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「澪さん…何やってんすか?」
目の前に立った、ヴィジュアル系のアーティストのようなシュンとした出で立ちに変身した澪さんに、ぼくは驚いて素っ頓狂な声を出した。
「あのね…いや、あの、俺…今まで誰にも言ってなかったんだけど、井伊直弼なんだ」
澪さんが言っている意味がわからない。
友恵は、ぼくの隣りで澪さんの目のあたりをじっと見据えていた。
「いや、澪さん、何してるんですか。それはコスプレか何かですか?」
「コスプレじゃねーよ。俺、本物の掃部頭なんだよ。って言っても、信じてもらえるわけないよね」
澪さん? は薄めの白い化粧をした顔で苦笑いした。
その笑い方は、どこか寂しそうだった。
「そりゃ、当然ですよ。このあいだ、部活の時に、井伊直弼は桜田門外の変で殺されたっていう話を、澪さんがいるところで話していたばかりじゃないですか」
「あの時に、私の…俺の話が出たよね。あれが、最初のインパクトだった」
「そういえば、視聴覚室で話をしていた時、谷口先生は井伊直弼のことを、単なる悪人としてよりは、擁護するような発言をしていましたね」
友恵が口を開いた。
やはりぼく以外には、敬語で話す。このワケのわからない展開でも、それは守っている。
「あの時は、教育実習生の谷口澪として、あくまでも歴史の教科書に掲載されている史実と、これまでに歴史学者の間で議論されてきた一部を話すにとどめておいた。それ以上、深い話をしても仕方ないしね」
澪さんの声は、少しずつ震えてきた。
「鳥居くん、写真は持ってきてくれた?」
ぼくは、澪さんに言われて、いつも部活が始まる前に眺めている0歳の自分の写真を持ってきたことを思い出した。
バッグの中に入れていた手帳に挟んでおいた写真を取り出して、机の真ん中に置いた。
「この写真を見た時に、2度目の戦慄が走った」
澪さんの声はさらに震えて、その高音は女性とも男性ともつかないように聴こえた。
「この写真は、五月飾りの前に座ってカメラに顔を向けている鳥居くんを撮ったものだよね?」
「はい」
「この写真の、ある部分が問題なんだ…」
澪さんが、もったいぶっているのか言いよどんでいるのか、ぼくにはわからなかった。
「ここ!」
と叫んだのは、友恵だった。
友恵は、五月飾りの兜の左側を指差した。
その部分には、兜を引き立てる弓や両立ちの吹き流しなどの飾り物が添えられている。
「あっ!」
ぼくも、ようやく気づいた。
友恵が指差した部分に、紫色の髪に白い化粧をした、ヴィジュアル系のアーティストのような人間の顔が写りこんでいた。
写真の中の首から上の人間の顔は、ぼやけていてよく見えないが、おそるおそる澪さんに視線を移すと、写真の中の人間の顔と同じ顔が、そこにあった。
「何これっ!」
ぼくは、たまげた。
自分の0歳の時の写真の背景に、人の顔が写りこんでいる。
まさに心霊写真のような形で。
今まで毎日、眺めてきた写真に。
自分では、気がつかなかった…。
「できるだけわかりやすく話そう」
目の前の人が言った。ぼくには、それが誰なのか、よくわからなくなってしまった。
「谷口澪という人物は、確実に存在する。そこに、俺が、降臨した」
「俺というのは、井伊直弼のことですね?」
友恵が訊いた。
「そう。最初は、谷口澪が歴史を学んでいく過程で、俺…井伊直弼のことだね、俺に肩入れし始めて、詳しく勉強し始めているだけだと感じていた。しかし、谷口澪が井伊直弼についての史実に触れていくうちに、自分の記憶の中に、俺にしかわからないことが浮かんできていることに気がついたんだ」
目の前の人は、そこでひと息ついた。自分でも淹れたお茶をひとくち飲んでから、続けた。
「確かに俺は、幼少の頃から30歳を過ぎた頃まで、故郷の彦根で過ごしていた。その後、兄から江戸に呼ばれ、老中にも大老にもなった。日米修好通商条約の締結の決断もした。それは自分の意志でしたことだ。だが、どこでどう間違えられてしまったのか、俺は日本版のヒトラーのような扱いにされてしまうことになる」
「安政の大獄のことですね」
友恵が訊いた。ぼくは、2人の会話をキョトンとして聴いていることしかできなかった。
「確かに俺は大老として、道義に背いた者たちに罪を償わせるように、指示を出した。だが、俺の知らないところで事が大きくなり、江戸だけでなく朝廷がある京都でも極刑に処される者が大量に出てしまった」
「つまり、安政の大獄といわれる安政5年から6年にかけての大処刑劇は、あなたが指揮したものではないということですか?」
「あの処断を大獄というならば、その大獄に俺がまったく関わっていないとは言わない。誰と誰に相応の罪を償わせるようにと、下の者に指示を出したのは俺だ。だが、長州藩士の吉田松陰殿、福井藩士の橋本左内殿や多くの水戸藩士が死刑の憂き目にあった。また、京の都では、宮家や公卿の方々まで刑罰を受けて、天皇さまの心を痛めるまでの事態に発展してしまった」
「その結果、あなたは安政7年3月3日、大雪の降る桜田門外で、大獄の恨みを晴らすべく襲いかかった水戸藩士たちによって、殺害された」
「あの日は、早暁の時分から寝つけなかった。それで、朝五つの頃には意識が朦朧としていたなあ」
しばし沈黙が流れた。
男装の麗人と化した澪さんと思われる井伊直弼と名乗る人物が、ぼくと友恵の茶碗にお茶を注いでくれた。
「たが、谷口澪は谷口澪だ。俺が井伊直弼だと主張したところで、信じてくれる人などいないだろう。俺は、彦根藩で暮らしていた頃に国学を学び人に道を教える立場になったこともある身だ。谷口澪として教職につく道を選んだ」
ぼくは、ノドがカラカラに渇いていたので、熱いお茶を音を立てて飲んだ。
「鳥居くん。あなたに出会ったのは、運命かもしれない」
ぼくは口に含んだお茶を吹き出しそうになった。
「鳥居くんが俺…私のことをヒーロー視してくれていたこと。その写真に、私が写りこんでいたこと」
ここで友恵が口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。そうすると、鳥居先輩の写真に写っているあなたは、井伊直弼さんなのか、谷口先生なのか、どちらなのでしょうか?」
「わからない」
その声は、谷口澪のものに戻っていた。
「私は元々、男装が趣味なの。いつの間にか大老が私の中に入りこんで、私が大老自身であることに気がついてからは、大老が現代で最も映える恰好はどんなものか、そればかり考えていた。そうしたら、このパープルの髪が、大老と私にしっくりきたのよ」
「あの、これは、何の話なんでしょうか…」
ようやく、ぼくは口を挟むことができた。
「澪さんと桜井が組んで、俺にドッキリでもしかけているんですか? ああ、だからあの時、2人が学校のトイレの前で…」
「違うの」
澪さんが、強く、しかし悲しそうな声を出した。
「ドッキリなんかじゃない。ねえ、桜井さん」
「はい。私は、今、初めて谷口先生からこの話を聴いて、とてもびっくりしています」
びっくりしているという割には、友恵の口調や表情は、凛としていた。
バスの中や、この家に来てからの落ち着きのなさが消えている点が、ぼくにはここで話されていることがドッキリまがいのことではないと理解させた。
「あの…」
「どんな質問でも受けるわよ、鳥居くん」
「安政の大獄があった年って、西暦に直すと何年でしたっけ?」
澪さんは苦笑いを浮かべた。
「安政の大獄といわれている事態が起きてしまったのは、1858年から1859年。その次の年、1860年に私は殺されているの」
ぼくは、またポカンとしてしまった。
「おかしいよね。昔、自分が殺されたことを冷静に話しているバカな人がここにいるんだもんね」
確かに。
「ちなみに、私が死んだすぐ後、1862年には、アメリカで南北戦争が始まっているの。当時の日本がいかに世界を知らなくて、遅れていたかがわかるよね」
南北戦争が、ピンとこない。
「つまり、澪さんには掃部頭が憑依しているっていうことですか?」
「うん。だって私、掃部頭なんだもん」
ぼくにとっての掃部頭は、掃部山公園から横浜港を見つめているおっさんなんだが。
「どう、信じられないでしょ?」
「はい。あ、いえ、あの…」
「そういうものなのよ。あ、お菓子も食べてね」
澪さんは机の上に和菓子を出した。
澪さんがお菓子を出すタイミングはあきらかにずれていたが、ぼくは柏餅をいただくことにした。
「私、着替えてくる。この恰好、好きなんだけど、本当のことを初めて話したら、なんだか恥ずかしくなっちゃった」
澪さんは、立ち上がりながら言った。
「ねえ、2人は、リーンカーネーションって、信じる?」




