23.閑話。彼とのなれそめ
リージェが初めてクロードと会ったのは、聖域を出て侯爵邸に落ち着いてしばらくした後のこと。社交界へデビューする前々日のことだった。
当日の打ち合わせも兼ねて、彼が侯爵邸へやってきたのだ。
「はじめまして、リリューシュ侯爵令嬢。あなたの婚約者のクロードです、どうかよろしく」
そう言って儀礼通りの完璧な一礼をすると、彼は微笑んだ。
初めて見る同じ年頃の男の子。
その眩しさと華やかさに圧倒されて、まだ世俗に慣れないリージェは、頭の中が真っ白になった。
それでもなんとか、ぎこちなく挨拶を返すと、彼がリージェの前に跪いた。
「私たちが婚約したのは幼少の頃、以来、互いに顔を会わせることもなかった私たちだけど、改めてあなたに請いたい。私の妃となっていただけますか?」
そして、彼はとらえたリージェの指先に口づけた。
それは定められた求婚の手順だった。リージェにも事前に、殿下はこうなさるからこう返しなさいと教えられていたとおりの。
だが頭では理解していても、初めて与えられた異性との接触はリージェにとっては衝撃で。
未知の電流のようなものが走って、リージェはあわてて彼の手を振りほどくと、己の手を取り戻していた。
それから、一国の王子に大変な失礼をはたらいてしまったことに気がついた。
十四歳にもなった、社交界にデビューしようかという娘が、大勢の人前で王族に恥をかかせてしまったのだ。
どうしよう。皆の眼が怖い。
王妃候補のくせにこんな儀礼すら満足にこなせないのか。皆がそう言っているようで、どうすればいいか分からなくなってふるえていると、彼が立ちあがった。リージェの失態など最初からなかったようにして微笑むと、顔をのぞきこんでくる。
「ごめん、驚かせてしまった?」
少しも声を荒げず、まるで悪いのは自分だというように問いかけてくれた彼に驚いた。
リージェはこの演出された出会いが行われる前に、王族の皆様には決して失礼のないようにと何度もいい聞かされていたから。
無意識のうちにリージェは王族とは気位の高い、怖い人たちだと思い込んでいたのだ。
なのに、現実の王子様は少しもそんなところはなくて。
「もうしない。君が許してくれるまでは。だから、僕のことを嫌いにならないで」
気さくに謝ってくれて。それどころかこちらを気づかってくれて。
リージェはふるふると顔を横に振った。
違う。驚いただけで、嫌だったわけではない。彼はそうするようにと言われて、定められた手順をこなしただけ。悪いのはうまくできなかった自分のほう。だから謝るべきなのはこちらのほうで。
でもどう言えばいいのだろう。真っ白になったリージェの頭ではうまく言葉が形を成さない。考えれば考えるほどわからなくなって、泣きそうになった時、彼が言ってくれた。
「うん、驚いただけだね。大丈夫、わかってるから、だから無理に話さなくていいよ。僕なら大丈夫。君が落ち着くまで、いつまででもこうして待てるから」
それで、すっと自分が落ち着いていくのが分かった。
まだうまく言えない。言えないけれど、胸がいっぱいになって喉まで詰まって、言葉がますます出なくなって。でも彼なら待っていてくれる、侯爵家の父母と違って分かろうとしてくれる。そう自然に思えて。
「……ありがとう、ございます」
小さな声だけど、リージェはあふれる涙と共に、彼に感謝の言葉を伝えていた。
それからだ。リージェが彼に会う時に、緊張せずにすむようになったのは。
彼はそれからもリージェが慣れるまで、辛抱強く待ってくれた。父母の言葉に傷つくたび、何も言わなくても理解して寄り添ってくれた。
そのたびに生まれる胸の熱。
日に日に大きくなっていく温かな鼓動。
彼と共に過ごすたびに少しづつ、少しづつ、降り積もる雪のように想いが積み重なっていく。彼に見つめられるたびにわきおこる胸のざわめき、彼と話そうとするたびに感じる、あふれる涙にも似たもどかしさ。
自覚のないままに、リージェは静かに、静かに、彼に恋をはじめていた。
彼といると自分という存在が許される気がして、求められている気がして。だからここにいてもいいのだと思える気がして。
「リージェ、迎えに来たよ。今日は市街のほうを視察してみよう。きっと気に入るよ、君と僕と、二人で慈しんでいくことになる場所だから」
「はい、殿下」
いつの間にか、差し出される彼の手に、自分の手を重ねるのが自然になっていた。彼の顔を見ると、無理をしなくても泉から湧き出す甘露のように、次々と朗らかな笑みが浮かぶようになっていた。
王や、クロードのお付たちも、そんなリージェを微笑ましく見守ってくれていて。
いつからだろう、彼と会える日を楽しみにし始めたのは。公の場に出る恐れや緊張よりも、彼に手を取られて行く道のりのほうが楽しく、頑張ろうと思えるものになったのは。
正直なことを言うと俗世に出てしかも王太子妃になどなるなど、慎ましく育ったリージェには重荷だった。朝起きて今日のために用意された華やかなドレスを見れば胸がつまるし、宮廷作法や派閥についての講義を受けると圧迫感があった。現実の世界は怖いとしか思えず、静かな聖域の暮らしに帰りたくなることもあった。だが、
(聖域に戻ったら、もう殿下とは会えなくなる……)
世間知らずのリージェだったが、その頃にはさすがに理解していた。自分がこうして他の令嬢たちを押しのけて彼にエスコートしてもらえるのは、自分が神託を受けた聖王妃となるべき娘だから。だからこの地位を無責任にも放り投げたら、彼に会う資格も失うと。
(それは、嫌)
思えば、それは無欲たれと育てられたリージェの胸に芽生えた、初めての〈欲〉だったのかもしれない。手に入れられなかった〈家族〉に代わって、自分を受け入れてくれる場所を求めての。
彼といられるなら、重荷でしかない王妃の務めも頑張れる。公の場で自分が失敗して、共にいる彼まで笑われるのが嫌で、リージェは言われたからではなく、自分の意思で懸命に努力した。彼にふさわしい完璧な王太子妃となるために。
「君は本当に頑張り屋さんだね。僕にはもったいないお妃候補だ」
彼はそんなリージェを手放しでほめてくれた。努力を認められたのがとても嬉しかった。だからもっと頑張った。彼のために。そして彼に認められた自分のために。
そして彼が改めてリージェに求婚してくれたのは、出会ってから一年がたった時。リージェが十五歳になった日のことだった。
彼はお付たちを遠ざけて、美しく咲き誇る薔薇園の中で誓ってくれた。
「僕も頑張るよ、君にふさわしい王子になる。だからリージェ、君が十六歳になったら、すぐに式を挙げよう。ずっと二人で手を取り合って生きていきたいんだ」
初めて会った日と同じに、リージェの前に跪いて彼は言った。
「ここに誓うよ。リージェ、君に生涯の忠誠を。僕の愛をすべて捧げる。だから受けてくれないか」
それから彼が、いいかな? と眼で問いかけてきて。リージェはそっとうなずいた。
今度は緊張のあまり硬くなるのではなく、同じくぎこちないままながらも恥ずかしさと誇らしさに頬を紅に染めながら。
手が重り合い、絡まりあい、彼の口づけが指先におりてくる。
リージェはまたびくりと体をふるわせてしまう。今度は驚きや未知への恐怖からでなく、自分でもよく分からない胸のおののきから。
そしてまたおびえる。彼に誤解させてしまったかと。
だが彼はやはりリージェのことを彼女自身よりよく分かってくれていた。怒るどころか、照れ臭そうに彼も頬を紅く染めて、言ったのだ。
「大丈夫、怖くないよ、僕も同じだから。ほら、こんなにどきどきしてる」
そのまま、彼が己の胸へとリージェの手を導く。
初めて触れた彼の胸は、自分と同じくらいどきどきしていて。
あの時、自分は彼と一つになれた気がした。自分が聖王妃でよかったと思った。彼の妃になれることが嬉しかった。
それから、マリアージュが光の加護を受けて二人の婚約者の定めができて。
一時、彼とともにある未来をあきらめかけた。
でも、
「今は、違う……」
リージェは石の人型たちに囲まれた、彼女の王国でつぶやく。
自分の大切な人たちを守る力は欲しい。だが王妃の位にはまだ執着はない。
それでも彼と手を取り合いたい、寄り添いたいと思う。例え自分が真実の神託の王妃ではなかったとしても。君がただ一人の僕の妃だ、そう言ってくれた彼を信じたい。それが公人の立場を越えた私情であっても。だから、
リージェは彼の瞳と同じ色をした真青の空に問いかける。
何度も、何度も。
遠く離れた今、自分が自ら聖王妃候補の責務を投げてしまった今、まだあなたの心に私の居場所はあるでしょうかと、切ないまでの希望を込めて。彼が今までにくれた愛の言葉を思い出しながら。
同じ問いを何度も何度も繰り返す。
あなたを、信じていいですか……?




