17
夜10時になったのを確認して、ぼくは石井洋平先輩に電話をした。
「トリーか、珍しいね」
「この時間なら先輩ももう家に着いているかと思いまして」
石井先輩はほぼ毎日、部活が終わってから藤沢駅前のゲームセンターに行く。
視聴覚室でもスマホでゲームをしていることがある。
ぼくはこれらのゲームには興味がない。
「ああ、さっき帰ってきたところ。これから風呂でも入って一杯やろうと思ってたところだよ」
石井先輩はケラケラ笑った。この人、何歳だっけ。
「楽しみを邪魔しちゃって申し訳ありません。ちょっと気になることがありまして」
「何?」
「先輩、皆川のことで、何か情報を持っているんじゃありませんか?」
「俺が?」
石井先輩は明るい声で続けた。
「ないよ」
通話ではあるが、先輩の返事にウソはないと感じた。
しかし、ぼくは引き下がらなかった。
「さっき、部室で皆川のことを話しましたよね。3つの退部届の暗号の中で【□の中に×】のマークについて、俺がボーリングのストライクのことじゃないかと切り出したら、先輩はすぐに【ストライク】と【R】を組み合わせて【ストライカー=STRIKER】という単語を導きました。暗号はもうひとつ【E】というものがあったにもかかわらずです」
「ああ、そうだったなー」
「あれは、直感ですか? 俺にはそうは思えなくて。先輩がなぜすぐに【STRIKER】を思い浮かべたのか、引っかかっているんです」
「それか。参ったなあ…」
石井先輩が苦笑いしている表情が脳内再生された。
「トリーは、エロ雑誌に興味ある?」
先輩の逆質問に、ぼくは意表を突かれた。
「え…エロ雑誌ですか。見たことはないですねえ」
「そうだよなあ。フツーの高校生ならエロゲーとかエロ雑誌とかに少しはかじりついてそうだけど、トリーはそんな感じしないもんな」
フツーの高校生はエロゲーやエロ雑誌にかじりついているものなのか?
「うちの兄貴がさあ、よくコンビニで18禁の成人向けコーナーにある雑誌を買ってくるんだよ。その中に『月刊エロ・ストライカー』っていうのがあるんだよね。だから、ストライカーっていう言葉が、すぐに出てきたんだよ」
「そうだったんですか…」
ぼくには、コンビニの成人向け雑誌コーナーにある『月刊エロ・ストライカー』の内容がどんなものなのか、まったく想像がつかなかった。
「だから、皆川ちゃんのことは俺は何も知らないんだよ。力になれなくて申し訳ないんだけどね。あ、そうだ!」
「なんですか? 何かひらめきましたか?」
「いや、どうせだから、明日、部活の時に『エロスト』見せてあげるよ。バックナンバーいくつかあるから」
『月刊エロ・ストライカー』は略して『エロスト』というのか。ゲームのような、うまい略し方だな。
って感心してる場合じゃないか。
「いいですいいです、この電話はなかったことにしてください。じゃ」
ぼくも最後は苦笑いしていた。
だいたい、お兄さんが買ってくる雑誌のバックナンバーを、なんで弟が持ってるんだよ。あの先輩、学校ではそんな風に見えないけれど、そうとうエロいな。
それはそうと、結局、皆川が記した3つの暗号の謎は解けないのか。
こうなったら、皆川に電話してみるか。
おととい、皆川からは「ごめんね」とメッセージがあった。
今、皆川はどんな気持ちでこの時間を過ごしているのだろう。
ぼくは、皆川の番号を表示して通話ボタンを押そうとした。
押せなかった。
なぜだろう。
わからない。
押せなかった。
ぼくは両目の間の、鼻の付け根あたりを指でつまんだ。
このところ、ぼくは部活関係の女子に振り回されまくっているなあ。
皆川が部活を辞めた。学校にも来ていない。
澪さんはぼくを家に招待してくれたが、その場で自分が井伊直弼であると打ち明けた。
桜井友恵は、澪さんが井伊直弼であることを否定しようとしていた。
澪さんだか井伊直弼だかわからなくなってしまった人が出してくれたお茶については、何か思い当たることがあるようだった。
和田美保は、
和田美保は、
あれ?
和田美保は副部長として、そして「リーンカーネーション」で大船みゆきを任されて、演劇部に積極的に参加してくれている。
皆川の中学の後輩として、皆川への心配は誰よりも強そうだ。
ぼくを振り回すような行動は、何かしていただろうか?
ぼくが勝手に、美保に振り回されていると思っているだけなのか?
美保に部長と副部長という関係以上の特別な感情を、ぼくは持ってしまっているのではないだろうか?
ぼくはバッグから「リーンカーネーション」の台本を取り出して、ベッドに仰向けになって、読み始めた。
この台本の中では、藤沢一成と大船みゆきは恋仲という設定だ。
そしてそれは、映画研究部の部員たちには知れ渡っている。
大船みゆきは劇の冒頭で交通事故に遭って命を落としてしまうが、それまでは付き合っていた。
藤沢一成と大船みゆきは、いつから、どうして付き合っていたのだろう。
台本に書かれていない部分を、ぼくは想像した。
わからなかった。
新歓公演でぼくが演じる新垣と皆川が演じるキョウコが恋に落ちていく過程も、ぼくには現実感がなかった。
それはきっと、ぼくに恋愛の「経験」がないからなのだろう。
飯山が、新歓公演の時に、ちょい役ではあるがたびたび登場するニュースキャスターを演じる際に「俺はニュースキャスターなんてやったことがないからわかんねえよ」と台本を投げ出そうとした時に、ぼくは心の奥で飯山に共感していた。
皆川絵美が演じる予定だった大船みゆきを、和田美保が演じる。
劇中で大船みゆきが急に交通事故に遭ってしまったことと、皆川が急に演劇部を辞めてしまったことが重なり合ってきた。
和田美保が演じる大船みゆきは、ぼくにとっては不思議な存在だ。
亡くなったのは台本の中の大船みゆきなのに、読み合わせをしていると、和田美保が交通事故に遭って亡くなり、そのつらさをぼくが引きずっているような感覚になる。
藤沢一成は自分の脳内でよみがえらせた大船みゆきと別れの儀式をするのだが、それはぼくと和田美保の永遠の別れのような気さえしてくるのだ。
「生まれ変わったら、カズと私はきっとまた一緒になれる」
大船みゆきのセリフに、ぐっときてしまう。
いつのまにか、ぼくは浅い眠りについていたようだ。
変な夢を見た。
ぼくは、男装の麗人と化した澪さんと対座して会話していた…。
話の内容までは、覚えていない。
ただただ眠くて、なかなか寝つけない夜になった。
「鳥居くんて、学校でそんなエッチな雑誌読むんだ…」
桜井友恵の声がして、ぼくは我に返った。
昨夜、ぼくはずっとモヤモヤを胸に感じながら、なかなか眠れなかった。
明け方になってようやく眠れたのだが、すぐに親に起こされた。
ぼくはまっすぐに学校には行かないで、途中のファーストフードの店で朝メニューを食べながらウトウトして、学校に着いてからは授業中にウトウトしていた。
そんなぼくの目を覚まさせたのは、部活が始まる前に石井先輩からこっそり渡された『月刊エロ・ストライカー』略して『エロスト』だった。
『エロスト』は成人向け雑誌の中でも、ややロリコン層を対象にしたものだった。
カラーページに掲載されている写真には、いちいち「JK」が強調されている。
JKが何を指すかは書かれていないが、当然、女子高生の略だろう。
それにしてはモデルの年齢が上に見えるのは、普段から学校でリアルな「JK」と共同生活を送っているからだろうか。
成人向け雑誌、いわゆる18禁もののモデルは18歳以上でホンモノのJKは起用できないから、雑誌の中でセーラー服やブレザーを着た「JK」が年上に見えるのは、当然といえば当然だ。
視聴覚室で『エロスト』を見るのはさすがに気まずくて、少し離れた廊下でパラパラめくっているうちに、没頭してしまっていたようだ。
っていうか、エロ雑誌を読むつもりなどなかったのだが、そこは高校2年生の好奇心があらがえなかった。
「いや、これは、その…」
「しかもJK特集のロリコン雑誌」
友恵はため息をついた。
「鳥居くんにそんな趣味があったとはねえ」
「違うんだって。えーと、だから…」
「落ち着けば?」
それもそうだ。
ぼくは、昨夜の石井先輩との電話の内容を友恵に話した。
「なるほどね。石井先輩はこの雑誌の愛読者だったから、【STRIKE】に【R】を足した【STRIKER】を思いついたのね」
石井先輩が愛読者なのかどうかは知らんが。
友恵は、ぼくの手から『エロスト』を奪い取った。
「おい」
「へー。男子ってこういう写真を見て興奮するんだ」
友恵が淡々とページをめくる。
「気持ち悪い」
「だよな」
じっさい、初めて『エロスト』を見て、廊下に持ち出してじっくり眺めてしまったぼくには、反論の余地はなかった。
「あれ?」
友恵がページをめくる手が止まった。
「なんだよ」
友恵は、グラビアページに視線を集中していた。
そこには、下からのアングルで、セーラー服をはだけさせてスカートの奥を見せている「JK」モデルが写っていた。
一般向けマンガ雑誌のグラビアと違うのは、下着の奥の「見せてはいけないもの」が、写っている点だ。
モロに見せるということはせず、下着を透かしたり、際どいところにモザイクをかけていたり「工夫」されている。
他のページには、屈強そうな男性と「JK」あるいは「JC」が身体を寄せ合っている写真も掲載されていた。
友恵が目を留めたのは、比較的、ソフトな「イメージ写真」だ。
「このページがどうかしたのか?」
「これ、どこかで見たことある…」
「え? 何が?」
「背景…」
「背景?」
友恵とは、前にも写真について話をしたことがあったな。
ぼくの0歳の時の写真についてだった。
あの時も、問題は写真の直接の被写体ではなく、「背景」の5月飾りに写り込んでいた人間の顔だった。
ぼくも、そのページの写真の背景に注目した。
どこにでもありそうな街並みだが、友恵に言われると、見たことがあるような場所にも思えてくる。
「ここ。どこかで、絶対に見てる…」
友恵は確信を持ったようだ。
だが、それがどこかまでは、思い出せないようだった。
その時、廊下を走る足音がした。
「藤沢くーん!発声練習だよー!」
笑顔でこちらに向かってくるのは、和田美保だった。
役づくりのために、わざと大船みゆきになってぼくを「藤沢くん」と呼んだのだろう。
「おい、隠せ!」
「なんで。隠さないといけないようなものだっけ?」
ぼくと友恵は『エロスト』の奪い合いをした。
「藤沢くーん、どうしたのー」
美保が近づいてくる。
「あれ、どこ行くんだっけ?」
とりあえず愛想笑いを浮かべてとぼけてみる。
「いざ、鎌倉!」
美保が鎌倉市民らしい、つまらないボケをかましながら近づいてくる。
藤沢、大船、鎌倉…
「あっ!」
その瞬間、ぼくの心のモヤモヤが、一気に晴れた。
「そうか、そういうことだったのか!」
「え、何?」
「わかったよ。やっと見つけたよ…」
ぼくは「事件」の解決の糸口を見つけて、右手を握りしめた。
「え、それを? やだ、エロ本!」
握りしめた右手は『エロスト』をつかんでもいた。
「気持ち悪い」
友恵が言ったの?
美保が言ったの?




