第一話 終わりの大広間
――皆、待っている。
涙か、悲鳴か。あるいは、膝から崩れ落ちる瞬間を。
待たれているのが自分だと、ヴィルヘルマ・フォン・ヴァイセンフェルスにはよくわかっていた。そして、そのどれも自分の中からは出てきそうにないことも。
『……まだ喋りますのね。口だけは、よく回る方』
微動だにせず、彼女は内心でそう思った。背筋を伸ばして両手を腰のあたりで軽く重ね、視線は斜め前の虚空へ。これは礼法でも訓練の成果でもない。ただ単に、立っていることが苦でなかっただけだ。
王宮の大広間は、静まり返っていた。正確には、静まり返っているように見えた。貴族たちは扇の影に口元を隠し、侍女たちは戦慄いている。衛兵は壁際に張りつき、それぞれの方法で息を殺していた。皆、何かを待っている。
アルブレヒト王太子が、玉座から一段下りた踊り場で、これ見よがしに声を張り上げていた。
「――これらの理由により、ヴィルヘルマ・フォン・ヴァイセンフェルスとの婚約をこの場をもって破棄する。王家との縁を断ち、公爵家より分家とし、王都からの追放を命じる。なお、分家領としてグレナディア領を与える。以上だ」
広間に、さざ波が走った。
扇の影でひそめられる声。貴族たちが互いの顔を見合わせた。一人が小声で「グレナディアとは……」と漏らし、隣の老紳士が「公爵家の捨て領地だよ。前任者が逃げ出した、あの盆地だ」と返した。
ヴィルヘルマも、事情は知っている。
グレナディア。
社交界で誰かが閑職に追われるたび「いっそグレナディアへでも」と囁かれる、その程度の土地だった。産業もなく、人も疎ら。前任者が匙を投げて、もう久しい。
要するに、これは体裁のいい厄介払いである。王都から追い出し、貴族社会から切り離す。朽ちかけた辺境に押し込めて、ヴィルヘルマ・フォン・ヴァイセンフェルスという名を、波風も立てずにこの世から消し去る。それがアルブレヒト王太子の意図だと即座に理解する程度には、彼女は賢かった。
婚約破棄そのものは、先週から予期していた。ある口添えを断って以来、王太子の態度は目に見えて冷えた。様式が大仰なだけで、結末は既定だった。
問題があるとすれば、一点――
『さて。このあと、どういたしましょうか』
泣くべきなのか。
抗議すべきなのか。
それとも膝から崩れるべきなのか。
……どれも、まるで気が進まなかった。
広間のどこかで、細い息が漏れた。王太子の隣――かつてならヴィルヘルマの立つべき場所に、薄桃色のドレスの少女が据えられている。その娘のものだろうと見当はついたが、振り返って確かめる気にはなれなかった。
アルブレヒトが、言葉を切った。
そこで、間があった。本来なら、この沈黙を令嬢の悲鳴か嘆願が埋めるはずだった。だが、ヴィルヘルマは動かなかった。眉ひとつ動かさず、視線も落とさない。宣告の前と寸分変わらぬ姿勢で、ただ立っていた。
待っても、何も来なかった。
その無音が踊り場の上の男を、明らかに落ち着かなくさせていた。
「ど、どうやら。唐突なことで事態が呑み込めていないらしい! いいか!」
彼は一度言い終えた言葉をもう一度、わざわざ繰り返した。今度は、声を少し張って。反応を引き出そうとするように。
「――以上だ。わかったか!」
最初の宣告には、なかった一言だった。広間の貴族の幾人かが、わずかに視線を交わした。扇の動きが、一拍止まった。
広間が、息を吸い込んだ。貴族たちが今こそと顔を上げた。
「左様でございますか。では、わたくしはこれにて」
ヴィルヘルマは、優雅に一礼した。
それだけ言って、踵を返した。
その背に、アルブレヒトの声が追ってきた。
「ま、待て! 話は、まだ――」
まだ終わっていない、と言いたかったらしい。だが、彼にはその続きがなかった。彼の台本では、ここで令嬢が泣き崩れて許しを乞い、自分がそれを冷たく退ける手筈だったのだろう。その場面が、丸ごとなくなってしまったのだ。彼は踊り場の上で、振り上げた手の下ろし先を失った人のように立っていた。
「な、なぜ何も言わぬのだ! 申し開きは! 弁明! ……反論するだろう、普通!!」
声が上ずっていた。糾弾する側のはずの男が、糾弾される側の沈黙に追い詰められていた。広間の貴族たちが、扇の影で、今度は別の意味で顔を見合わせ始めていた。
ヴィルヘルマは、足を止めなかった。振り返りもしなかった。
『申し開き、と申されましても。そういう台本をお書きになったのは、そちらでしょうに』
その横で、薄桃色のドレスの少女が震えていた。
コレットだった。彼女は隣のアルブレヒトの袖を、すがるように、けれど引く力もなく指先だけで掴んでいた。顔から、血の気が引いていた。
「あの……わたくし……こんなことになるなんて……聞かされて、おりませんでした……。アルブレヒト様、これはいったい、いったい…………」
声は、ほとんど言葉になっていなかった。彼女もまた、この場の筋書きを全部は知らされていなかったらしい。知らされないまま隣に立たされ、気づけば公爵令嬢を辺境へ追いやる絵の中に嵌め込まれていた。彼女は、加害者の顔ではなかった。舞台の上で自分の台詞を貰えなかった、端役の顔だ。
ヴィルヘルマは、その声を背中で聞いた。
顔だけは、知っていた。どこかの夜会で見かけたきりの、言葉を交わした記憶もない娘。その娘が、自分の代わりにあの場所へ据えられ、そして自分以上に青ざめている。――哀れだとも、ざまをみろとも思わなかった。ただ、ひとつわかったことがあった。この騒ぎを書いたのは、たった一人だ。隣で震えている娘でもなく、扇の影でざわめく貴族でもなく。踊り場の上で声を上ずらせている、あの男だけ。
『アルブレヒト様は、よろしいんですの、それで。あなたの筋書きで困っているのが、追われるわたくしではなく、隣のその方だけだなんて』
思考でそうたどりつつも、すでに彼女は意識を切り替えていた。
背後で、まだアルブレヒトが何か言っている。コレットの、途切れた謝罪が続いている。
広間の空気が、最初に意図されたものとは違う方向へ傾いていく。
振り返るまでもなくわかること。
ヴィルヘルマは扉へ続く赤い絨毯を踏み、歩き続けた。確かめる意味は、何もなかった。
侍女が一人、追いすがるように横へ並んだ。
「お嬢様……お嬢様、大丈夫でございますか……!」
「ええ、とても」
本当のことだった。
むしろ、胸の底で何かがほどけていく感覚さえあった。
社交界の作法も王太子妃の心得も、もう要らない。これからは誰の顔色も窺わずに済む。好きなものを好きなだけ、手元に置ける。
たとえば、幼い頃から人目を忍んで読み耽った、あの古い戦記の写本のような。
『グレナディア――内陸の、誰も来ない窪地でしたわね』
ヴィルヘルマの脳裏を、一冊の古書の頁がよぎった。辺境の地にだけ眠るという、忘れられた鉱脈の記述。中央の宝石とは硬さの理屈が違う、奇妙な石の話。眉唾だと、誰もが頁を飛ばした一節。
彼女だけが、その頁の角をそっと折っていた。
『……いえ。今は、よしましょう』
馬車に揺られるのは、三日後だ。今はまだ。
彼女は赤い絨毯の最後の一歩を踏み、王宮の扉をくぐった。背後の広間のざわめきが、扉の閉まる音で断ち切れた。
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*次話へ続く*




