第十五話 最高のデビュタント2
城門が、軋みながら開いた。
助けが来ると信じていなかった顔の、王都の兵が出てきた。
彼らは、平野に広がる光景を見た。
退いていく、青い大軍。 そして、その戦場のど真ん中に悠然と立つ、暗紅の戦車の列。
その先頭の、一番高い場所に、一人の女が立っていた。
城壁の上にも、人が出ていた。戦を、城壁の内側から見ていた者たちだった。宮廷の高官。装いの良い貴族たち。
かつてヴィルヘルマの断罪の場に居並び、その追放に、ただの一人も異を唱えなかった顔ぶれだった。
彼らは今、平野の中央を見ていた。
退いていく青い大軍と、その只中に無傷で立つ暗紅を、声もなく見ていた。
その中に、見覚えのある二人がいた。
一人は、王太子アルブレヒト。鎧は、ルビーの最上等だった。だが、その胸甲には白い罅が走っていた。
籠城のさなか、城壁際まで攻め寄せた敵の一撃を受けて入った罅。最上等の石はその一撃で濁り、内へ罅を伸ばしていた。
「なんだ、あれは……味方、味方なのか?」
割れこそしなかった。けれど、その罅はもう、城壁の上の誰の目にも見えていた。
彼は、城壁の上から戦場を見下ろしていた。
見下ろして――その顔から、血の気が引いていた。籠城の間じゅう、彼の声は城壁の上を飛び交っていた。
右の門を固めよ。左へ兵を回せ。声だけは、大きかった。だが、その声で退いた敵は一人もいなかった。
青を退かせたのは、平野の暗紅。
王太子の号令は、最後まで戦況のどこにも届いていなかった。
それを、城壁の上の全員が今や知っていた。高官の一人が、彼から目を逸らした。隣にいた貴族が、半歩、王太子から離れた。
誰も、声に出して彼を責めはしなかった。ただ、誰の目ももう彼を映していなかった。
視線は、城壁の内から平野の中央へ。潮の向きを変えるように、移っていた。担ぐべき価値が、王太子の側から音もなく引いていた。
アルブレヒトは、その引いていく視線の真ん中に、たった一人で立っていた。
『……あの日も』
彼の喉の奥で、声にならない声が動いた。
『あの大広間でも。この女は何も言わず――ただ、背を向けた』
取り乱すと信じて疑わなかった女が、一礼だけ残して去った、あの日の背中。
思い通りにならなかった、ただの小石。そう、思い込もうとしてきた。
その小石が今、平野いっぱいの暗紅になって戻り、彼の存在を無言で押しつぶしていた。
その隣に、薄桃色の影。コレット。彼女は城壁の縁を両手で掴んで、震えていた。
あの断罪の日の大広間が、そっくりそのまま甦っていた。何も知らされないまま、またこの光景の中に立たされていた。
ヴィルヘルマは、戦車の上から城壁を見上げた。初めて、彼女は城壁を見た。戦が、決したからだった。
それまで、彼女の視界に彼らは入っていなかった。
憎んで見なかったのでは、ない。
戦の最中に、見るべき価値がそこになかった。彼女は今も、彼らを睨んではいなかった。
戦の済んだ風景の一部として、そこに人がいると認めただけだった。風が、戦場の煙を払った。
暗紅の車体の上で、汚れた戦装束の令嬢が城壁を見上げ、ゆっくりと襟を正した。盛装の襟を正すのと、寸分変わらぬ手つきだった。
それから、彼女は口を開いた。戦場の全員に、届く声だった。
「ごきげんよう、皆様。お久しゅうございますわね」
城壁の上の誰も、声を返せなかった。
「お招きのお返事が、遅くなりまして。なにぶん、こちらも立て込んでおりましたの」
ヴィルヘルマは、ほんの少し首を傾けた。
「――けれど、こうしてお招きに預かりましたわ」
招かれてなど、いなかった。追い出されたのだ。
その皮肉を、彼女は笑顔の中に隠しもしなかった。答えは、すでに戦場の上に並んでいた。
退いていく青。砕けたサファイア。
そして、その中央に立つ暗紅。
ヴィルヘルマは、戦装束の裾を風にはためかせた。戦場の風が、その頬の煤を撫でて通った。
彼女は、目を細めた。
大広間で断罪を受けたあの日、ついぞ浮かべなかった種類の笑みだった。
「わたくし、社交界には二度と出られぬ身と思っておりましたの」
一拍。
「けれど――どうやら、見つけましたわ」
彼女は、平野を見渡した。
「わたくしの、新しい社交の場を!」
背後には、暗紅の戦列。正面には、退く敵。そして頭上には、かつて自分を追放した者たちがいる。
ヴィルヘルマは、ほんの少しだけ笑った。
「ごらんあそばせ」
声が、戦場を渡った。
「最高の――デビュタントに、なりましたわ!」
城壁の上で、アルブレヒトが一歩後ずさった。コレットが、その場に座り込んだ。
ヴィルヘルマは、もう二人を見ていなかった。
彼女の目は、また戦場へ戻っていた。
退いていく敵をどこまで追い、どこで止めるか。解放した王都を、これからどうするか。次の、為すべきことへ。彼らは、もうその視界に入っていなかった。
『――さて』
胸の内の声は、まだ笑っていた。けれど、その底はもう次の算段を始めていた。
『片づけて、差し上げましょうか。最後まで』
彼女は、傍らのハルトへ指示を一つずつ落としていった。事務のように。その合間に、彼女は城壁の方へほんの一瞬だけ目をやった。
「城壁の上に、戦えぬ者が出ておりますわ。震えて、動けずにいる者も」
「……あの中には、お嬢様を断罪の場に立たせた連中もおりますが」
「ええ」
ヴィルヘルマは、それだけ答えた。
「戦えぬ者は、戦えぬ者ですわ。それ以上でも、以下でもございません」
恨みでは、なかった。許しでも、なかった。
震えて座り込んだ薄桃色の影を、彼女はもう、罰するべき相手としても、報いるべき相手としても数えていなかった。
ただ、戦の済んだ風景の中で安全に下ろすべき頭数の一つとして、事務の帳面に書き留めた。
それきりだった。
城壁の縁を掴んで震えていたコレットは、その指示を、聞いていなかった。
――王都奪還戦、終結。
そして。
ヴィルヘルマの「社交界」への、最初の一日が終わった。




