第二話 始まりの名前
三日後の早朝、ヴィルヘルマは王都を発った。
供は少なかった。執事のコンラートが一人、荷馬車が二台に護衛の衛兵が四名。衛兵は公爵家ではなく王宮から差し向けられたもので、見張りなのか道案内なのかその両方なのか、おそらく本人たちにもわかっていないだろうとヴィルヘルマは思った。
馬車の窓から、出立の広場を眺めた。霧の残る石畳。見送りに来たのは公爵家の家令が一人だけだった。彼は帽子を胸に当てて深く頭を下げ、封をした書状を一通、無言でコンラートに託した。父からだった。広場には、ついに父自身の姿はなかった。
馬車が動き出してから、ヴィルヘルマはその書状を検めた。
短かった。領地経営の心得が数行。新しい家名で身を立てよ、という型通りの一文。それだけだった。詫びも弁明も、無念の一語もない。娘を辺境へ送る父の文にしては、あまりに波風がなかった。
『……お父様は、驚かれなかったのね。最後まで、ただの一度も』
断罪の沙汰が下りたとき、父は何も問わず、抗議の使者一つ立てなかった。聞かされていなかった人間の動き方では、なかった。あらかじめ知っていて、すでに肚を決めていた人間の動き方だった。王家がこれを通すと決めたとき、公爵家の側にも、それを呑むだけの何かが先に渡っていたのだろう。娘一人と引き換えに足る、何かが。
ヴィルヘルマは、書状をたたもうとした。
その指が、折り目の手前で止まった。
ほんの一拍。彼女は、もう一度だけその数行に目を落とした。
領地経営の心得。型通りの一文。詫びの一語もない、波風のない筆。
――なぜ父は心得などを書いたのか。ただ縁を切るのなら、白紙でよかった。家名を捨てよと一行あればよかった。それなのにこの人は、娘が辺境で生き延びるための手順を、わざわざ書いた。
『……お父様。これは、どちらの意味ですの』
答えは書面のどこにもなく、問うべき相手は、もう広場にもいなかった。彼女は、その問いの落としどころを初めて見つけられずにいた。常はどんな帳尻も合わせてきた。けれどこの一枚だけは、どうしても勘定が合わなかった。
向かいの席で、コンラートがその横顔を見ていた。主が書状の前で手を止めるのを、十年で初めて見た。彼は、何も言わなかった。言ってはならないと、長年の勘が告げていた。
ヴィルヘルマは、書状をたたんだ。今度は、止まらなかった。たたんで、それきり開かなかった。
恨み、とは少し違った。納得、にも遠かった。これで公爵家に未練を残す理由が書面の上からも一つ消えた――その程度のことだと、自分に言い聞かせた。言い聞かせた、という手応えだけがわずかに残った。
コンラートは――かれこれ十年来の老人で、令嬢付きの筆頭執事として几帳面に職を全うしてきた人物である――向かいの席で唇をきつく結び、膝の上の布を両手で握りしめていた。
「……申し訳ございません」
「何が?」
「もう少しわたくしにできることがあったのではないか、と……」
「あなたに防げることは、何もありませんでしたわ」
ヴィルヘルマは窓の外を見たまま答えた。嘘ではない。コンラートはこの十年、執事としての職分に落ち度ひとつなかった。その誠実さには報酬が支払われてしかるべきだと、彼女は考えていた。
『問題は、わたくしが今そこに報いられる立場にあるか、ですけれど』
いま手元に残っている財産は三つ。個人名義の貯えと、父から渡された最小限の家具。それから、名ばかりの「グレナディア領」だけだ。
王都を出て二日目の昼頃、街道沿いに駐屯地の柵が見えた。兵士が数人、門の前にたむろしている。ヴィルヘルマの目が、自然と彼らの装備をなぞった。
鎧は石英――クォーツ製。加工の粗さが遠目にも知れた。辺境警備の予算配分としては想定の範囲内だが、あの鎧では刃の一撃で砕ける。整備担当は交換時期を把握しているのか。把握していたとして、予算は下りているのか。
この国は、石の硬さで兵の格を測る。クォーツの七は、その序列の一番下だった。
馬車が通り過ぎる際、兵士の一人と目が合った。彼は気圧されたように視線を逸らした。
ヴィルヘルマは何も言わなかった。
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グレナディア領に入ったのは、王都を出て五日目の夕刻だった。
街道は細くなり、馬車が揺れた。コンラートが窓のカーテンを引こうとして、ヴィルヘルマの一瞥で思いとどまった。
荒れていた。
茂みは伸び放題、石垣は崩れかけ、少し先の農地は畦道が草に埋もれていた。村が一つあったが、軒先に灯りはなく、夕暮れだというのに人影もなかった。路傍の道標は、文字が半分消えていた。
コンラートが、喉の奥で何か言いかけてやめた。ヴィルヘルマは彼の気持ちを察したが、口にはしなかった。今は、見るべきものの方がずっと多かった。
馬車が止まった。
領主館、とされる建物の前だった。二階建ての石造り。かつては立派だったのだろう。今は窓枠が腐り、蔓が壁を這い上がり、玄関前の石段に苔が生えていた。出迎えの者は、誰もいなかった。
ヴィルヘルマは馬車を降りた。秋の夕風が、頬を撫でた。
コンラートが後に続いた。彼は何も言わなかった。言える言葉が見つからないのだと、ヴィルヘルマにはわかった。
玄関の扉を開けた。蝶番が、長く尾を引いて軋んだ。
中は暗かった。燭台はあったが、蝋燭は切れていた。埃の匂いがする。広間の床に、雨漏りの跡が黒く広がっている。窓の一枚は、内側から木板で塞がれていた。暖炉には灰が積もったままで、薪も火付け道具も見当たらない。壁には、おそらく前任者が飾っていたのだろう肖像画の跡――額縁だけが残り、中身は持ち去られていた。
『なるほど。聞きしに勝りますわね』
だが、ひどいという感想はおおむねそれだけだった。
ひどいなら、整えればいい。整えるには順序がある。順序があるなら、一番目から手をつければいい。今夜は書類を確認する。明日は水と食料、それから領民に顔を見せに行く。治安の状況も把握しなければ。使える人間が、どこに何人いるのかも。
することは、山ほどあった。
ヴィルヘルマは外套を脱ぎ、埃をかぶった椅子の背にかけた。袖をひとつ、軽くまくった。
「コンラート」
「は、はい」
「帳簿と領民台帳。前任者の書簡を一式。どこにあるか探してくださいまし」
「……今夜、でございますか」
「今夜ですわ」
コンラートは一瞬だけ絶句し、それから深く頭を下げた。十年の付き合いで、彼はよく知っていた――お嬢様がこの顔をしているとき、方針は決して変わらない。
「承知いたしました」
「それと、蝋燭も。たくさん要りますわ」
ヴィルヘルマは、薄暗い広間の中央に立ち、もう一度ゆっくりと見回した。天井の染み。軋む床。空の額縁。
『さて。どこから片づけて差し上げましょうか』
窓の外では、盆地を囲む山々が夕闇に沈もうとしていた。
いや――
ほんの一拍、彼女の視線がその山の稜線にとどまった。あの古い戦記の頁が、また脳裏をかすめた。辺境の地にだけ眠るという、奇妙な石。
『……まさか、ね』
確かめるのは、足元を整えてからだ。彼女は窓から目を戻し、もう山を見なかった。
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*次話へ続く*




