第十一話 名代を迎える
ベルントの私信が、北の闇へ消えた。
その夜から、グレナディアの鍛冶場の火は一度も落ちなかった。
雨に洗われた村は、静かだった。傷の癒えぬ者が眠り、逃げてきた子らが新しい寝床で寝息を立てていた。その静けさの底で、鍛冶場だけが昼も夜もなく燃えていた。
ゴットフリートは、炉から離れなかった。皺の刻まれた腕が鎚を振るうたび、暗紅の塊が、少しずつ形を変えていった。一台目の車体は、すでにあった。荒れ野で最初の一撃を放った、あの車体だ。だが、一台では隊にならない。二台目の骨格が立ち、三台目の装甲が炉の中で熾火の色に焼けた。火花が、夜ごと天井を舐めた。
ヴィルヘルマは、毎夜そこへ来た。
図面を広げ、火花の散る鉄板の上で指で寸法をなぞった。装甲の継ぎ目。射出機構の角度。動力の魔石を据える炉床の深さ。一つでも甘ければ、本物の戦場でそこから割れる。それを知っていた。だからゴットフリートが「もう十分だ」と言う寸法に、もう一分の念を押した。老人はその都度舌打ちをして、それから言われた通りに打ち直した。
暗紅の車体は、一台ずつその数を増していった。九日目を迎える頃には、五台目の装甲が、最後の継ぎ目を待つばかりになっていた。
それは石だった。誰も掘ろうとしなかった格落ちの石。その石が夜ごと、戦の形になっていく。
九日目の朝、その火の音に別の音が混じった。
北の街道を上ってくる、蹄の音だった。
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王都の、正式な使者だった。
一行は、五騎だった。先頭の馬車に、王家の紋。だが、その紋は布で半ば覆われていた。誇示するためではない。道中、敵に見られぬためだった。覆わねば王都を出られない紋章を、彼らは掲げてきた。それが今の王国の格を、何より語っていた。
使者の名は、レーオポルト侯爵といった。王太子の名代である。
彼が領主館の応接の間に通されたとき、領主の姿は、まだそこになかった。侯爵は、立ったまま待たされた。長くはなかった。だが、名代を待たせるという一事の意味を噛みしめる時間はあった。
扉が、開いた。ヴィルヘルマが、姿を現す。
彼が目にしたのは、すべらかな絹の波だった。
深い、落ち着いた色の生地。襟も袖も、糸一筋の乱れもなく整っている。意匠は華美ではない。だが一目で、仕立ての格がわかる織りだった。装飾の宝石は、最小限。胸元に、一つだけ。それは飾りではなかった。硬度を見る者が見れば、用途のわかる石だった。
煤も油も泥も、どこにもない。
彼女は、戦車の上に立っていたあの人物そのものだった。背筋の通し方も、顎の引きも。けれど今、その所作を包んでいるのは辺境の領主の装束ではなかった。公爵家の大広間に何百と立ってきた人間の、正装だった。
レーオポルト侯爵は貴族であり、長く宮廷に身を置いた人間だった。だからこそ、その目は入ってきた人物の格を一瞬で測った。測って――背筋が、ひとりでに伸びた。誰に命じられたわけでもない。止めようとしても、止まらなかった。
『……ごきげんよう、侯爵さま』
ヴィルヘルマは、内心でそう呼びかけた。表には、出さなかった。
「ようこそ、おいでくださいましたわ」
声は、社交の間のものだった。穏やかで隙がなく、温度がちょうどよい。彼女は流れるような所作で、迎える側として侯爵に席を勧めた。この部屋で誰が主人であるかを、その一連の動きが言葉なく定めていた。
侯爵は、勧められた席に座った。座らされた、というほうが近かったかもしれない。
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用件は、彼が切り出すまでもなかった。
ヴィルヘルマは湯を勧め、道中の労をねぎらい、ひとしきり当たり障りのない言葉を隙なく交わした。社交の作法だった。本題に入る前に、その重さを相手に思い知らせるための間でもあった。
やがて侯爵が、湯のぬくもりが切れたのを潮に口を開いた。
「……単刀直入に、申し上げる」
「ええ。どうぞ」
「王都は、囲まれている。城門は閉じた。だが、後詰めがない。このままでは、ひと月と保たぬ。――貴領の力を、お借りしたい」
部屋から、物音が消えた。
ヴィルヘルマは、すぐには答えなかった。
彼女は、湯気の立つティーカップをゆったりと持ち上げた。考えているふうではない。答えは、とうに決まっていた。
『……とうとう、いらっしゃいましたわね』
胸の内の声は、静かだった。勝ち誇りも、皮肉もない。それを面白がる気さえも、起きなかった。
彼女が思い出していたのは、愚かな王太子への復讐ではなかった。村の灯りに入りきらず、いまだ外で凍えている、あの数百の人間の顔。
「侯爵さま」
「は」
「一つ、確かめさせてくださいまし。あなたは、わたくしに頭を下げに来られたのですか。それとも、王国の民のために来られたのですか」
侯爵は、答えに詰まった。
「……どちらも、だ」彼は絞り出した。「だが、貴公が前者だけを望まれるなら。私は、いくらでも下げよう。この首が、それで足りるなら」
ヴィルヘルマは、その言葉を聞いた。聞いて、小さく首を振った。
「結構ですわ。あなたの首に興味はございませんの。首をいただいたところで、兵の一人も増えはいたしませんでしょう」
侯爵は、その言い回しの意味を測りかねた。
「わたくしが動くのは、あなたに頭を下げさせるためではございませんわ。王太子殿下に、わたくしの今をお見せするためでもない。――民が、死にますもの。それだけですの。それ以上の理由を、お求めにならないでくださいまし。かえって、わたくしが安くなりますわ」
侯爵は、長いことヴィルヘルマの顔を見ていた。
彼は、宮廷で無数の駆け引きを見てきた男だった。恩を売る者。条件を吊り上げる者。この機に乗じて、地位を取り戻そうとする者。そのどれかを、彼は覚悟してここへ来ていた。
その、どれでもなかった。
目の前の人物は、ただ人の頭数と日数の話をしていた。
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話は、そこから速かった。
ヴィルヘルマは、地図を広げさせた。王都までの街道。敵の到達線。グレナディアから出せる戦力。動かせる物資。日数。すべてが彼女の中で、すでに数になって並んでいた。侯爵が口を挟む隙は、ほとんどなかった。彼は名代として来たはずが、気づけば報告を受ける側に回っていた。
「出立は、三日後ですわ」ヴィルヘルマは言った。「それより早くは動けません。ここに残る人を、置き去りにするわけにはまいりませんもの。残す者の段取りに、三日。それは削れませんわ」
「……三日で、王都が保つかどうか」
「保たせなさいまし。そちらのお仕事ですわ。こちらは、こちらの仕事をいたします。間に合わせる算段は、もう始めておりますの」
侯爵は、頷いた。頷くしかなかった。
退出の間際、彼は一度だけ振り返った。
どうしても、訊いておきたかったのだろう。
「……一つ、伺いたい。なぜ、その装いで私を迎えられた。貴公は、戦支度の領主だとベルント殿から聞いていた。なのに、今日は――」
ヴィルヘルマは、その問いに初めてごく薄く笑んだ。
「あなたは、王家の名代でいらっしゃいますもの。国を背負った方をお迎えするのに、こちらが格を欠いては非礼でしょう。――わたくし、これでも礼はきちんと習いましたのよ。公爵令嬢、でしたから」
咎める響きも誇る響きも、その声にはなかった。
侯爵は、深く一礼した。来たときよりも、ずっと深かった。
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使者の一行が、北へ帰っていった。
ヴィルヘルマは、それを階の上から見送った。手は、振らなかった。
『さて』
胸の内の声が、ひとつ切り替わった。社交の温度から、別の温度へ。
『食料は積みましたわ。傷の手は足りましたわ。残る人の役も、決まりましたわ。――あとは』
彼女は、振り向いた。
絹の裾が、翻った。その下から、いつもの煤色の上着の袖が覗いた。彼女は応接の間を出ながら、もう襟の留め具に手をかけていた。装いを戻すためだった。社交は、終わった。次は、こちらの仕事だった。
「コンラート」
「はい」
「鍛冶場へ。ゴットフリートに、伝えてくださいまし」
彼女の足音が、廊下を規則正しく遠ざかっていった。
「――五台、間に合いましたわね。確かめにまいりますわ」
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*次話へ続く*




