6
6
部活が始まる前に、視聴覚室のいちばん後ろの席に座って、ぼくは机に置いた1枚の写真を見つめていた。
ぼくが1歳になる前の写真だ。
背景には、端午の節句のひな壇が飾られていて、最上段には屏風の前にカブトが鎮座している。
両脇には長い刀や短い刀、矢が2本と灯籠。
中段には日の丸の柄を模した銀の扇子や太鼓、下段には柏餅やらさかずきやらが並んでいる。
下段の両端からは上段の屏風の高さと合わせるように、鯉のぼりの竿がのびている。
0歳のぼくは、端午の節句の飾り物の手前に、両足をぺたりと床にくっつけて座っていた。
背景の飾り物が豪華な割には、自分の頭に装着されているのは、新聞紙を折って作ったカブトだった。
この当時のぼくは、何も悩みを抱えていなかったのだろうか?
何かを考えていたのだろうか?
今のぼくは、悩みすぎなのだろうか?
いつも心に不安を抱えているのはなぜなのだろう?
写真の中の自分が無邪気に笑っているのなら、またそんなふうに無邪気に笑える日がくるだろうか?
自分ではコントロールできない邪念を振り払いたくて、ぼくは部活が始まる前に、いつもこの写真を眺めている。
「あら、かわいい。これ、鳥居くん?」
声をかけてきたのは、教育実習生の澪さんだった。
視聴覚室の前方の広い空間では、赤田先輩とイッチーがジャージに着替えて、二人一組になって準備体操をしている。
いちばん前の廊下側の席には神島優心が姿勢良く座って「リーンカーネーション」の台本を読み込んでいる。
前から2列目の窓側では、飯山亮佑が制服のまま机に突っ伏して寝ていた。
「はい」
ぼくが返事をするのと同時に、イッチーが説明する。
「トリーは部活が始まる前に、その写真を見て精神統一するんですよ」
後方の扉が開いて、1年生の和田美保と桜井友恵が入ってきた。
「おはようございます。あっ、鳥居先輩、見てますね!」
和田美保がにこにこして、写真をながめているぼくに声をかけてくる。
この笑顔にぼくは弱い。
一方の桜井友恵は、ぼくの写真を一瞥しただけで、さっさと着席した。
桜井友恵が座ったのはぼくの左斜め前の席で、2年3組でいうと、ぼくからみて皆川の席を見る形の場所だ。
後ろから見ると、友恵のショートカットは首のあたりできれいに切り揃えられている。
もうちょっとザク切りにしてラフさを出したほうが、見映えがするように思った。
それでも、友恵のショートカットは滅多に顔に感情を表さない透明感によく似合う。
「先輩は、どうしていつもこの写真を見ているんですか?」
和田美保が訊く。
「人間は、何歳ごろから自分の思い出を覚えているものなんだろう?」
ぼくは和田美保のいつもの甘美な香りに引きこまれないように制御しながら、今思いついた疑問を投げかけてみた。
「えー。私が記憶しているのは、3歳頃かなあ」
「俺って、幼稚園に通っていた頃の記憶もないんだよね」
「それって、けっこう遅いほうじゃないですか?」
和田美保が写真から目を上げて、ぼくを見た。眩しい。
「俺が幼稚園に入園した日から、母親が日記をつけることにしたんだ。その最初の日に、俺は『お弁当はリンゴだけおいしかった』って言ったらしいんだよね」
「えー、お母さん、かわいそう」
「次の日から、母親は日記をつけなくなったらしい。俺、幼稚園の頃のお弁当の記憶もないし、小学校低学年の頃の自分もほとんど思い出せないんだよな」
ぼくはそこで、後ろを向いた。
「澪さんは…」
「え、何?」
澪さんは、ぼくの背後からじっと、例の写真を見つめていた。
眉間にシワが寄り、真剣にぼくの0歳の頃の写真に見入っていたようだ。
どうやらぼくと和田美保の会話は聴いていなかったらしい。
「いや、なんでもないです」
ぼくは和田美保の方に向き直った。
「そろそろ部活、始めようか」
4階の吹き抜きになっている渡り廊下で発声練習をして、視聴覚室に戻ってストレッチをひと通りやった。
その後に、ぼくからみんなに、皆川の退部について発表した。
すでに知っていた和田美保以外のメンバーから、驚きの声が上がった。
「皆川がやめる理由って、何にもわかんねえのかよ」
飯山が吐き捨てた。
ぼくは「わからない」と答えるしかなかった。
「リーンカーネーション」の大船みゆき役は、皆川の意向通り、和田美保が務めることに決まった。
異論は出なかった。
それほど、和田美保の演技力が1年生ながら、この部活では群を抜いていることが、みんなの共通認識だったのだ。
皆川には皆川にしか出せないチカラがある。
美保は新歓公演での皆川の演技をみて、演劇部への入部を決めたと言っている。
皆川がいないから和田美保が、というわけではない。
美保には、舞台の中心に立つにふさわしい華やかさがあるのだ。
和田美保が大船みゆき役に変更になったことで、当初、美保が演じる予定だった平塚ひろみの役を、演劇部と生徒会をかけもちしている近藤ゆかりに頼むことにした。
生徒会が忙しい時は演劇部にはなかなか顔を出せないが、演劇部から生徒会にお願いがある時は、何かと融通を利かせてもらっている。
文化祭の頃は生徒会も忙しくなるが、皆川と仲の良い近藤は、事情を察して、出演を快諾してくれた。
これで、皆川退部後の「リーンカーネーション」の配役が決まった。
☆スタッフ
脚本・演出=川島匠(顧問)
舞台監督=赤田慎吾(3年)
照明=松山卓也(1年)
音響=石井洋平(3年)
小道具=石本彩乃(1年)
☆出演
藤沢一成(映画研究部部長)=鳥居英輝(2年)
大船みゆき(一成の彼女・同級生)=和田美保(1年)
茅ヶ崎一成(一成が作る映画の主人公)=赤田慎吾(3年)
辻堂学(映画研究部2年)=神島優心(2年)
平塚ひろみ(映画研究部1年)=近藤ゆかり(2年)
大磯たまき(映画研究部1年)=桜井友恵(1年)
北鎌倉ヒロシ(茅ヶ崎の後輩)=飯山亮佑(2年)
本鵠沼タカシ(茅ヶ崎の後輩)=市川隆博(2年)
映画研究部の部長・藤沢一成の同級生で彼女の大船みゆきが事故死する。
一成は自分が製作する映画の中で、みゆきとの恋の未来を描こうとする。
一成は映画の脚本を脳内創作していくが、その登場人物たちに反抗されて、ついには出演をボイコットされてしまう…
ある日突然、恋人を失った高校生の、崩壊と再生の物語。
「リーンカーネーション」上演に向けての、皆川がいない新しい陣容が固まった。




