第3話 この二人、面白いことになりそうだ
「桐島さんだね。今日からよろしく」
古本屋・栞堂の店長は、丸い眼鏡をかけた穏やかな中年男だった。好感度38。心の声:『また若い子が来たな。篠宮くんと気が合うといいけど』。
合うわけがない。好感度マイナス18の相手だ。
「よろしくお願いします」
栞堂は大学から徒歩十分の住宅街にあった。木造二階建て。一階が店舗で、棚という棚に古本がぎっしり詰まっている。天井のファンがゆっくり回り、紙とインクの匂いが漂っていた。
悪くない空間だ。ここで週三回、篠宮蓮と同じシフトに入る。
作戦は単純。「存在の許容」。三ヶ月前の自分が配信で語った攻略第一段階。話しかけない。距離を詰めない。ただ同じ場所にいる。
「桐島さん、本は好き?」
「は、はい……好きです」
嘘ではない。嘘ではないが、読書量の九割が乙女ゲームのシナリオだとは言えない。
好感度39。心の声:『目が泳いでるな。まあいいか』
バレている。
「じゃあ早速だけど、棚の整理をお願いしていいかな。ジャンルごとに分かれてるから、違う場所に入ってるやつを正しい棚に戻す作業ね」
「はい、わかりました」
「わからないことがあったら篠宮くんに聞いて。あの子、口は悪いけど仕事は丁寧だから」
心の声:『この二人、面白いことになりそうだ』
何が面白いんですか店長。
店長が奥に引っ込む。
なつめは棚に向き合った。背表紙を一冊ずつ確認していく。文学、ミステリ、SF、歴史——。
奥の棚から、本を運ぶ足音が聞こえる。篠宮だ。こちらを見ていない。当然だ。
好感度マイナス18。心の声、非表示。
話しかけるな。目を合わせるな。ただ棚を整理しろ。
セオリー通りにやれ。今度こそ。
一時間が経った。
なつめは黙々と働いた。ジャンル違いの本を見つけては正しい棚に戻す。地味な作業だが、ゲームのアイテム整理だと思えば苦ではない。インベントリの最適化は得意分野だ。
篠宮とは一度もすれ違っていない。店の広さが絶妙で、棚と棚の間にいると互いの姿が見えない。同じ空間にいるが、干渉しない距離。
二時間が経った。
「……その棚、ジャンル違い混ざってる」
声が降ってきた。
振り向くと、篠宮が棚の端に立っていた。なつめが整理した棚を見ている。
「あ、すみません……」
好感度マイナス18。変わっていない。心の声、非表示。
篠宮はなつめが戻した本を一冊抜き取った。
「これ、ミステリじゃなくてSF。背表紙だけで判断するな。奥付を見ろ」
言い方は刺々しい。だが、わざわざ教えに来ている。
「ごめんなさい、気をつけます」
「……別に怒ってない。直せばいい」
好感度が動いた。マイナス18からマイナス16。
心の声が一瞬だけ表示される。
『……素直なやつ』
二文字。たった二文字で好感度が二ポイント回復した。
なつめは内心で絶叫した。素直って言った。素直って言ってくれた。マイナス18がマイナス16になった。人類の歴史において、たかが二ポイントにこれほど感動した人間がいるだろうか。
顔には出さない。出したら終わる。ここは耐える場面だ。
「わかった、奥付で確認するね」
「……ああ」
篠宮は棚の向こうに消えた。
なつめは本を胸に抱いて、小さくガッツポーズをした。棚の影で誰にも見えないことを確認してから。
配信なら、ここで視聴者にこう解説するところだ。「好感度マイナス帯で"素直"の評価が出たら大勝利です。この子は"壁を作る理由がある"タイプ。急がないでください」
急がない。急がないぞ。
その後も、なつめは黙って棚を整理し続けた。奥付を確認しながら。篠宮に言われた通りに。
ふと気づくと、篠宮が本を棚に戻す手つきを目で追っていた。一冊一冊、背表紙を揃え、隣の本との隙間まで均等にしている。棚に対する愛情というか、執着にも近い丁寧さだった。
この人、本が好きなんだ。心の声が聞こえなくても、手つきを見ればわかる。
閉店作業が始まった。
店長が「お先にー」と帰っていき、残されたのはなつめと篠宮の二人。レジの金額を合わせ、床を掃き、看板の電気を消す。
篠宮は無言で作業していた。なつめも無言で合わせた。話しかけない。存在の許容。第一段階。
掃除が終わり、裏口から出ようとした時だった。
みぃ。
小さな声がした。
裏口の段差の下に、白い猫がうずくまっていた。汚れた毛並み。首輪はない。痩せている。
なつめが立ち止まると、篠宮も足を止めた。
猫を見下ろす篠宮の表情が、ほんの少しだけ変わった。眉間の皺が消えた。
篠宮は無言で店内に戻り、バックヤードの冷蔵庫を開けた。店長が置いていった牛乳をマグカップに注ぎ、裏口に戻る。
猫の前にそっとカップを置いた。
膝をついて、猫が飲むのを黙って見ている。
なつめはその横顔を見つめた。
メガネ越しの好感度はマイナス16のまま変わらない。心の声も表示されない。でも、しゃがんだ篠宮の指先が猫の頭に触れた時、その手つきがとても慎重で、とても優しかったことは、数値では測れなかった。
乙女ゲームの文法なら、これは「ギャップ萌えイベント」に分類される。普段無愛想なキャラクターが動物に見せる柔らかさ。CG回収率を上げるための定番シナリオだ。
そう分析しようとした。いつものように。
でも。
「イベント」という言葉が頭に浮かんだ瞬間、なぜか少しだけ胸が痛んだ。
この人は、ゲームのキャラクターじゃない。
猫にミルクをやっているのは、好感度を上げるためでも、なつめにギャップを見せるためでもない。ただ、目の前に腹を空かせた猫がいたから。それだけだ。
この光景を「攻略イベント」と呼んだ自分が、少し嫌だった。
データじゃなくて。
この人のことを、知りたいと思っている。
それは攻略のためか、それとも——。
答えが出る前に、篠宮が立ち上がった。
「……帰るぞ。鍵、閉めないと」
「あ、うん」
裏口の鍵を閉める。篠宮が先に歩き出す。なつめが少し遅れてついていく。五歩分の距離。近くもなく、遠くもない。
夜の住宅街は静かだった。街灯がオレンジ色に道を照らしている。篠宮の背中は真っ直ぐで、歩幅が大きくて、追いつこうとすると小走りになる。
大学の正門前で道が分かれる。
「じゃあ、お疲れさまでした」
なつめがそう言うと、篠宮は少しだけ足を止めた。
振り返らない。でも、止まった。
「……お前、声」
心臓が跳ねた。
「え?」
篠宮は何かを言いかけて——やめた。
「……なんでもない」
好感度表示がマイナス16のまま、点滅している。
ちかちかと、不安定に。
心の声は表示されない。されないのに、なつめにはわかった。今、篠宮の中で何かが揺れている。好感度の数字では掬い取れない何かが。
篠宮は背を向けて歩き出した。すぐに暗がりに溶けていく。
なつめは正門の前に立ち尽くした。
声。
声って、何のことだ。
メガネのレンズに、街灯の光が反射する。マイナス16の数字が視界の端に残像のように浮かんでいた。
あの数字は今日、二ポイント動いた。
たった二ポイント。されど二ポイント。
乙女ゲーム八年の経験が言っている。マイナスの数字が動き始めた時、物語は動き始める。
ただ——「声」という言葉の意味だけが、わからなかった。




