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断罪令嬢は柘榴石の戦車で前線を駆け抜ける 〜お招きに預かりましたわ。砲撃用意ですの!〜  作者: 絹田屋


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第十話 残る者、帰る者


 士官の名は、ベルントといった。


 雨が小やみになった夜半、ヴィルヘルマは彼を領主館の執務室に通した。乾いた服に着替えてもなお、背を丸めたまま。一晩で十も歳を取ったような顔だった。差し出された温い湯を、彼は両手で包んだまましばらく飲まなかった。


「東の国境の砦は、もうない」


 彼は、そう切り出した。


「半月前に抜かれた。隣国の本隊だ。宝石装甲の、正規の軍。サファイアを主装にした重い連中だった。砦のルビーの装甲では、受け切れなかった」


 ヴィルヘルマは、机の向こうで黙って聞いていた。表情は、動かさなかった。聞くまでもなく、知っている話だった。


「砦の次は、川の橋だった。橋を守れれば、まだ立て直せた。だが、橋も抜かれた。今はもう、王都の前の最後の平野まで敵を止める地形が何もない」

「王都は、まだ落ちておりませんのね」

「落ちてはいない。だが籠もっているだけだ。城門を閉じて、最後のルビーをかき集めて。……、囲まれれば時間の問題だ。後詰めの軍はない。出せる兵は、もう王都の中の分だけだ」


 ベルントは、そこで湯を一口飲んだ。喉が鳴った。


「私の隊は、橋で半分になった。残りで街道沿いの民を拾いながら、退いてきた。どこへ退けばいいのかもわからずに。……気づけば地図の隅の、この領にいた」


 彼は、顔を上げた。


「グレナディア。何もない土地だと聞いていた。だが――ここには湯がある。寝る場所がある。傷を見る者がいる。なぜだ。こんな辺境に、なぜこれだけのものが」


 ヴィルヘルマは、その問いには答えなかった。


 答える代わりに、一つ尋ねた。


「ベルント。あなたは、これからどうなさいますの」


 男は答えられなかった。湯気の立つ器に目を落としたまま、長いこと口を開かなかった。その器の中の湯が、すっかり冷めるまで。


-----


 夜が明けると、雨は上がっていた。


 グレナディアの村は、これまで見たことのない数の人間で埋まっていた。炊き出しの煙が、あちこちで上がっている。傷を見る場所には、列ができている。村の女たちが慣れた手つきで湯を運び、布を替えていた。井戸を掘った。衛生を整えた。備蓄を積んだ。その数十日が、この一日のために用意されていたかのようだった。


 ヴィルヘルマは、その中を歩いた。


 異変は、炊き出しの煙の下で起きた。


 女の悲鳴が上がった。続いて、器の割れる音。人垣が、波のように引いた。その中心に、武装したままの潰走兵が三人。一人が丸腰の逃散民から椀を奪い取り、奪われた男は痩せた子を背にかばったまま、地に膝をついていた。


 ヴィルヘルマは、その兵の目を見た。見て、すぐにわかった。飢えた目では、なかった。奪うことに慣れた目。負けて隊を失い、もう奪う以外の食い方を忘れた者のあの目だ。


『……凍えた人に火を、と申しましたわね。好き嫌いなく、と』


 足を止めた。止めて、自分の見落としをその一瞬で悟った。


『その火のそばに並ぶ手の中に、まだ刃を握ったままの手が混じる。――それを、わたくしは数に入れておりませんでしたわね……』


 丸腰の民と、武器を持ったまま餓えた兵。彼女は両方を同じ列に並べて立たせていた。施しは平等だった。だが平等な列では、強い者が先に奪うこともできてしまう。


 壁際から、声がした。


 ベルントだった。前夜、東の砦の話を告げたきり、まだ発つとも残るとも決めかねていた。その彼が低く、けれど迷いなく言った。


「……ああいうのを、列に混ぜてはいけない。最初に村を食い荒らすのは、敵じゃない。武器を持ったまま負けた、味方の方だ。私は、それを隊ごと見てきた」


 負けを知っている男の、言葉だった。


 ヴィルヘルマは、それを素早く受け取った。受け取ったときには、軽やかに身を翻していた。


「――皆様」


 声は張らなかった。だが煙の下の全員に、まっすぐ届いた。


「火は、お貸しいたしますわ。湯も椀も寝る場所も、ご用意がございます。――けれど、火のそばで刃を抜く方にはお貸しできませんの。武器をお持ちの方は、あちらの卓へ。預けられぬ理由のおありの方は、どうぞ列をお離れなさいまし。引き止めは、いたしませんわ」


 椀を奪った兵が凄んだ。一歩、彼女の方へ踏み出しかけた。


 踏み出せなかった。


 いつのまにか、彼女の後ろに人が立っていた。鍬を握った村の男たち。ハルト。物見の元兵。井戸を掘り、水路を通し、この数十日でグレナディアを建て直してきた者たちだった。その数、奪う側よりずっと多い。誰も声を上げず、ただ立っていた。それで、十分だった。


 兵は、奪った椀をゆっくりと地に下ろした。


 武器は、卓に集まった。多くはなく、その少なさがかえって答えだった。本気で奪う気だった者は、ほんの数人。残りは、ただ奪う側に流されかけていただけだ。その数人と流されかけた多くを、ヴィルヘルマは分けた。怪我をした逃散民の手当てを命じ、椀をもう一度配らせた。


『凍えた人に、火を。――その言葉は、間違ってはおりませんでしたわ』


 胸の内の声は、静かだった。けれど、もう皮肉も余裕もなかった。


『ただ、火のそばには秩序が要る。それを一つ、わたくしは数え落としていましたわね。――次は、落としませんわ』


 ベルントは、その一部始終を壁際で見ていた。何も言わなかった。ただ、昨夜から顔に貼りついていた呆けたような色が、いまは少しだけ薄れていた。


-----


 昼を過ぎる頃には、人々の間に、一つの問いが声にならないまま広がっていた。


 果たしてここに、残ってもいいのか。


 戦火に焼かれた村から逃げてきた者たちには、帰る家がもうなかった。畑も井戸も、灰になっていた。彼らにとってグレナディアの灯りは、何年ぶりかで見る、奪われない灯りだった。


 一方で、帰ろうとする者もいた。王都に家族を残してきた兵。隊へ戻る義務を負った士官。故郷が、まだ焼かれていない者。彼らには、戻る理由があった。


 その両方が、ヴィルヘルマの前に列をなした。


 彼女は、慰留しなかった。引き止めもしなかった。一人ずつ向き合って、ありのままを告げた。


「あなたは、王都に妻子がおありなのね。なら、お帰りなさい。街道の北回りは、まだ敵に抜かれていないとベルントが申しておりました。今日のうちなら、間に合いますわ。食料を三日分。地図の写しを一枚。持っておいきなさい」


 帰る者には、持てるだけのものを持たせた。情の言葉は、一つも口にしなかった。


「あなたは、村が焼けて戻る先がないと。――では、ここにいなさい。ただし、客人としてではございませんわ。鍬を持てる方は畑へ。手当てのできる方は傷の列へ。子供は読み書きの場へ。グレナディアに、ただ食べるだけの人は置きません。働く人を置きますの」



 残る者には、役を持たせた。一人にかける時間は短く、それでも誰一人ぞんざいには扱わなかった。それは、村が回り始めた頃に領民を仕分けたときと、何も変わっていなかった。


 帰る者の一団が、街道の北へ発っていった。見送りに、ヴィルヘルマは出た。手は、振らなかった。発つ者の何人かが振り返って、深く頭を下げた。彼女は、それに小さく頷きを返しただけだった。


『道中、雨が降らないとよろしいですわね』


 胸の内で、それだけ思った。


-----


 その日の夕刻、ベルントがヴィルヘルマの前にもう一度立った。


 彼は、帰る者の列にも残る者の列にも加わっていなかった。一日どちらにも入れずに、考えていたらしい。


「……一つ、訊きたい」彼は言った。

「貴公は、追放された令嬢だと聞いた。この国に捨てられた身だと。なのに、なぜこの国の兵に湯を出す。この国の民を、養う。恨んではいないのか」


 ヴィルヘルマは、すぐには答えなかった。


 恨み。その言葉を、彼女は心の中で一度だけ転がした。久しぶりに触れる言葉だった。彼女自身を逆立てたり深いにさせるような手触りは、もうほとんどなかった。


「ベルント。今朝わたくしが何をしたか、ご覧になっていたでしょう」


 ベルントは、低く答えた。


「……刃を、預けさせた。奪う者と餓えた者を、分けた」

「ええ。あのとき、火を貸す相手が王国の兵か敵国の民かなど一度も数に入れませんでしたわ。刃を抜くか、抜かないか。働けるか、働けぬか。――わたくしが見ていたのは、その二つきり。恨んでいる暇は、帳面のどこにもございませんのよ」


 ベルントは、長いこと黙っていた。

 それから彼は、その場に片膝をついた。兵が将に対して取る、姿勢だった。


「……王都へ、使者を立てる。私の名で。グレナディアに力がある、と。これは、私がこの目で見た事実だ。信じるかどうかは、王都が決める。だが、報せなければ見た者の責任を果たせない」


 ヴィルヘルマは、その膝を止めなかった。立たせも、しなかった。

 ただ、声を落として言った。


「お好きになさいまし。――わたくしは、来た人を入れて帰る人を送る。それだけですわ。王都が何を決めようと」


 彼女は、窓の外を見た。


 雨上がりの空に、最後の雲が東へ流れていくところだった。その下に、まだ見ぬ王都の方角が暮れかけていた。


『……届くでしょうね。遅かれ、早かれ』


 胸の内の声は、静かだった。期待も、気負いもなかった。


『まだ、助けの要る人がこの村に入りきらないほどおりますもの。――わたくしの仕事は、終わりませんわ。当分は』


 ベルントの使者は、その夜のうちに北へ発った。


 グレナディアの灯りが、一つ、また一つと雨上がりの闇に灯っていった。その数は、昨日よりずっと多かった。


-----


*次話へ続く*


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同じコランダム系でもルビーとサファイアで差が付くのか
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