第三話 帳簿は、嘘をつきませんわ
蝋燭は、結局十二本使った。
夜明け前、ヴィルヘルマは領主館の執務机に向かったまま、最後の一本の芯を指で摘んで消した。窓の外がうっすらと白んでいる。机の上には、前任領主が遺していった帳簿が、年代順に積み上がっていた。
コンラートが、温いお茶を運んできた。茶葉は道中の荷から出した手持ちのものだ。この館には、まともな飲み物が一滴も残っていなかった。
「お嬢様。一睡もなさらず……」
「数字は、見ているうちが面白いんですの」
ヴィルヘルマは帳簿の一冊を、コンラートの方へ滑らせた。
「ご覧なさい。歳入の欄」
コンラートは老眼を細めて頁を追い、それから次の頁をめくり、しばらくして顔を上げた。
「……これは」
「歳入が、ない。歳出が、ある。差額は借入で埋めてある。その借入の返済は、翌年の歳入を前借りして充ててある。その翌年の歳入も、前借り済み。三年先まで」
「では、領庫には」
「空ですわ。正確には空である上に、向こう三年分の収穫がすでに人手に渡っておりますの」
コンラートは口を半分開いたまま、何も言えずにいた。
『……帰ってよろしいかしら、と一瞬思いましたけれど』
思っただけで、ヴィルヘルマはもう次の頁をめくっていた。帰る場所はないし、帰りたいわけでもない。それに――数字は、嘘をつかない。書き換えられることは、ある。だが書き換え方そのものが、前任者の手口を雄弁に語る。
「コンラート。この帳簿、筆跡が二種類ありますわね」
「は」
「正式な記録と、その上から訂正を入れた筆。訂正の筆は、数字を必ず減らす方向にしか動いていない。歳入を低く見せ、その差分をどこかへ流していた。やり方が雑ですわ。最後の二年は、辻褄を合わせる気すらない」
それから彼女は、前借りの証文の綴りにも目を走らせた。三年分の収穫を抵当に取ったという相手の名が、半分ほど空欄のままだった。書いてある名も、どこかで見た筆の癖だった。
『この前借り、額面どおりに信じてよいものかしら』
借金を実際より膨らませ、その陰で差額を抜く。横領の常套だ。だとすれば、領が背負う借りは、帳簿が脅すほど重くないかもしれない。
ヴィルヘルマは羽根ペンの尻で、机を一度叩いた。
「やることが、決まりましたわね」
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朝になって領主館の前にヴィルヘルマが立つと、村の方から人が三人、おそるおそる近づいてきた。
先頭は、白いものの混じった髭の肩の厚い男だった。古びた革鎧を着ている。鎧の胸当ては――ヴィルヘルマの目がそこで一拍止まった――石英ではなく、もっと硬い石が嵌めてある。表面が摩耗して曇っているが、加工の手は確かだ。トパーズ。硬度は八。量産品ではない。どこかの正規軍を退いた人間の装備だ。
「あんたが、新しい領主様か」
男は、敬意の薄い声で言った。背後の二人は不安げに男の後ろに隠れている。
「ヴィルヘルマ・フォン・グレナディアですわ。今朝から、この土地はわたくしの責任です」
「……グレナディア、ねえ」
男は鼻で笑った。
「言っとくが、ここには何もねえ。前の領主もその前も、税だけ持ってって何もしなかった。あんたも、どうせ取れるだけ取って王都に帰る口だろう。新しい領主が来るたび、村は痩せるんだ」
コンラートが何か言いかけた。ヴィルヘルマは、それを手で制した。
「ごもっともですわ」
男の眉が、わずかに動いた。
「それだけ搾り取られて、なお信じろという方が無理ですものね。信じてくださいとは申しませんわ。判断は、結果を見てからで結構です」
ヴィルヘルマは、男の胸の石を扇で指した。
「そのトパーズ、どちらで」
男の表情が、初めて変わった。
「……わかるのか」
「八ですわね。クォーツより硬い。辺境の警備兵が支給品で持てる石ではございません。あなた、正規軍にいらしたでしょう」
男は、しばらく黙っていた。背後の二人が、顔を見合わせた。
「……ハルトという。昔、王国軍の南方守備にいた。膝を壊して、ここへ流れた」
「ハルト。この村に、井戸はいくつ生きていまして?」
話の接ぎ穂を完全に見失った顔で、ハルトは答えた。
「……二つだ。一つは濁ってる。一つは、夏になると涸れる」
「人はどれほどですの」
「百と、すこし。年寄りと、子供が多い」
「畑は」
「半分は、もう草だ。種籾を税で持ってかれて、撒けなかった年が続いた」
ヴィルヘルマは、それを順に頭の中へ並べた。水が二つ、片方は不良。人が百余、働ける手は少ない。耕地は半分が寝ている。種籾の欠乏。――優先順位は、おのずと一列に並んだ。
「では、水からですわ」
「は?」
「飢えた者に法を説いても衛生を説いても、意味がございません。順に申しますわ。まず水。次に食料。衛生は三番目。治安はその後。文句は、水が出てから受け付けます」
ハルトは、しばらくヴィルヘルマの顔を見ていた。それから、はじめて――ごく薄くだが――警戒以外の色を、目に浮かべた。
「……威勢のいい令嬢様だ」
「威勢ではございませんわ。順序でしてよ」
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その日のうちに、ヴィルヘルマは涸れる方の井戸を見に行った。
井戸の底を覗き、周囲の地面の傾きを見た。少し離れた窪地の草の生え方を観察し、それから村はずれの古い樹を一本、長いこと見上げていた。ハルトが、横でいぶかしげにしていた。
「令嬢様。井戸を見るのに、なぜ木を」
「根が水を追いますの。あの樹は、こちら側にだけ枝を厚く張っている。地下の水脈が井戸のある側ではなく、あちら側に寄っているということですわ。今の井戸は、水脈の縁を浅く掠めているだけ。だから夏に涸れる」
ヴィルヘルマは、窪地の一点を指した。
「掘るなら、そこ。井戸ではなく、そこへ。深さは――地層の色からして、思ったほどは要らないでしょう」
ハルトは、その指の先とヴィルヘルマの横顔を二度見比べた。
「……地理を、どこで」
「歴史書ですわ」
「歴史書」
「お勉強は、大切ですのよ」
ヴィルヘルマは、それ以上は説明しなかった。説明したところで信じないだろうし、結果が出れば説明はいらない。
三日後、ハルトたちが指定の地点を掘ると、想定よりも浅いところで土が湿った。さらに半日掘ると、水が湧いた。澄んでいた。
村の女が一人、桶にそれを汲んでしばらく動けずにいた。やがて、声を殺して泣き出した。子供たちが訳もわからず、その周りで笑っていた。
ハルトは湧き出る水を見つめたまま、動けずにいた。ヴィルヘルマの方を見られなかった、というほうが近かったかもしれない。
ヴィルヘルマは、その様子を少し離れて眺めていた。何も言わなかった。その水音が、彼女の代わりに語っていた。
コンラートだけが、主のすぐ後ろでこっそりと目元を拭っていた。
『……お嬢様も、この土地も』
言葉の続きを、彼は胸の中にしまった。
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その夜、領主館の執務机でヴィルヘルマは新しい紙を一枚広げた。
帳簿の整理は終わった。水の目処は立った。次は食料。それから衛生、それから――壊れた治安。前任者が遺した膿は、まだいくつも袋のなかに溜まっている。
彼女は明日からの順序を、一つずつ書き連ねていった。手をつける順に。迷いなく。
『順序さえ間違えなければ、土地は必ず応えますわ。――水のように』
書き終えて、ペンがふと止まった。
順序のどこにも入れられなかった一行が、まだ残っていた。台帳の照合中に見つけた記載。「徴用」とだけ書かれて、その後の記録が一切ない人員が数名。連れていかれたきり、帳面の上から消されていた。
『記録から消された人間が、領内のどこかで、まだ息をしているかもしれませんわね』
ヴィルヘルマは、その一行の隅に小さく印をつけた。後で必ず手をつける、という印だ。
印は、帳簿の隅で小さく息をひそめていた。掘り起こされる日を、待つように。
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*次話へ続く*




