08 密やかな共犯
雨の降りしきる暗い森を抜け出し、パリへと戻ったペローは、重厚な木製の机が鎮座する自身の静かな書斎に閉じこもっておりました。
室内に満ちているのは、使い込まれた革装丁の本の匂いと、静謐なインクの残り香でございます。しかし、机に向かうペローの胸中は、かつてないほどの猛烈な葛藤の渦に巻き込まれておりました。
彼の眼前に置かれているのは、二つの対極的な存在でございます。ひとつは、アニエスのあの湿った暗い掘っ立て小屋で、震える手で書き留めた泥と汗の匂う手帳。もうひとつは、これからの執筆のために用意された、一筋の汚れもない真っ白な羊皮紙の原稿用紙でございました。
ペローが羽ペンを手に取り、原稿用紙へ向かってその先を傾けようとするたび、彼の脳裏にはヴェルサイユ宮殿の煌びやかな光景と、そこに集う権力者たちの滑らかな笑みが恐ろしいまでの現実味をもって浮かび上がってまいりました。
豪奢なドレスや絢爛な意匠の服を身に纏い、優雅にワインを傾ける公爵や伯爵たち。もしも、アニエスから聞き出したあの「真実」——過酷な重税と強制労働に押しつぶされる農民たちの凄惨な生活、疫病患者の捨て置かれる現実、そして何より「お前たちこそが民を貪り食うオオカミだ」という刃のような告発——をそのまま文字にして出版してしまえば、どうなるかなど火を見るよりも明らかでございました。
即座にバスティーユの暗い牢獄へ叩き込まれ、不敬罪と扇動の嫌疑によって、文士としての未来どころかその首が呆気なく落ちることは間違いありません。
しかし、ペローは苦悩に満ちた表情で額を押さえ、深く重い息を吐き出しました。
権力者の処罰を恐れるあまり、アニエスの語った血と汗の記録をすべて削ぎ落とし、貴族たちがサロンでお茶を飲みながら笑い飛ばすような「愚かな田舎娘が怪しい男に騙されたという他愛ないお笑いぐさ」へと完全に去勢してしまうこと——それもまた、ペローには絶対に許せぬことだったのです。
そんな都合の良い無害な童話へと成り下がらせてしまえば、あの暗がりの中から自らを射抜いたアニエスの凄惨で冷徹な眼光に対し、そして何より「言葉によって時代を記述する」という自らの作家としての矜持に対し、永久に顔向けができなくなってしまいます。
ペローは震える手で羽ペンを握り直し、白紙の羊皮紙と手帳を交差するように見つめました。保身のための妥協と、文士としての自負。その狭間で揺れ動く魂の叫びを抑え込むように、彼はじっと机の前で立ち尽くし、ただ深々と思考の海へ沈んでいくのでございました。
ペローは夜を徹して机に向かい、揺らめく燭台の小さな光の下で、言葉の緻密な二重構造を設計し続けておりました。窓の外がかすかに白み始める頃、彼の疲弊した目には、文士としての恐ろしいほどの冴えと執念が宿っておりました。
彼が羊皮紙の上に紡ぎ出したのは、決して明示されることのない巧妙な二重の暗号でございます。
表の顔、すなわち貴族たちの好む毒として提示されたのは、「世間知らずで軽率な田舎の娘が、言葉巧みな男に安易に心を許し、最後には食い殺されてしまう」という、宮廷サロンの貴婦人たちが喜んで飛びつくような教訓劇でございました。道徳的でありながらどこか嗜虐的な香りを漂わせ、都市の大人が「愚かな子供や娘たちへの良いお仕置きだ」と笑って嗜むための、完璧な娯楽作の体裁を整えたのです。
その表皮のすぐ下には、アニエスの暗い小屋で受け取った裏の顔の真実が、静かな共犯のようにそっくりそのまま潜まされております。
「甘い言葉と権力を振りかざし、満ち足りてなお渇くオオカミ(貴族)が、無垢で無防備な民衆(赤ずきん)を骨の髄までむさぼり食う」という、この王国を支配する不条理な構造そのものへの冷徹な告発でございます。
ペローは物語の結末において、少女を救い出す都合の良い存在など一切配いたしませんでした。喰われたものは二度と生き返らず、不条理な暴力の前にあっけなく破滅する——アニエスの小屋で突きつけられた冷酷な現実のままに、物語を唐突な闇の中で終わらせたのでございます。
誰ひとりとして救われぬまま幕を閉じるその筋立てこそが、宮廷の無自覚な捕食者たちへ向けられた、ペローの静かな呪いの証でございました。
ペローは完成した原稿を愛おしそうになぞり、微かな微笑みを浮かべました。表向きはサロンを喜ばせる教訓話でありながら、その裏には権力者を糾弾する刃が秘められている。これこそが、命を賭して時代を生き抜く文士の答えたどり着いた、密やかな勝利でございました。




