げた。

エルザは咳き込みながら床に這いつくばり、俺のブーツの先を見つめたまま、ガタガタと激しく震えている。


「さあ、選べ。このまま無価値な塵として俺に踏み潰されるか。それとも、俺の足元に平伏し、その無価値な魂を俺の所有物として捧げるか」


選択の余地など最初から与えていない。

心から服従しなければ殺す。ただそれだけの絶対的な二択。

エルザはゆっくりと、まるで錆びついた機械のように体を動かし、俺の足元へと擦り寄ってきた。そして、彼女の美しい金糸の髪が泥に汚れるのも構わず、俺のブーツに自身の額を擦り付けた。


「……ふく……じゅう、いたします……。私の、私のすべては、魔王様のもの……。どうか、どうかこの無力な私をお導きください……」


彼女の魂が完全に砕け散り、俺という新たな絶対者に依存することでしか自我を保てなくなった瞬間だった。

彼女の口から紡がれた心からの服従の誓い。それこそが、俺の固有スキル『全技能強奪スキル・テイカー』を発動させるための最後の鍵である。


俺の脳内に、条件達成を知らせる無機質な感覚が響いた。

俺は冷酷な笑みを浮かべ、エルザの頭上に手をかざした。


「よく言った。ならば、お前のその『無価値な技術』は、俺が有効活用してやろう」


全技能強奪スキル・テイカー』発動。


俺の手のひらから、ドス黒い魔力の糸が無数に放たれ、エルザの体に突き刺さった。

物理的な痛みはない。だが、魂の奥底に刻み込まれた『結界魔術』という概念そのものが、根こそぎ引き剥がされていく圧倒的な喪失感に、エルザは声にならない絶叫を上げて体を痙攣させた。

彼女の体から、眩いばかりの光を放つ複雑な幾何学模様の球体が引きずり出される。それが、彼女が一生をかけて練り上げた結界魔術のスキルの結晶だ。

俺はそれを無造作に鷲掴みにし、自身の胸の中へと押し込んだ。


「あ、ああっ……! 私の、魔法が……結界が……!」


エルザは自身の両手を見つめ、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き崩れた。魔力を練り上げる感覚、結界を構築する術式、そのすべてが彼女の記憶から綺麗さっぱりと消え去っているのだ。彼女はもはや、魔法の使えないただの脆弱な人間に成り下がった。

だが、彼女の瞳には憎しみはなかった。すべてを奪い去った俺を見上げるその視線には、むしろ絶対的な強者に対する狂信的な依存と、安堵すら混じっていた。


「……ふふ、ふふふっ。何も、何もなくなりました。私はもう、悩む必要もない。ただ、魔王様に従っていればいいのですね……」

「そうだ。お前はもう何も考えなくていい。這いつくばって俺の蹂躙劇を眺めていろ」


俺はエルザから奪い取った『多重最強結界』のスキルを、自身の体内にある莫大な魔力炉へと放り込んだ。

前魔王が残した底なしの魔力と、俺自身の冷徹な支配欲が、奪ったスキルと融合し、強制的にその性質を書き換えていく。防御のためではなく、支配と絶望のための権能へと。


『全技能強奪』からの派生――『完全支配マスター・オーダー』。


「書き換えろ。守護の盾など俺には不要だ。俺が求めるのは、一切の逃亡を許さず、内部の希望をすべて圧し潰す絶対の鳥籠だ」


スキルが限界を突破して進化し、俺の脳内に新たな術式が刻み込まれた。

俺は魔術塔の屋上から、パニックに陥っているアールスハイムの都市全体を見下ろし、両手を大きく広げた。


「顕現せよ――『万象拒絶の牢獄ワールド・リジェクション』」


俺の体から放たれた漆黒の魔力波が、一瞬にして都市全域を駆け巡った。

先ほどまでエルザが展開していた半透明の輝く結界とは対極の、光すらも飲み込む完全なる漆黒のドームが、アールスハイムをすっぽりと包み込んだ。

太陽の光が遮断され、都市は真昼間から完全な闇に閉ざされる。

市民たちが空を見上げ、悲鳴を上げるのが『天網の眼』を通してはっきりと見えた。

この『万象拒絶の牢獄』は、外部からの干渉を弾くのはもちろんのこと、内部からのあらゆる脱出・通信・空間転移を完全に無効化する。さらに恐ろしいのは、この牢獄の内部にいる限り、俺以外の者は大気中の魔力を一切扱うことができなくなるという点だ。

魔石の供給を断たれ、魔力炉も動かず、魔法の火すら起こせない完全な暗闇と沈黙の牢獄。

逃げ場を失い、完全に孤立したという事実が、市民たちの心を決定的にへし折った。


「素晴らしい……! なんと美しく、なんと残酷な檻でしょうか! これぞ我らが魔王様の御力!」


魔術塔の屋上に降り立ったシュピッツが、空を覆う漆黒の結界を見上げて歓喜の声を上げた。彼の持つ巨大な鎌が、主の圧倒的な力に呼応するように禍々しい光を放っている。


「シュピッツ。外のワイバーン部隊による包囲は維持しろ。アリ一匹たりともこの鳥籠から逃がすな」

「はっ。御意のままに」


俺は漆黒に染まった都市の中心、最も小高い丘に建てられたレオンハルト男爵の白亜の館を睨みつけた。


「さあ、いよいよ本番だ。俺をゴミのように捨てたあの豚どもに、最高の絶望を届けに行こう」


俺はシュピッツを連れ、魔術塔から飛び降りた。

重力操作の魔法でふわりと宙を舞い、パニックに陥る市街地を眼下に見下ろしながら、一直線に男爵の館のバルコニーへと向かう。


◆ ◆ ◆


レオンハルト男爵の執務室は、すでに阿鼻叫喚の地獄と化していた。


「な、なんだこの闇は。どうなっている。エルザはどうした、あの結界は破られたのではないのか!」

「あ、あなた、外が、外が全く見えませんわ、魔法の灯りも点きません!」


レオンハルトとイザベラは、闇に包まれた執務室の中で互いにしがみつき、震え上がっていた。

彼らが頼りにしていた護衛の魔法兵たちも、大気中の魔力を絶たれたことで魔法を使うことができず、ただ剣を構えて右往左往しているだけだ。


「ええい、狼狽えるな。蝋燭を持て。金ならいくらでもあるのだ、こんな闇など……」


レオンハルトが喚き散らしたその瞬間。

執務室の分厚いオーク材の扉が、爆発したかのように粉々に吹き飛んだ。


「ひぃっ?」


木端微塵になった扉の破片が部屋中に降り注ぐ中、暗闇の奥から、ゆっくりと二つの影が歩み入ってくる。

一人は巨大な死神の鎌を引きずる異形の魔将。そしてもう一人は、圧倒的な漆黒の覇気を纏った、魔王だ。


「誰だ貴様ら、ここをアールスハイム領主レオンハルトの館と知っての狼藉か!」


レオンハルトが恐怖を虚勢で誤魔化しながら叫ぶ。護衛の兵士たちが一斉に俺たちに斬りかかろうと飛び出した。


「下郎が。我が至高の魔王様の御前に立つことすら万死に値するわ」


シュピッツが鎌を振るうまでもない。

俺がわずかに魔力による威圧プレッシャーを解放しただけで、護衛の兵士たちは全員、見えない巨人に頭を踏み潰されたように床に平伏し、口から泡を吹いて気絶した。


「な……ば、化け物……」


腰から砕け落ちたレオンハルトとイザベラの前に、俺はゆっくりと歩み寄る。

俺の指先から小さな魔力の炎を灯し、その光で魔術で作った過去の自身の顔を彼らに見せつけた。


「随分と久しぶりだな。お前たちが莫大な金を出して雇ったエルザは、俺の足元で犬のように這いつくばって命乞いをしたぞ。お前たちが絶対だと信じていた結界は、もう存在しない」


俺の顔を炎の明かりで確認した瞬間、レオンハルトとイザベラの顔面からすべての血の気が引いた。


「お、お前は……ま、まさか……嘘だ、あり得ない。お前はあの時、魔獣の餌になって死んだはずの」

「無能なゴミが、なぜ……なぜ生きているの? しかも、魔族を従えて」


二人は床を這いずりながら後ずさりする。その顔には、信じられないものを見るような驚愕と、理解を超えた恐怖が張り付いていた。


「俺を殺した気になっていたか。残念だったな。俺は地獄の底から、お前たちのすべてを蹂躙するために戻ってきたのだ」


俺は執務室の奥、彼らが最も執着している巨大な鋼鉄の金庫へと視線を向けた。


「お前たちが俺を迫害し、辺境に捨てた理由は一つだ。『魔力がないから』。……だがな、俺がお前たちを絶対に許さない理由は、そんな些細なことではない」


俺の脳裏に、迫害されていた生活、炎に包まれた小さな店と、俺の育てた苺の苗を守るために焼け死んだ、大切な相棒ミオの姿、殺されかけたあの日がフラッシュバックする。俺の周囲の空気が、怒りと殺意でバチバチと放電し始めた。


「俺はお前たちの家を出て、自分の知識だけで生きていこうとした。俺の相棒だった小さな獣魔のミオと共に、店を構え、果実を育て、静かに暮らそうとした。……だが、お前たちの腐りきった領地経営が作り出した、あの薄汚いゴロツキや商人どもは、俺の店に火を放った。俺の大切なミオは、お前たちが作り出したこの都市の『悪意』に焼き殺されたのだ」


俺の言葉一言一言に重い魔力が乗り、執務室の壁に亀裂が走る。


「だから俺は、お前たちをただ殺すような慈悲は与えない。お前たちが最も愛し、最も執着し、他者を見下すために積み上げてきたその『富』を、お前たちの目の前で塵にしてやる」


俺は右手を金庫に向けた。

レオンハルトが狂ったように叫びながら、俺と金庫の間に立ち塞がろうとした。


「や、やめろ、それだけはその中には我が家の全財産が、アールスハイムの未来が詰まっているのだ。頼む、お前も私の息子だろう? 金なら半分、いや八割くれてやる。だからそれだけは」


「……息子、だと? 豚が人間の言葉を喋るな」


俺は冷酷に言い放ち、手から極小の『極大破滅魔弾』を放った。

魔弾はレオンハルトの横をすり抜け、巨大な鋼鉄の金庫に直撃する。

轟音と共に金庫の扉が吹き飛び、中に詰め込まれていた無数の金貨、宝石、貴重な魔石の山が姿を現した。だがそれらは、魔弾の持つ圧倒的な破壊エネルギーの余波を受け、次の瞬間にはドロドロの液体へと融解し、さらに高熱で気化してただの灰へと変わっていく。


「あ……あぁ……あぁぁぁぁぁっ!!」


レオンハルトは顔を覆い、狂ったような絶叫を上げた。

イザベラは白目を剥き、その場で気を失って倒れ込んだ。

彼らが領民から搾り取り、俺を迫害してまで守り抜こうとした絶対的な価値が、文字通り『ゼロ』になった瞬間だった。

彼らは今、ただの薄汚れた服を着た、何の力も持たない初老の男女に過ぎない。


「魔王様。これで、この豚共を刻み刻んでよろしいでしょうか」


シュピッツが鎌を構え、舌舐めずりをしながら問いかけてくる。

だが、俺は静かに首を振った。


「いや、殺すな」


俺は絶望のあまり魂が抜けたようにへたり込んでいるレオンハルトの髪を掴み、強引にその顔を上げさせた。


「よく聞け、レオンハルト。俺はお前たちを殺さない。この『万象拒絶の牢獄』の中で、生かしてやる」


「な、なんだと……?」

虚ろな目を向ける彼に、俺は最高に残酷な笑みを浮かべて告げた。


「この都市は今、完全に封鎖されている。食料は尽き、光もなく、市民たちは飢えと恐怖で完全に発狂している。……そんな極限状態の彼らに、俺はこう伝えてある。『この地獄を招いたのは、お前たちの領主が魔王を迫害したからだ』とな」


俺の言葉の意味を理解した瞬間、レオンハルトの体がブルリと大きく震えた。


「無一文になり、護衛の兵士も失ったお前たちを、飢えて狂った市民たちがどう扱うか。……じっくりと味わうがいい。お前たちが作り出した悪意の都市で、最も憎まれる存在として、這いつくばって泥水をすすりながら生き地獄を堪能しろ。それが、ミオを奪ったお前たちへの、俺からの最大の復讐だ」


俺はレオンハルトを床に投げ捨て、背を向けた。

もう、この豚たちに用はない。彼らはこの先、市民たちによる終わりのないリンチと飢餓の中で、俺に殺してくれと懇願しながら生きていくのだ。


「行くぞ、シュピッツ。アールスハイムはすでに落ちた。ここはもう、絶望を培養するただの実験場だ」

「ははっ!実に素晴らしい。殺すことすら生温い、完璧な蹂躙劇にございました」


俺とシュピッツは、バルコニーから再び漆黒の空へと飛び立った。


『万象拒絶の牢獄』に覆われたアールスハイムの街からは、暴徒と化した市民たちが男爵の館へと押し寄せる怒号と、扉を打ち破る音が鳴り響いていた。やがて、執務室にいるレオンハルトたちの元へ彼らが辿り着き、すべてを奪い合う醜い争いが始まるだろう。

俺は黒竜の背から、その地獄絵図を冷たい目で見下ろした。


復讐の第一歩は完了した。

だが、これは始まりに過ぎない。知識を蓄えている際に知ったこの腐った世界そのものを、俺の知略と最強スキルで完全に支配し、絶望のどん底へと叩き落としてやる。

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