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「フフフ…フフフフ」
澪さんが口を開かないまま笑い声をもらした。
2時間サスペンスドラマの真犯人が追いつめられて犯行を自供する前の笑い方と一緒だ。
「桜井さん、あなた、私が誰だかわかるの?」
「あなたは、長野主膳」
誰だそれは。
「なぜそう思うの?」
「あなたの変装」
変装とは、澪さんが「自分は井伊直弼だ」と男装の麗人と化した姿だろう。
そしてついさっきまで、澪さんは井伊直弼の姿だった。
いや、井伊直弼ではないのか。
「井伊直弼の穏やかながらも剛健な顔立ちとは似つかない、端正な顔立ち。白く透き通るような肌。男性とも女性ともつかない妖艶な美しさ。それは、井伊に最も尽くしていたと言われている忠臣・長野主膳。容姿だけは譲れなかったのね。それがあなたの性格」
「おい桜井、長野主膳って誰だよ」
ぼくは桜井に訊いた。訊いておかないと、確実に置いていかれる。
「長野主膳はね。井伊が20代後半に差し掛かった頃に彦根で出会った、井伊の国学の師匠でもあり、井伊のいちばんの親友でもあり、井伊に忠誠を誓って政治的に動いた腹心。教科書にその名前は載っていないから、鳥居くんが知らないのもムリはないわ」
「で、澪さんは井伊直弼ではなくて、その長野主膳っていう人なのか?」
「それは、本人が教えてくれるんじゃない」
友恵は、目の前の澪さんだか井伊直弼だか長野主膳だか、もう誰なんだかよくわからない人を、相変わらず鋭くにらみつけている。
「確かに。私は井伊直弼殿に忠誠を誓った、長野主膳」
「彦根で井伊といちばん親交が深かった長野主膳なら、井伊のお茶の味も再現できるものね」
「大老が淹れるお茶の味にはかなわないけどね。文字どおり二番煎じだから」
うまいこと言うなー、って感心してる場合じゃないや。
「澪さん…いや、あなたが長野主膳という人だとして、なぜ俺たちに自分は井伊直弼だとウソをついたのですか?」
「あなたを目覚めさせないため」
「俺を?」
澪さんがうなずく。
昨日の夜と今日の朝、3人で会っていた時とは違う緊迫感に、ぼくは疲れも連動して、負けそうになっている。
そういえば友恵は、自分も江戸時代からずっと死んだことがないと言っていた。
「ちょっと待て、桜井。じゃあ、おまえは何者なんだ」
ぼくの問いに答えたのは友恵ではなく、長野主膳だった。
「村山たか…」
「ええ、そうよ。私は村山たか」
だから、誰なんだよそいつは。
「どうやら私も村山たかさんも、鳥居くんについては共通の認識がある…」
谷口澪さんである長野主膳? と桜井友恵である村山たか? がともに頷いた。
長野主膳がぼくを見た。
「井伊直弼は、あなた。鳥居くん、あなたが井伊直弼」
「はい?」
どこまでも意味不明な展開。
「やっぱり、2人で組んで、俺にドッキリをしかけてるんだよね? ね?」
「違う。残念だけど」
友恵が首を横に振るのを見て、ぼくはついに叫んだ。
「じゃあ、これはなんなんだよ。今の状況がさっぱりつかめねーよ。説明してくれよ。俺には、目の前にいるのは澪さんと桜井にしか見えないんだから!」
で、ぼくが、井伊直弼。何これ。
しばしの沈黙が流れた後、村山たかが口を開いた。
「まず、私はリーンカーネーションを信じないって言ったけど、前言を撤回する。鳥居くん、あなたはたぶん、井伊直弼の生まれ変わり。リーンカーネーション、つまり転生よ」
「いや、わかんないって。なんで俺が井伊直弼なんだよ」
「幼い頃から、横浜の掃部山公園にある井伊直弼の銅像を見て彼を自然とヒーロー視していた。日本史の授業中に、井伊直弼が安政の大獄を仕掛けた天下の悪者だと言われて『そんなけねえだろ!』と躊躇なく反発した。あなたは、井伊直弼という人物の歴史上の見方に流されていない。それは、本能に井伊直弼本人の記憶がタグづけされているから」
「つまり、俺の前世が井伊直弼だってことか?」
「そう」
前世という言葉を、テレビやネットでよく見かけるが、そんなものはマユツバものだとしか思っていなかった。
でも、俺って井伊直弼なの?
「信じられませーん」
そう言うしかないだろ。
「誰だって信じられないと思う。ただね、あなたが井伊直弼だからこそ、ここに長野主膳と私が揃っているの。それだけはわかってほしい。わかってもらえないだろうけど」
「長野主膳と村山たかって人が歴史上にいるとして、井伊大老が桜田門外の変で暗殺されたように、その2人もどこかで死んだんじゃないのか?」
「さて。村山たかさんは、大老暗殺の報を知り身を潜めていたところを捕らえられて三日三晩さらしものにされたとか、寺に入って尼僧になったとか、人知れず姿を消したとか、うわさ話には尽きませんが、真相は闇の中」
「長野主膳も、安政の大獄の首謀者として処刑され斬首されたとか、京の都で女性に化けて追っ手から逃れたとか、人知れず姿を消したとか、伝聞ならいくつもあるけれど、同じく真相は闇の中」
「その時代を生きていない人が語り継ぐ、歴史という不思議な物語」
「そうね。だけど、あなたも私もこうして生き延びている」
ぼくは、まだ訊いていないことがある点に気がついた。
「長野主膳という人が井伊直弼にいちばん近い人だったというのはわかったよ。じゃあ、村山たかさんと井伊直弼の関係はどうなんだよ?」
村山たかはうつむき、代わりに長野主膳がそっと耳打ちした。
「かの時代の男と女、どういう関係だったかは、容易に想像がつくでしょう」
「そんなんじゃない…」
村山たかはうつむいたまま、声を絞り出した。
「彼には一途に想う女性がいたの。だから私は彼とそういう関係になったことはない」
「なるほど…では、そこは私の勘違い」
さっきからぼくと時空を飛び越えて交わされているこの会話はなんなのか。即興芝居、いわゆるエチュードか?
「俺が井伊直弼だとしてさ…」
あれ、ぼく、受け入れ始めてる…
「2人は、なんで、今ここにいるんだよ」
長野主膳が、その質問を待っていたかのように、嬉しそうに答える。
「あなたを守るため」
「あなたは違う」
村山たかが眼光鋭く言い放った。容姿もしゃべり方も、桜井友恵そのものなのだが。
「あなた、大老を守るために現れたんじゃないでしょ」
「私は掃部頭をお守りするために、今ここにいる」
「歴史の教科書では、安政の大獄は大老ひとりが何十人もの人を次々に処刑した悪者のように書かれてる。でも、京都に張りついて、江戸から遠い地で大老の威を借りて、どいつもこいつも捕獲の指示を出していたのはあなたでしょ」
「私は大老の意思を伝達する役割以上のことはしてはいない」
「いいえ。私はあなたが入京した頃から同じく京都に潜伏していたから、すべて見てきた。あなたが大老の意思として部下たちに出していた指示は、大老の意思を逸脱したあなた自身の保身の計略」
「あの時の京都は混乱に陥りテロが頻発していた。騒ぎを最小限に抑えるためには必要な政策だ」
「あなたは鳥居くんを見つけてから、あなたが大獄の本物の黒幕だということを井伊直弼にバラされないように、彼をマークし始めた。自分が井伊直弼だというウソまでついて、体面を守ろうとした」
ぼくは、キレた。
「うあああああああ」
「鳥居くん!」
2人が同時に声をあげた。
「俺が井伊直弼で、長野主膳と村山たかが俺の前に現れて、今ここに結集しているんだよな? なんだこの、闇の中すぎる真相は! 信じられるか!」
図書室の扉が開いた。
和田美保だった。
「やっぱりここにいた! あの、部活、終わっちゃいますよ」
「すぐ戻る」
友恵が静かに答えた。
図書室でのぶっ飛んだやりとりから美保が解放してくれた。
頭の片隅で、村山たか=桜井友恵がもらしたセリフが、リフレインし始めた。
「彼には一途に想う女性がいたの。だから私は彼とそういう関係になったことはない」
うーん…




