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桜井友恵の剣幕は尋常ではなかった。
この2人にここで話を続けさせるのはまずい。
ぼくはとりあえず、澪さんと友恵を図書室に誘導した。
図書室には司書の大塚先生以外、誰もいなかった。
「座れよ」
ぼくが促しても、友恵は立ったままだった。
澪さんも座らない。
ぼくだけが着席できる雰囲気ではなかった。
「澪さんが井伊直弼じゃないっていうのは、やっぱり澪さんは大老の生まれ変わりではないってことか?」
友恵が澪さんを見据えたまま頷いた。
「そりゃあさ、俺にだってわからないけど、それ以上に澪さんがいちばん、わけがわからなくて困っている問題なんじゃないか?」
「違う」
「日曜日の帰りに俺と話したことを言ってるのか? 澪さんは澪さんの格好をしている井伊直弼ではなくて、澪さんそのもの。澪さんが自分を井伊直弼だと話しているのは、思いこみだっていう…」
「違う」
友恵は、若干、身体を震わせていた。
「桜井、落ち着けよ。何が違うんだよ」
「だから、この人は井伊直弼なんかじゃない」
「なんでそう断言できるんだよ。まあ、俺も澪さんの言ってることを丸ごと信じているわけじゃないけどさ。それにおまえ、お茶の話を俺にしてくれたよな」
日曜日、横浜の澪さんの家を訪ねたぼくと友恵に「井伊直弼の正装」と化した人物がお茶を出してくれた。
あのお茶は、ずば抜けておいしかった。
帰り道、友恵は、そのお茶が井伊直弼の出身地である滋賀県の彦根の水でしか作れない、特別なお茶であると言っていた。
そして、井伊直弼は、千利休に次ぐ茶道の達人であることも。
「そう。あのお茶があったから、私もこの人が本当に井伊直弼なのかもしれないと迷ってしまったの」
「どういうことだよ」
友恵は、ポケットから取り出したケータイで、澪さんが午前中からずっと撮影していた「みんなで動画」の、一部分を再生して、ぼくに見せた。
横山が我を失って、澪さんに向かって突進してきたところだった。
澪さんは「きゃっ」と声を出して避けようとした。澪さんの手の動きに合わせて撮影画像も乱れる。
すぐに「ドサッ」という音がした。
映ってはいないが、友恵が横山を鮮やかな巴投げで床に叩きつけた音だ。
「あなた、なんで避けようとしたの? 私が助けに入ってなかったらあなた、あのエロ教師に殴りかかられていたわ」
澪さんは図書室に来てから一言も発していない。
「そりゃ、いきなりおっさんが突進してきたらびっくりして逃げようとするだろう、普通は」
「そうなのよ。この人は、逃げようとした。戦おうとしなかった。そこらへんの女と同じようにね」
「だから、それが普通だって…」
「いいえ。井伊直弼は、茶道だけでなく、国学や居合の名士でもあるの。居合というのは刀を鞘から抜いて相手を一撃するか、相手の攻撃を受け流して自分の攻撃で相手にとどめを刺す、抜刀術とも呼ばれているもの。井伊直弼は居合の達人で、彦根藩主になってからは『七五三居合秘伝書』を著して藩の子弟に授けているほどなのよ」
「じゃあ、さっきの場合は、刀を持っていなかったから、なす術がなかったとも言えるんじゃないか?」
なぜぼくは、何も言わない澪さんの代わりに彼女を弁護するようなことを言っているのだろうか。
「居合とは『刀を抜かずして勝つ』という格言がある、修行によって磨き上げることができる精神技術でもあるの。相手がどう攻撃してこようともこちらから返し技を受けることが分かる間合いをつくって、相手が手を出せなくなる状態にする。だけどあの時、部屋には複数の人がいたにも関わらず、エロ教師はこの人に向かってきて、この人はエロ教師から逃げようとした。この人が本物の井伊直弼なら、決して逃げたりはしない」
「それは時と場合によるんじゃ…」
「じゃあ、もうひとつ」
友恵はどこまでも引かない姿勢のようだ。
「もしこの人が本物の井伊直弼だとしたら、この人は私たちにウソをついている」
「ウソ?」
「日曜日にこの人の家に行った時の話。この人は自分が井伊直弼であると告白して、1858年の日米修好通商条約の締結を決断したと言った。その頃、井伊直弼は、大老として江戸幕府の中で複雑な立場にあったの」
ここまでは、何度か話を聴いてきたので理解できる。
「江戸時代の将軍が、徳川家康から始まって15代将軍・徳川慶喜で終わったことぐらいは鳥居くんも知ってるでしょ。当時の幕府は、その前の14代将軍を誰にするかで、もめていたの。井伊直弼にとっては、ハリスの通商条約要求を脅威に感じてもいたけど、14代将軍に自分が推薦する人間を就任させることに労を費やしていた。日米修好通商条約の調印についても、井伊は京都の孝明天皇の勅許が得られないから、勅許が得られるまで調印を引き延ばそうとしていた。でも、交渉役の岩瀬忠震は即時に調印をしたほうがいいと言い続けていて、条約締結の延期交渉をせずに、調印してしまった」
「日米修好通商条約は、井伊直弼の決断で結ばれたものではないってことか?」
「そう。実際、井伊は調印の報を聴いて『こんなに早い調印には私もあきれた』と言っていた。事実、安政の大獄では、岩瀬忠震も処分を受けている」
「だから、澪さんは井伊直弼ではないっていうことだな?」
「うん。この人は井伊直弼じゃない」
「だけど…」
ぼくは疑問に思ったことを、友恵にぶつけてみた。
「彦根のお茶の件はどう説明するんだ? あれだけのお茶を淹れられるのは、井伊直弼ぐらいなんだろ? って、それがわかるおまえのほうが俺にはもっとわかんないんだけど…」
「あれから私は、ずっと考えていたの。確かにあのお茶は彦根のもの。彦根に住んでいても、そこらへんの人が淹れられるものではない。でもこの人は、井伊直弼じゃない。通商条約についてのウソも気になっていた。さっきのエロ教師の突撃にとっさに迎撃できなかったことで、確信できた。では、何のためにこの人はウソをついたのだろう」
澪さんが、自分は井伊直弼だと主張している時点でぼくにはついていけない話題なのだが、友恵は今、確信を持って澪さんの主張を否定している。
いったい、なんなんだこれは。
「鳥居くん。日曜日の最後に、リーンカーネーションについてどう思うかっていう話になったでしょ。あの時、私が言ったことを、覚えてる?」
「ああ、えーと。『私は信じない。だって死んだことがないから』みたいなことを言ってたよな。それも一理あるなと思ったよ」
「ありがとう。だけどね鳥居くん。私は本当に死んだことがないの。そしてこの人も、おそらく死んだことがない」
「そりゃそうだろ。人は誰でも、死んだ経験なんてないんだから」
「違うの。少なくとも私は、江戸時代以降、一度も死んだことがない。そして、目の前のこの人も」
いよいよもって意味がわからないぶっ飛んだ話になってきた。
江戸時代から死んだことがない?
だったらおまえら、今、何歳だよ。
あり得ないだろ…




