第2章:アールスハイム経済封鎖
人間の領域、その南西部に位置する商業都市『アールスハイム』。
豊かな水源と、四つの主要街道が交差するこの都市は、周辺諸国の物流と経済の中心として栄華を極めていた。
街の中心にそびえ立つのは、この都市を実質的に支配する領主、レオンハルト男爵の広大な館である。白亜の壁と黄金の装飾で彩られたその館は、彼らが領民から搾取し、周辺の商人たちから吸い上げた富の象徴であった。
館の最上階、分厚いビロードの絨毯が敷かれた執務室では、レオンハルト男爵と、その妻イザベラが、山のように積まれた金貨と帳簿を前に下卑た笑い声を上げていた。
「素晴らしい、 今月も周辺諸国からの関税と、我が商館の利益は過去最高を更新したぞ、イザベラ。我がアールスハイムの繁栄は永遠だ」
「ええ、あなた。これもすべて、私たちが莫大な資金を投じて雇い入れた魔術師団と、天才結界魔術師エルザのおかげですわ。あの多重最強結界がある限り、野盗はおろか、忌まわしい魔族どもでさえ、この都市に指一本触れることはできませんもの」
ワイングラスを傾けながら、肥え太ったレオンハルトは満足げに頷く。
ふと、イザベラが思い出したように鼻で笑った。
「そういえば……あの出来損ないが辺境でくたばってから、もう随分と経ちますわね。魔力至上主義の我が家系に泥を塗る、魔力ゼロの恥晒し。帳簿の計算だけは小賢しくこなしていましたが、本当に目障りでしたわ」
「ふん、あのゴミのことか。一丁前に領地経営の改善案などと口出しをしてきおって。我らが高貴なる血筋に、あのような無能が混ざっていたこと自体が汚点なのだ。辺境の視察と騙して魔獣の餌にしてやったが、結果的に警備兵の給金が浮いて清々したというものだ」
「ふふふ、違いないわ。さあ、あなた。次は東の鉱山街の流通を買い叩きましょう。私たちの富は、まだまだこんなものではありませんわ」
彼らは疑うことすらしていなかった。
自分たちが嘲笑い、ゴミのように見捨てた「無能」が、今、次元の壁を越えた魔界の王座から、そのすべての会話を、一言一句違わず聞き取っていることなど。
◆ ◆ ◆
「クックック。相変わらずだな、あの豚どもは」
大魔王城パンデモニウム、玉座の間。
俺は、穏健派のザガンから奪い取り、最上位互換へと進化させた索敵スキル『天網の眼』を通じて、アールスハイムの執務室の光景を完璧に俯瞰していた。
視界だけでなく、声も、温度も、彼らの纏う欲に塗れた魔力の色すらも、すべてが手に取るようにわかる。
「我が至高の魔王様。よろしいのですか? 私に命じていただければ、今すぐ空間を切り裂き、あの豚共の首を玉座の前に並べてご覧に入れますが」
玉座の傍らに控えるシュピッツが、ギリギリと歯を軋ませながら進み出た。
彼の手には、主の過去を侮辱された怒りで、禍々しい魔力を放つ大鎌が握られている。彼の忠誠心は、俺に対する少しの侮蔑すら許容できないらしい。
「落ち着け、シュピッツ。あんな豚の首など、この玉座には相応しくない。俺は言ったはずだ。一思いに殺すのは慈悲だと。奴らが最も愛し、最も執着している『富と権力』を、奴らの手の中で腐らせ、絶望の泥水として飲み込ませてやるのだ」
俺は天網の眼の視界を、アールスハイムの館から、都市全体、そしてその周辺に広がる四つの主要街道へとズームアウトした。
朝日に照らされ、今日も無数の商隊がアールスハイムを目指して列をなしている。
「これより、作戦を開始する。アールスハイムへの経済封鎖だ」
俺は手元の立体魔力マップに、幾つかの赤いピンを突き立てた。
「第一段階。シュピッツ、お前はワイバーン部隊の精鋭と、魔界の隠密部隊を率いて、アールスハイムに繋がるすべての街道を都市の結界の外側で封鎖しろ」
「御意。人間どもを一人残らず喰い殺せばよろしいので?」
「いや、殺す必要はない。追い返せ。あるいは、商隊の積荷だけを焼き払って逃がしてやれ。重要なのは『アールスハイムに行けば、得体の知れない脅威によって商品がすべて失われる』という恐怖の噂を、人間たちの間に徹底的に植え付けることだ」
物理的な破壊よりも、信用不安という名の病魔は、商人の世界において何よりも早く、致命的に伝染する。
「第二段階。魔王軍の宝物庫から、腐るほどある金銀財宝を惜しみなく使え。人間の姿に化けた配下たちを周辺諸国の市場に放ち、アールスハイムに向かう予定だった食料、魔石、日用品のすべてを、相場の三倍の価格で買い占めろ」
「……買い占め、ですか? 我々には人間の食料など不要ですが」
「買い占めたものは、その場で燃やしてもいいし、海に捨てても構わない。目的は、アールスハイムという巨大な胃袋に繋がる兵站を完全に枯渇させることだ。圧倒的な資金力による暴力。前世の俺が最も恐れ、最も防ぎようがないと確信していた経済戦争の基本だ」
俺の意図を完全に理解したシュピッツの顔に、ゾクッとするような歓喜の笑みが広がった。
「素晴らしい! 血の一滴も流さず、剣を一度も振るうことなく、ただ黄金の輝きと見えざる恐怖だけで、何万人もの人間を飢餓と狂乱に叩き落とすのですね。これぞ蹂躙! これぞ魔王の戦い方」
「ああ。あの都市の生命線は物流だ。血流を止められた臓器がどう腐っていくか、特等席で見物させてもらおう。行け、シュピッツ」
「ははっ、我が魔王様のご意志のままに」
シュピッツが影の中に沈み込むように姿を消した直後、俺は傍らで震えている穏健派の元魔将、ザガンを一瞥した。
「さあ、ザガン。お前もよく見ておけ。お前が手を取り合おうとした人間どもが、金と食料を奪われただけで、どれほど醜く争い始めるかをな」
アールスハイムに最初の異変が起きたのは、作戦開始からわずか三日後のことだった。
「……どういうことだ? 今朝は南からの穀物列車が三つ、東からの魔石の馬車が五つ到着する予定だったはずだぞ」
アールスハイムの巨大な中央市場。
商人ギルドのまとめ役である恰幅の良い男が、空っぽの荷捌き場を見て苛立ちの声を上げていた。周囲の商人たちも、不安げに顔を見合わせている。
「それが……街道の途中で引き返してきた行商人たちの話によると、南の穀物庫がすべて、得体の知れない大富豪によって相場の数倍で買い占められてしまったらしく」
「馬鹿な!アールスハイムの商人ギルドより金を出せる奴がどこにいる!ならば東の魔石はどうした!」
「東の街道は……その、巨大な黒い影のような魔獣の群れが現れ、積荷だけをすべて灰にされたと……。恐怖で商隊は散り散りになり、誰もアールスハイムに近づこうとしません」
物流の滞り。
それは、莫大な消費を前提として成り立つ大都市にとって、即座に死を意味する。
その日の午後には、市場から小麦の姿が消えた。
翌日には、肉と野菜の価格が普段の三倍に跳ね上がり、三日後には、生活の基盤となる魔力炉を動かすための魔石が完全に市場から姿を消した。
「おい、どうなってるんだ!パン一つに銀貨一枚だと?昨日の五倍じゃないか!」
「すまないねえ、入ってこないんだよ。どこかの金持ちが周辺の物資を全部買い占めてるって噂でね。うちも明日には店を閉めるしかない」
市民たちの間に、静かな、しかし確実なパニックが広がり始めていた。
だが、この状況を最も喜んでいたのは、皮肉にもこの都市の支配者であるレオンハルト男爵だった。
「ひゃははははっ見ろ、イザベラ、小麦の価格が十倍に跳ね上がったぞ、我が家の備蓄庫にある食糧を少しずつ放出すれば、市民どもの財産を根こそぎ絞り上げることができる」
執務室で報告を受けたレオンハルトは、都市の危機を「最高のビジネスチャンス」としか捉えていなかった。
彼は自らの領民が飢えているというのに、商人たちに命じてさらに物価を吊り上げさせ、自らの懐を肥やすことしか考えていなかった。
天網の眼でその様子を見ていた俺は、冷たい笑いを漏らした。
「……いいぞ、豚ども。もっと太れ。もっと市民から搾取しろ。お前たちがヘイトを集めれば集めるほど、後の絶望が甘美なものになる」
一週間が経過した。
アールスハイムの状況は、すでに異変から地獄へと変わっていた。
魔王軍の徹底的な資金力による周辺物資の買い占めと、ワイバーン部隊の威容による街道封鎖は完璧だった。
都市には文字通り、一粒の小麦も、一欠片の魔石も入ってこない。
「腹が減った。金ならあるんだ、パンを売ってくれ」
「ふざけるな、銀貨十枚でも売れるかこちとら家族を食わせていかなきゃならねえんだ!」
市場では、暴動が日常茶飯事となっていた。
飢えた市民たちは、食料を隠し持っていると噂される大商館や、男爵の館へと暴徒と化して押し寄せ始めた。
「ええい、薄汚い平民どもめ、警備兵は何をしている暴徒は容赦なく斬り捨てろ。私の、私たちが築き上げた富に近づかせるな」
レオンハルト男爵は、血走った目でバルコニーから怒号を飛ばしていた。
彼の命令により、都市の警備兵たちは自らの領民に向かって剣を抜き、魔法を放つ。血が流れ、悲鳴が響き渡る。
「……あなた、おかしいですわ、いくらなんでも、一週間もすべての街道が完全に塞がれるなんて、まるで、見えざる巨大な手が、この都市の首を絞め上げているような」
ようやく事の異常性に気付き始めた妻のイザベラが、青ざめた顔で震えている。
「ええい、うるさいエルザはどうした。あの女の多重最強結界は完璧に機能しているのだろうな」
「は、はい、結界は都市を完璧に覆っております。外部からの物理攻撃、魔法攻撃、一切の侵入を許しません」
報告にきた兵士の言葉に、レオンハルトは狂ったように笑い出した。
「ははははっ、ならば安心だ。暴徒どもは警備兵に殺させ、外の野盗どもは結界で防ぐ、この館に備蓄された食料と水があれば、我々だけは数ヶ月でも生き延びられる。貧乏人どもが飢え死にした後で、ゆっくりと都市を再建すればいいのだ」
愚かだ。あまりにも愚かすぎる。
彼らは気づいていない。
外部からの侵入を完璧に防ぐ多重最強結界が、今は、狂乱と飢餓に満ちた都市から逃げ出すことを許さない完璧な鳥籠に成り下がっていることに。
彼ら自身が莫大な金を払って作らせたその結界が、自分たちの首を絞める最強の牢獄として機能していることに、まだ気づいていないのだ。
作戦開始から二十日目。
アールスハイムの経済と秩序は、完全に崩壊した。
通りには餓死者と、暴動で殺された者の死体が転がり、かつての繁栄の面影はどこにもない。
金貨には何の価値もなくなり、人々は泥水をすすり、獣のように奪い合っている。
天網の神眼を通じて、俺はそのすべての光景を完璧な解像度で見つめていた。
都市のヘイトは最高潮に達し、レオンハルト男爵への怒りは、都市全体を覆う黒い怨念のように渦巻いている。
「……舞台は整った」
俺は玉座からゆっくりと立ち上がった。
俺の背後で、作戦を完璧に遂行し帰還していたシュピッツが、息を荒くして傅いている。
「魔王様。あの都市はすでに地獄です。人間どもは金貨の山の上で飢え、狂い、互いを殺し合っております。貴方様の描いたシナリオ通り、一切の力を使うことなく、あの都市は内側から腐り落ちました」
「ああ。だが、これはまだ前座だ。奴らが本当に絶望するのは、自分たちが信じ、縋り付いていたものが、圧倒的な暴力の前にただの紙切れだったと理解した瞬間だ」
俺は右手を虚空に掲げた。
「シュピッツ、全軍に告げよ。これより、我ら魔王軍本隊がアールスハイムを強襲する。結界の外周をワイバーン部隊と魔術部隊で完全に包囲し、空を埋め尽くせ。……奴らに、本当の絶望の形を見せてやる」
「おおおおっ!!御意!御意にございます!!」
魔王城パンデモニウムの奥深くから、空を裂くような巨大な咆哮が響き渡った。
俺の莫大な魔力に呼応して目覚めた、王族直属の最高位魔獣、漆黒の巨大竜『アビス・ドラゴン』だ。
俺はアビス・ドラゴンの背に飛び乗った。
眼下に広がる魔界の空を蹴り、次元の境界を引き裂いて、俺たちは人間界の空へと躍り出る。
◆ ◆ ◆
アールスハイムの市民たちがそれに気づいたのは、真昼であるにも関わらず、突如として都市全体に巨大な影が落ちたからだった。
「……おい、空を……見ろ……」
暴動を起こしていた市民も、鎮圧していた警備兵も、そしてバルコニーで震えていたレオンハルト男爵たちも、全員が絶望に顔を歪めながら、空を見上げた。
太陽の光を完全に遮るように、数万のワイバーンと、漆黒の鎧に身を包んだ魔王軍の精鋭たちが、アールスハイムの多重最強結界の外側を、隙間なく埋め尽くしていた。
「な……なんだ、あれは……!魔族……魔王の軍勢だと!?」
「ひぃぃぃっ!!」
都市中から、飢えと疲労を忘れたような悲鳴が上がる。
そして、その絶望の軍勢の頂点。
空の中心に浮かぶ巨大な漆黒の竜の背から、俺は魔法拡声のスキルを使い、アールスハイム全域に響き渡る声で告げた。
『――アールスハイムの豚ども。経済の味はどうだった? 飢えと狂乱の晩餐は楽しめたか?』
俺の、魔力によって恐ろしく低く、冷たく響く声に、レオンハルト男爵がビクッと体を震わせた。
『かつて俺を「無能」と嘲笑い、辺境に捨てた愚かな貴族ども。お前たちが築き上げた富も、権力も、すべては俺の手のひらの上の砂遊びに過ぎなかったと思い知ったか』
「お前は……まさか、そんな馬鹿な……あのゴミが、魔王軍を率いているというのか?」
レオンハルト男爵の悲鳴のような声が、俺の天網の眼にハッキリと届く。
俺は口角を限界まで吊り上げ、残酷な笑みを浮かべた。
『さあ、見せてみろ。お前たちが莫大な金を注ぎ込み、絶対の安全だと信じて疑わない、その薄皮のような結界の力を』
俺は右手に、自身の莫大な魔力と、前魔王から受け継いだ純粋な破壊のエネルギーを収束させ始めた。




