第5話 この人に、嫌われていない
「これ、読むか」
篠宮が本を差し出してきた。
なつめは三秒間、固まった。
バイト五回目。栞堂の奥の棚で在庫チェックをしていたら、篠宮が無造作に近づいてきて、一冊のハードカバーを突き出した。
新入荷のミステリだった。アガサ・クリスティの稀少な旧訳版。カバーは日焼けしているが、中身は綺麗だ。
「え、いいの……?」
「読んだら戻せ。商品だから」
好感度マイナス4。心の声:『読んでほしいだけだ、別に』
「別に」と言いながら心の声で「読んでほしい」と言っている。この男はいつもそうだ。口と中身が真逆。ツンデレという概念を人間にしたら篠宮蓮になる。
「ありがとう。大事に読む」
本を受け取った。篠宮の指となつめの指が、表紙の上で一瞬触れた。
好感度が動いた。
マイナス4。マイナス3。マイナス2。マイナス1。
ゼロ。
メガネのUI上で、マイナスの記号が消えた。数字の色が赤から白に変わった。
好感度0。
なつめの視界がぐらりと揺れた。
ゼロだ。
嫌われていない。この人に、嫌われていない。
マイナス15から始まって、マイナス18まで下がって、そこから少しずつ、少しずつ、削って削って——ゼロに、なった。
乙女ゲームを八年やってきて、好感度の数字は何万回と見てきた。百も見た。マイナスも見た。カンストも見た。でも、こんなに「ゼロ」が美しいと思ったことはない。
本を胸に抱いたまま、目の奥が熱くなった。泣くな。ここで泣いたら意味がわからない。本を一冊もらっただけで泣く女はさすがにやばい。篠宮に引かれる。好感度がマイナスに戻る。それだけは困る。
「……どうした」
「な、なんでもない。嬉しくて」
「本一冊で泣くのか」
「泣いてない」
泣いていた。正確には、泣きそうだった。
篠宮の心の声が、初めて二行表示された。
『……変なやつ。本渡しただけなのに、なんでそんな顔するんだ』
『——ちょっと、かわいいと思った。今のは忘れろ』
忘れられるわけがないだろう。
なつめは本で顔を隠した。耳が熱い。メガネのレンズが曇った。自分の体温で。
ゼロだ。
乙女ゲームの好感度ゼロは、ただのスタート地点だ。ニュートラル。何も始まっていない。
でも現実のゼロは違った。
マイナスからのゼロは、「嫌いをやめた」という意味だ。壁を一枚、自分の意志で下ろしたということだ。
たった一冊の本で。「読むか」の二文字で。
好感度50からの100到達より、この瞬間のほうがずっと重い。昨日の配信で自分が語った言葉は、本当だった。
閉店後。
裏口の白猫——なつめが勝手に「しおり」と名付けた——にミルクをやりながら、二人で段差に座る。これも習慣になりつつあった。
今日は三十センチの距離。前回より縮まっている。なつめは意識しているが、篠宮は無意識だろう。少なくともそう信じたい。意識されていたらそれはそれで心臓がもたない。
しおりが篠宮の膝に前足を乗せた。篠宮は猫の顎の下を指先で撫でた。しおりがごろごろ喉を鳴らす。
この猫の好感度をメガネで見たことがある。篠宮に対して74。なつめに対して31。猫にすら負けている。
なつめは篠宮にもらった本を膝の上に置いていた。
「篠宮くんは、この本読んだことある?」
「……ある。三回」
「三回」
「何回読んでも構造がわからない。だからいい」
好感度2。プラスに転じている。上がったことにも驚いたが、それ以上に篠宮が本について三回読んだと語ったことに驚いた。この人が自分の好きなものについてこれだけ言葉を費やすのを初めて聞いた。
心の声:『こいつになら、わかるかもしれない』
何がわかるのか。聞きたい。でも聞いたら心の声を読んでいることがバレる。
メガネの存在が、こんなに邪魔に感じたのは初めてだった。
知りたい。でもメガネで知るのではなく、この人の口から聞きたい。
翌日。大学。
あかりと学食でランチを食べていた。
「なつめ、最近バイト忙しいの?」
好感度58。前は63あった。五ポイント下がっている。
「うん、ちょっと……ごめんね。全然遊べてなくて」
「……ううん、別にいいけど」
心の声:『嘘。全然別によくない。なつめ最近バイトバイトって、あの古本屋の男でしょ。気づいてないと思ってるのかな』
なつめの箸が止まった。
あかりは笑っている。でも心の声は笑っていない。好感度58。それでも58ある。こんなに気にしてくれているのに、自分は篠宮のことばかり考えていた。
メガネが見せるのは、数字と心の声だ。都合のいい情報だけではない。見たくないものも見える。友人が寂しがっていること。自分がそれに気づかなかったこと。
「ごめん、あかり。来週、二人でどこか行こう。あかりの行きたいところ」
あかりの目が少し大きくなった。
「……いいの?」
「うん。約束する」
好感度58から61に回復した。心の声:『なつめ、やっぱり優しい。好き。友達として一番好き』
胸が締まった。
メガネがなかったら、あかりの寂しさに気づけなかった。でもメガネがなかったら、あかりを放置することもなかった。どちらが正しいかはわからない。
ただ一つわかったのは、誰かの好感度を上げている間に、別の誰かの好感度は静かに下がるということだ。
ゲームでは攻略対象の好感度だけを見ていればよかった。でも現実は違う。全員のパラメータが同時に動いている。自分が見ていないところでも。
あかりがカルボナーラを食べながら何か話している。なつめは相槌を打ちながら思った。メガネは万能じゃない。見えることで得をして、見えることで傷ついて、見えなくていいものまで見えてしまう。
ゲームの攻略ガイドには「効率的に好感度を上げる方法」は書いてある。でも「全員を同時に大切にする方法」は、どこにも載っていない。
帰宅後。
篠宮にもらった本を読み始めた。旧訳独特の硬い文体。でも不思議と読みやすかった。篠宮が三回読んだという話が頭にあるせいか、一文ごとに「あの人はここをどう読んだんだろう」と考えてしまう。
百二十ページ目。
ページの間に何かが挟まっていた。
古い栞だった。薄い和紙で、端が少し黄ばんでいる。表には手書きの花の絵。裏返すと、小さな字が書いてあった。
「——の声が聞こえたら、それは」
文字はそこで途切れていた。紙の端が破れている。続きがない。
なつめはメガネをかけ直して栞を見た。
文字が浮かんだ。
メガネ越しにだけ見える文字が、破れた先に続いていた。薄く、かすかに。
「——の声が聞こえたら、それは"好意"ではなく"執着"かもしれない」
なつめは栞を持つ手が震えた。
好意ではなく、執着。
メガネで見える心の声は、好意か。それとも。
篠宮のことが好きなのか。
それとも「攻略したい」だけなのか。
好感度がゼロになって嬉しかった。プラスに転じて胸が跳ねた。
でもそれは恋か。ゲームの達成感か。
答えが出ない。
なつめはメガネを外して、裸眼で栞を見た。メガネなしでは、ただの古い紙だ。破れた先には何も書いていない。
かけると見える。外すと消える。
どちらが本当なのか。
栞を本に戻した。明日もバイトだ。篠宮に会う。好感度2の篠宮に。
会いたい、と思った。
それが好意なのか執着なのか、まだわからないまま。




