1-08
一方、花南は足早に組織の建物へ入っていった。
時間は正午少し前。
エレベーターを降り、自分の席へ向かう。
休日とは思えないほど慌ただしい空気がフロア全体に広がっていた。電話の呼び出し音、キーボードを叩く音、あちこちで交わされる会話――騒がしさに満ちているにもかかわらず、不思議といつも通りの職場にも見える。
(あぁ、みんな大変なんだぁ……)
それも当然だった。
昨日の総理大臣による会見によって、これまで極秘扱いだったこの組織の存在が公となったのだ。所在地や電話番号を嗅ぎつけたメディアや野党議員たちから、ひっきりなしに問い合わせや取材要請が押し寄せている。
新人とはいえ、ある程度職位の高い花南にまで直接しわ寄せが来ることは少ない。
しかし、彼女の部下にあたるスタッフたちは、休日返上で電話対応に追われていた。
そんな忙しそうな職員たちに軽く会釈を返しながら、花南は自席へ向かう。
だが、パソコンの電源を入れた直後、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには休日らしいラフな格好をした清高が立っていた。
その服装とは不釣り合いなほど、大量の資料を抱えている。
「おはようさん。寝坊しちまったか?」
花南は少し恥ずかしそうに笑った。
「うん、ごめんなさい」
「そういえばな。予定してた1時からのミーティングだがな。17時からにしといたぞ。一通り調整しておいた。メール見てみろ」
「えっ? なんで? ちょっと待って。まだパソコンが立ちあがんない」
清高は窓の外へ視線を向けながら答える。
「お前の下につく予定の戦闘術士のメンバーがな。というか、カリキュラム消化中のD級の戦闘術士全員が今日から次のカリキュラムに進んだらしくてな。
ほら、あちらさんもペースを上げたんだよ」
花南は昨夜届いていた平岡霊能局局長のメールを思い出した。
『育成プログラム受講中のD級霊能士の皆様は、半年後を目安に出動できる技術に達するように、カリキュラムを早急に消化してください。』
「そうなんだ……大変だね、あっちも。みんな大丈夫かなぁ?」
清高が吹き出す。
「あっはっは。あいつ等の心配より、もうすぐ入るピッカピカのド新人君の心配でもしてやれ」
そう言い残し、清高は自分の席へ戻っていった。
花南はその背中をしばらく見送った後、自席へ視線を戻す。
ちょうどパソコンが立ち上がったところだった。
メールソフトを開き、未読メールを確認していく。
その中から、清高が関係者全員に送っていたメールを見つけた。
そこには、昨日花南が佐久間という女性へ送ったメールへの返信、さらにそれに対する清高からの返信まで、やり取りがそのまま記録されている。
最初の佐久間からの返信は十時半頃。
ちょうど清高に起こしてもらった直後の時間帯だ。
内容は、育成プログラムのカリキュラム変更により、花南の部下となる戦闘術士たち全員が、一時からのミーティングに参加できなくなったという連絡だった。
さらにその十分後には、同報メールを受け取っていた清高が気を利かせ、ミーティング時間変更について返信している。
その後も何度かやり取りが続き、最終的に十七時開始で決定。
最後は、職位が最も上である花南の確認待ちで止まっていた。
「うわぁ……」
少し申し訳なさそうな顔をしながら、花南はすぐに了承の返信を送る。
その後、他のメールにも一通り目を通し、急ぎの案件がないことを確認してから、小さく息を吐いた。
鞄から手帳とスマートフォンを取り出し、机へ置こうとした時だった。
「あれ? 着信がある」
どうやら慌てて出勤してきたせいで気づかなかったらしい。
画面には深の名前が表示されていた。
「あ、あの子だ。なんだろ?」
花南はほんの少し口元を緩め、そのまま電話をかけ直した。
◇
深は相変わらず、ぼんやりとベッドの上で過ごしていた。
時間は正午を少し回ったところ。
目覚めてから一時間近く経っていたが、その間ずっと、テレビから流れてくる報道番組をなんとなく聞き流している。
そのおかげで、昨日の総理大臣の発表に対し、世間がどんな反応を示しているのか、ぼんやりとだが見えてきていた。
そんな時、不意にスマートフォンが鳴る。
画面を開くと、相手は花南だった。
「はい、もしもし」
「あ、もしもし。杉沢だけど。さっきはごめんね。移動中だったの。それで、どうしたの?」
その声を聞いた瞬間、深は気づく。
昨日初めて会った時の、あの人を食ったような調子とはまるで違う。
昨日の電話の最後――あの、申し訳なさそうで、それでいてどこか穏やかな口調。
今の花南の声は、それに近かった。
少なくとも、深をからかうつもりはないらしい。
そう感じた瞬間、深の中から昨日ほどの警戒心が少しだけ薄れる。
「あ、いや。昨日の話の続きなんだけど。具体的にどうすればいいのかなって」
「そう。うーんとね。とりあえず引っ越しの準備だけしておけばいいかな。昨日言ったっけ? 住所とか、退学手続きとか、そーゆーのはこっちでしておくから大丈夫だよ。月曜の午前中に引越しの業者がそっち行くから。ちょっと急ぎになっちゃうのかなぁ。
あっ! 実家にはどうすんの? 帰るの?」
深は少し考えてから答えた。
「いや。とりあえず電話でもしておこうかなって。住むのは? 東京?」
「そう。こっちで寮用意しとくから。結構いい部屋だよ。なんかね? 国会議員が使うマンションの空き部屋なんだって。ほら? あの人たち、世間の風当たり強いとかなんとかで、住めなくなっちゃった高級マンションが結構あるわけよ」
「わかった。んでさ、俺からも一応電話しておくけど、あんたのほうからのうちの両親に説明しておいてくんないかな?」
「うん、いいわよ。それぐらいは……じゃあどうする? 私が先に電話する? それとも深君が電話した後にしようか?」
「そうだな。俺が最初に電話するよ。その後、あんたに連絡するから一通り説明してくれ。実家の番号教えるよ……あっ、メモ大丈夫か?」
「あ、もう知ってるから大丈夫よ。言ったでしょ? 全部調べ上げたって。あなたのことは、お・み・と・お・し!」
「ふっ」
普通ならストーカーじみた発言だ。
だが不思議と、深は昨日のような怒りを覚えなかった。
昨日から世界中を騒がせている一連の発表。
その情報を長年隠し続けてきた組織なのだ。個人情報の一つや二つ、調べ上げていて当然なのだろう――そんな妙な納得があった。
「じゃあ、よろしく頼む」
「もっと詳しい話はこっちに来てからするからね」
そこで花南の声色が再び少しだけ静かになる。
「その声の感じだと覚悟は決まったようね。こちらこそこれからよろしくおねがいね。それじゃ、いったん切るわね」
「あぁ」
短いやり取りを最後に通話が切れた。
深はスマートフォンを見下ろしたまま、小さく息を吐く。
その後、引っ越しの荷造りについて頭の中でシミュレーションを始めたが、ほどなくして再びメール着信音が鳴った。
『メアド登録お願いメール(極秘よん!)』
「……なんだこれ」
思わず苦笑しながら、深は花南のメールアドレスを登録する。
(そうだった……引っ越しの前に、先に親に電話だ)
少しだけ緊張した面持ちで、深は実家へ電話をかけた。
◇
花南は電話を切ったあと、自分でもわかるほど気分が軽くなっていることに気づいた。
昨日からずっと、自分たちに対して強い不信感を抱いていた深。
そんな彼が、ほんの少しだけ心を開いてくれたような気がしたからだ。
花南は再びパソコンに向かい、新着メールを確認する。
そこで、深に自分のメールアドレスを教えていなかったことを思い出した。
「あっ、忘れてた」
小さく呟き、机の上に積まれていた調査書類を探り始める。
ほどなくして深の資料を見つけ出し、そこに記載されていた携帯電話のアドレス宛てにメールを送信した。
その後、花南はふと手を止める。
(……んー、何しよう)
ミーティングは十七時に変更済み。
昨夜遅くまで残って仕事を片付けたおかげで、急ぎの案件も特に残っていない。
結局、やることが思いつかなかった花南は、席を立ち、清高のほうへ歩いていった。
「清高さん。ちょっといい?」
「おう。どうした?」
清高が椅子を回して振り返る。
「今日からの育成プログラムって、何が始まったの?」
「あぁ。多分、C級相手に実戦訓練だな。ほら、長谷川っているだろ? あいつ相手にD級全員でかかっていく訓練だ。
でも長谷川のレベルは元々C級じゃないからな。あいつ等コテンパンにやられてヘトヘトになってるだろうよ」
「そうなんだ。じゃあ、深君はそこからあの子たちに合流なのかな?」
「うーん。いきなりそれはどうなんだろうな。そこは長谷川と話してみろよ。もしかすると、サイばあさんにも聞いてみないとな?」
「うん、わかった。ありがと」
花南は小さく頭を下げ、自席へ戻る。
すると、タイミングを見計らったかのように、また深からメールが届いた。
『両親には軽く話した。どうもやっぱり信じられない様子だった。あと頼む。』
花南は苦笑混じりに画面を見つめた。
(やっぱりね)
当然といえば当然だ。
いきなり息子からそんな話をされても、簡単に信じられるはずがない。
花南はスマートフォンを操作し、すぐに返信する。
『りょーかい。まかせときぃっ!』
◇
花南が深の実家へ電話をかけていた頃、深はシャワーを浴びていた。
冷たい水が火照った身体を流れていく。
先ほど実家へ電話はしたものの、深自身、事情をうまく説明することはできなかった。
電話口の母親も、どこか戸惑った様子で相槌を打つばかりだった。
無理もない。
テレビでは世界中の国家元首たちが信じ難い発表を行い、その上、突然息子から意味不明な話を聞かされたのだ。
混乱しないほうがおかしい。
このあと、関係者から詳しい説明の電話がいく――そうだけ伝えて通話を終えた。
結局、深も母親も、その“関係者”の説明を待つしかないのである。
シャワーを終えた深は着替えを済ませ、そのまま近所のホームセンターへ向かった。
引っ越しといえば、まず段ボールとガムテープだ。
石川から埼玉へ出てきた頃は、父親のワゴン車に積める程度の荷物しかなかった。
だが三年半も暮らしていれば、家具も私物もかなり増えている。
自力で運ぶのは骨が折れそうだが、引っ越し業者が来るなら、自分は荷物をまとめるだけでいい。
(しっかし、やっぱあっちいな……ホームセンターで涼んでいこうかな)
そんなことを考えながら、深は気だるそうな足取りでホームセンターの自動ドアをくぐった。




