第七話 風が、形になる
物見は、十二日目に何かを見た。
ハルトが選んだのは、街道の東を見下ろす三つの高みだった。兵は置かなかった。置いたのは目だけだ。村の若い者と、元兵を一人ずつ。煙を焚かず、火も使わない。ただ見る。何かあれば走って戻る。それだけの仕組みだった。
十二日目の夕刻、その一人が走って戻ってきた。
息を切らした若者は、執務室の戸口でつかえながら報せた。東の街道に、人の列。荷を引いた、長い列。武装している。旗は見たことのないもの。足並みが、揃っている。商隊ではない。
ヴィルヘルマは、図面から顔を上げなかった。
「数は」
「……遠くて、はっきりとは。ですが、列の尻尾が丘の陰に隠れて見えませんでした」
「尾が見えない。数えられないほど長い、ということですわね」
彼女はペンを置いた。
「ハルト。地図を」
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その夜、執務室の机に領地より遥かに広い図が広げられた。
ヴィルヘルマが王都にいた頃に頭へ入れた、大陸の地勢。それを彼女は記憶だけで紙に起こしていた。東の国境。そこから王都までの街道。途中の川。橋。隘路。防衛に使える地形と、抜けてしまう地形。
「ハルト。あなたの読みで結構ですわ。あれは、どこを目指しておりまして」
ハルトは長いこと地図を睨んだ。元兵の指が、街道を西へなぞった。
「……国境の砦を抜けたなら、次はここの川だ。橋を取られたら、その先は平地が続く。平地に出られたら、王都まで止める地形がない」
「川の橋は、王都の正規軍が守っておりますわね」
「守ってるはずだ。ルビーの装甲の、最上等の連中が。――だが」
ハルトは、そこで言葉を切った。言いにくそうだった。
「硬さだけなら、大陸でも上の方。でしたわね」ヴィルヘルマが続きを引き取った。
「……ああ。硬いんだ。だが、あの装甲はまともにぶつかると割れる。俺は南方で見た。味方のサファイアの胸当てが、衝撃で罅割れて内側から砕けるのを。硬い石ほど、よく割れる。前線の兵なら皆、薄々知ってる。上は認めないが」
ヴィルヘルマは、地図の川を指の先で押さえた。
『――、それを誰も信じませんでしたわね』「ハルト。改めてお聞きしますわ。橋が割れたら、何日でして」
「……抜かれたら、王都まで十日。前に言った通りだ」
「十日」
ヴィルヘルマは、その数字を口の中で一度転がした。
「屋根を見に行くには、ぎりぎりの空模様ですわね」
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翌日から、グレナディアの動きが変わった。
布告は出さなかった。慌てもしなかった。ただ、ヴィルヘルマが組織図に引いていた線が、一本ずつ現実の動きに置き換わっていった。鉱山の石の切り出しが量を増した。鍛冶場の炉が、夜も落ちなくなった。ゴットフリートの鎚の音が、明け方まで止まらない日が続いた。元兵たちの教える陣の組み方が、机上の話から野でのものに変わった。
兵たちは戸惑っていた。誰も、何が来るのかをはっきりとは知らされていない。だが、領主が動けば村が動いた。水を引いたときも、そうだった。あのとき、彼らは順番に従って生き延びた。だから今度も、順番に従った。
ヴィルヘルマは、その全部の中心にいた。そして――コンラートは、気づいていた。
お嬢様の口数が、減っている。
もともと、無駄を言う人ではない。だが、これは違う種類の静けさだった。指示は変わらず的確に飛ぶ。声も、いつもの令嬢のものだ。けれど、その合間の沈黙が日に日に密度を増していた。何かを内側でたたんでいく、沈黙だった。広間で一礼したあの日の空っぽの静けさとは、まるで逆の。
『……お嬢様は、何を溜め込んでいらっしゃるのだろう』
コンラートは、その問いをいつものように胸の中へしまおうとして、しまいきれなかった。
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その夜、コンラートは、寝ずに残っていた工房に火が入っているのを見た。
ゴットフリートはもう休んでいる時刻だった。それなのに、炉の前に灯りがあった。
彼は足音を殺して覗いた。ヴィルヘルマが、一人でいた。
絹のドレスではなかった。彼女は、いつからか自分で誂えさせていた装束を着ていた。動きを妨げない丈の上着。腰で締める帯。革の手当て。煤を吸っても色の沈まない、暗い生地。飾りは、ほとんどない。胸元に、留め具がひとつ。それは公爵令嬢の盛装からは、最も遠い拵えだった。
それなのに、立ち姿は変わっていなかった。
背筋の通し方。顎の引き。手を体の前で軽く重ねる、その置き方。重心の置きどころ。社交界の大広間で千の視線に晒されても一分も揺るがなかった、あの所作のまま、彼女は煤と鉄の匂いの中に立っていた。装いだけが、戦のものに変わっていた。中身の格は指の先まで、令嬢のそれだった。
コンラートは、影の中でふと思った。
『……ドレスを召していらした頃より、今の方が、よほど公爵令嬢らしい』
思ってから、コンラートはその言葉を頭の中でもう一度転がした。取り消す気には、ならなかった。
ヴィルヘルマは、完成間近のガーネットチャリオットを見上げていた。図面ではなく、車体そのものを。炉の残り火が、暗紅の装甲を内側から灯したように染めていた。血の色とも炎の色ともつかないものが、ゆっくりと彼女の顔に映っていた。
彼女は、装甲に手を当てた。確かめるのではない。確かめる仕事は、もう終わっている。ただ、当てていた。手袋を外した指先で、逆に重ねた継ぎ目をひとなぞりした。
その肩が、ほんのわずか揺れた。
「……ふふっ」
火の爆ぜる音に紛れるほどの、小さな息だった。声というより、息に近かった。
次の瞬間、彼女は手を止めた。口元を指先で軽く押さえ、あたりへ目をやる――コンラートは、とっさに影へ身を引いた。見つからなかった。あるいは、気づかれた上で見なかったことにされた。
炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
ヴィルヘルマは、もう一度装甲を見上げた。今度は口元を引き締めて。いつもの、整った顔で。何事もなかったかのように。指先で上着の襟を直した。茶会の席で、ドレスのスカートの膨らみをそっと整えるときの、品のいい手つきだった。
「……はしたのうございましたわね」
誰にともなく、彼女はごく小さくそう言った。
それから、灯りを落とした。工房が闇に沈んだ。彼女の足音が、館の方へ規則正しく遠ざかっていった。背筋を伸ばした、令嬢の歩幅のままだった。
コンラートは、闇の中にしばらく立っていた。
心臓が、少し速かった。
『……お嬢様は、笑わなくなったのではない』
彼は、ようやくその問いの答えを得た気がした。できれば、得たくない答えだった。
『期待を、溜めていらっしゃるのだ。――あれが全て、外に出る日が来る』
その日が来るのがコンラートは少し怖く、そして少しだけ待ち遠しかった。
ただ、それを見たくないとは思わなかった。それだけは、自分でも不思議だった。
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*次話へ続く*




