第4話 好感度マイナスからの逆転攻略
「なつめさん、最近なんか変わりましたよね」
配信のコメント欄に、そんな書き込みが流れた。
夜十一時。いつもの六畳ワンルーム。マイクの前で、なつめは新作乙女ゲームの攻略解説をしていた。
「変わった? そうですかね」
『なんか楽しそう』
『前よりテンション高い気がする』
『リアルで何かあった?』
心臓が跳ねた。
「いやいや何もないですよ。ただの乙女ゲーやり込み勢です。リアルの恋愛経験はご存じの通りゼロですからね」
笑ってみせた。嘘はついていない。経験はゼロだ。ゼロのまま、好感度マイナスの男にじわじわ接近しているだけで、これは恋愛経験にカウントしていいのかすらわからない。
「さて、今日の本題です。好感度マイナスからの逆転攻略について追加検証しました」
コメント欄が加速する。このテーマは伸びるのだ。三ヶ月前にアップした動画は再生回数十二万を超えている。
「マイナス好感度の攻略対象って、最高なんですよね」
声に熱が入った。
「だって考えてください。好感度50からスタートするキャラって、要するに最初から好意的なんですよ。楽ですけど、ドラマがない。でもマイナスからって——ゼロを超える瞬間があるんですよ。嫌いがゼロになる。ゼロが一になる。その一ポイントの重みったら、五十スタートの百到達より遥かに上です」
自分でも驚くほど流暢に語っていた。
それはもう、攻略理論の話をしているのではなかった。
配信を終え、機材の電源を落とす。画面が暗くなった。
息をつく。汗ばんだ手のひらをジーンズで拭いた。
今日の配信、ちょっと喋りすぎた。マイナス好感度のくだり、完全に篠宮のことを考えながら話していた。リスナーに気づかれていないといいけど。
スマホの通知を確認すると、配信のアーカイブがもう上がっていた。サムネイル自動生成。タイトルは自分でつけたもの——「マイナス好感度は最高の攻略対象である理由」。
まあ、いつも通りだ。問題ない。
問題ないはずだった。
翌日。栞堂。バイト三回目。
篠宮は奥の棚で黙々と作業していた。好感度マイナス14。前回のマイナス16から二ポイント上がっている。なつめが何もしていないのに。
心の声は相変わらず表示されない。ただし、マイナスの数字が少しずつ減っていること自体が進展だった。
なつめは自分の棚に向かい、黙って本を整理した。奥付を確認してから棚に入れる。篠宮に教わった手順。
一時間が過ぎた。
静かだった。栞堂には有線放送が流れていて、今日は小さな音量でジャズがかかっている。紙の匂い。背表紙を指でなぞる感触。篠宮が時折、本を棚に入れる乾いた音。
悪くない。話さなくても、同じ空間にいるだけで居心地がいい。
ゲームなら「好感度が自然回復するフィールド」と呼ぶところだ。
二時間目。篠宮が棚の端から顔を出した。
「お前、昨日変な声出してなかった?」
なつめは持っていた文庫本を取り落とした。
「え?」
「壁薄いから聞こえる時ある。隣の部屋だろ」
隣の部屋。篠宮のアパートとなつめのアパートが近いということか。いや待て、配信は自宅でやっている。壁が薄い。声が漏れる。昨夜、マイナス好感度について熱弁を振るった声が——。
血の気が引いた。
「あ、あはは、歌の練習……?」
声が裏返った。好感度マイナス14。変動なし。
心の声がちらりと表示される。
『嘘つくの下手だな』
バレてる。嘘がバレてることがバレてる。ただし、配信の内容まで聞こえていたかは不明。壁越しだ。声のトーンは漏れても、言葉の中身までは聞き取れていないかもしれない。
かもしれない。
なつめの胃がきりきりと痛んだ。
取り落とした文庫本を拾う。手が震えている。落ち着け。まだ確定していない。篠宮が「声」と言ったのは、単に騒音の話かもしれない。配信者だと気づいている証拠はない。
「今度から気をつけます……」
「別にいい。うるさくはなかった」
好感度マイナス14からマイナス12に上がった。
心の声:『思ったより声、嫌じゃなかった』
なつめは文庫本の表紙を凝視した。視線を上げたら顔に出る。声が嫌じゃなかったって言った。いま確かに言った。心の中で。
これは進展だ。確実に進展だ。だがそれと同時に、「声」を認識されているという恐怖が背中を這い上がってくる。
三時間目。在庫整理。
段ボールから古本を出し、状態を確認して棚に入れる作業を二人で進めていた。自然と会話が生まれ始める。
「篠宮くんって、なんで古本屋でバイトしてるの?」
聞いてから後悔した。距離を詰めすぎか。でも、三回目のシフトだ。これくらいの質問は自然なはず。
篠宮は段ボールから本を取り出す手を止めなかった。
「……本が好きだから。それだけ」
好感度マイナス10。また二ポイント上がった。心の声:『本が好きじゃないだろ、こいつ』
見抜かれている。なつめが本好きを装ってバイトに来たことを、篠宮は最初から見透かしている。
「お前は?」
「え」
「なんで古本屋のバイト選んだ」
好感度マイナス10。心の声は非表示に戻った。だが質問を投げてきた。篠宮の側からの質問は、これが初めてだ。
「えっと……本が、好き、だから……」
「……」
心の声が一瞬だけ点灯する。
『同じ答えを返すな。芸がない』
すみません。
「……あと、ここの雰囲気が好きで」
これは嘘じゃない。紙の匂いも、静かな空気も、ジャズの有線も、本当に居心地がいい。
篠宮は少しだけ間を置いて、小さく頷いた。
「……まあ、悪くない店だ」
好感度マイナス8。心の声:『嘘と本当が半々のやつだ。面倒くさい。でも——嫌いじゃない、けど』
「けど」の先が聞こえない。文字が途切れている。メガネの限界か、篠宮の内面の壁か。
あと八ポイントでゼロだ。あと八ポイントで「嫌い」が消える。
閉店後。
裏口の段差に、あの白猫がまた来ていた。篠宮は迷わず牛乳を用意した。もう習慣になっているらしい。マグカップは裏口の棚に常備されていた。
猫がミルクを舐める音を聞きながら、二人で裏口の段差に座っている。五十センチの距離。前回より近い。
「じゃあ、お疲れさまでした」
なつめが立ち上がる。篠宮も立つ。
帰り道、正門前で分かれる。いつものように。
だが今日は、篠宮がスマホをポケットから出した瞬間、通知音が鳴った。
聞き覚えのある音だった。
なつめの配信チャンネルの更新通知音。自分で設定した、あのオリジナルの和音。まさか。聞き間違いかもしれない。暗がりで、篠宮の画面は見えない。
篠宮は無言で通知を消した。
「……じゃあ」
背を向けて歩いていく。
なつめは動けなかった。
あの音。あの通知音は、チャンネル登録者にしか届かない。
まさか。
まさか篠宮は——。
街灯の下で、なつめのメガネが白く光った。好感度マイナス8。心の声、非表示。
でも一つだけ確かなことがある。
あの通知音を、聞き間違えるはずがない。
自分で作った音なのだから。




