第九話 使者は北から
その朝、空が低かった。
ヴィルヘルマは領主館の階の上に立ち、東の空を見ていた。山の向こうに、灰色の雲が層をなして溜まっている。まだ降ってはいない。だが、空気の匂いが変わっていた。湿っている。土が、雨を待つ前の匂いを上げていた。
ハルトが、その横に来た。彼も、同じ空を見た。
「……ひと荒れ、来るな」
「ええ」ヴィルヘルマは言った。「せっかくなら、土砂降りの嵐が来てほしいものですわね」
ハルトが、彼女を見た。聞き違いかという顔だった。
ヴィルヘルマは空を見たまま、薄く笑っていた。社交の場で退屈な賛辞をいなすときと、同じ種類の笑みだった。
「これだけ備えましたのよ。一度くらい、本気の天気で試してみたいではございませんか。詰めの甘いところが一つでもあれば、笑い事ではございませんもの」
ハルトは、何か言いかけてやめた。
ヴィルヘルマは、その横顔の硬さに気づいた。気づいて、笑みを少しだけ収めた。
「――もっとも」彼女は、声の温度をひとつ落とした。「その嵐で流されていくのが、ここで暮らす者たちだというなら。話は、別ですわね」
ハルトは、答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。彼は本物の雨を知っている。南方でそれに濡れ、隊を半分流された男だ。ヴィルヘルマは、それ以上は言わなかった。彼の沈黙を、そのままにしておいた。
空の灰色が、また一段濃くなった。
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雨は、その日の昼過ぎから降り始めた。
最初は細かった。やがて、屋根を叩く音に変わった。村は濡れたが、備えた水路が水をさばいて流されはしなかった。
その雨の中を、一騎駆けてくる影があった。
物見の一人だった。街道の北の高みに置いた、若い元兵。彼は馬を捨てるように館の前で降り、泥のまま階を駆け上がってきた。息が、言葉になっていなかった。
「ヴィルヘルマ様! 北の街道に……人が。隊列ではございません。バラバラの、潰走です。武装した者もしておらぬ者も入り混じって、西からこちらへ……!」
ヴィルヘルマは、立ち上がった。
「旗は」
「掲げている者も、おりました。……王国の正規軍の旗です。泥だらけで、半分は、捨てられておりましたが」
広間の空気が固くなった。ハルトの顔が強張った。潰走という一語の重さを、この場で最もよく知っているのは彼だった。
ヴィルヘルマだけが、表情を変えなかった。彼女は、窓の外の雨を一度だけ見た。
『……来ましたわね。思ったより、ずいぶん早く』
「ハルト。村の備蓄を開けて、炊き出しの支度を。傷ついた者を雨に晒したままにしてはなりません。場所は、鍛冶場の前の広間。あそこが、一番広うございます」
「……敵か味方かも、わからんぞ。武装した連中だ」
「武装したまま潰走している軍は、追われている軍ですわ。追う側は、こんな降りの中で隊列を崩したりいたしません。あれは、疑いようもなく負けた側」
ヴィルヘルマは、すでに上着の袖を留め直していた。
「それに、味方か敵かはわたくしが決めることではございませんの。決めるのは、向こうですわ。――濡れて凍えた人間を、まず火のそばに入れる。話は、その後ですの」
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潰走兵の群れがグレナディアの村に流れ込んできたのは、夕刻だった。
数は、ヴィルヘルマの見積もりを超えていた。武装兵。輜重を失った輸送兵。隊からはぐれた斥候。そして、その隙間に軍ですらない者たちが混じっていた。街道沿いの村から戦火に追われて逃げてきた、ただの民だった。
彼らは、グレナディアが差し出した炊き出しと雨をしのげる軒先に、最初は戸惑っていた。奪われることに慣れた目をしていた。施されることを警戒する、目だった。村の者が、かつてそうだったように。
ヴィルヘルマは、その群れの中を傘も差さずに歩いた。煤色の上着が、水を吸って重くなっていた。彼女は、それを構わなかった。一人ずつ、状態を見ていった。歩ける者。担架の要る者。もう、手の施しようのない者。視線が、医師のそれだった。
一人の士官らしき男が、彼女の前に立ち塞がった。
胸に、ルビーの装甲をつけていた。罅が入っていた。荒れ野の的と、同じ割れ方だった。
「……貴公が、ここの領主か」
男の声は掠れていた。
「グレナディア。聞いたことがある。……公爵家の、捨て領地。追放された令嬢が送られたと聞いていたが」
「ええ。その令嬢ですわ」
男の目が、わずかに見開かれた。それから、彼は最後の力を振り絞るように声を押し出した。
「……なら、聞いてくれ。あれは、止められん。サファイアの重装が、隙間なく壁になって寄せてくる。こちらの矢も槍も、通らなんだ」
疲れ切った目が泳いだままで言葉が紡がれる。
「将がいい。兵を、一人も無駄に死なせん。退き際も攻め際も、こちらの裏ばかり掻いてくる――あれは、勝ち方を知っている軍だ」
言い終えると、男はもう言葉が続かなかった。彼の背後には、彼が連れてきた数百の濡れた人間がいた。その全員を養う力が、彼にはもうない。それを、彼自身が誰よりわかっていた。
ヴィルヘルマは、その沈黙を待たなかった。
「お話は、後で伺いますわ。今はそちらの方を」
彼女は、男の足元を指した。男が背負ったまま下ろせずにいた、もう一人の兵。その兵は、すでに息をしていなかった。男は、それにまだ気づいていないようだった。あるいは、気づかないふりをしていた。
ヴィルヘルマは、その兵の顔に泥を拭った布を自分の手でかけた。所作は静かだった。賓客に手ずから茶を供する令嬢の、丁重な手つきそのものだった。
男が、膝から崩れた。
ヴィルヘルマは、その肩に手を置かなかった。慰めの言葉も、言わなかった。ただ、その場に少しの間立っていた。雨が、二人の上に等しく落ちていた。
『……ずいぶん、降りますわね』
胸の内の声は、静かだった。
『これだけ手を尽くしても、まだ足りない。村に入りきらない人が、この数。――これは、ほんの始まりですのね』
彼女は、顔を上げた。
村の灯りが、雨の向こうでいくつも灯っていた。グレナディアがこれまで一度も抱えたことのない数の人間を、その小さな灯りが照らそうとしていた。
「ハルト」彼女は、振り向かずに呼んだ。「炊き出しを増やしますわ。それと――王都の地図を、もう一度。今度は、急ぎですの」
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*次話へ続く*




