第十四話 最高のデビュタント1
崩れた左翼の穴は、ふさがらなかった。
ふさごうとした敵兵は、いた。
だが、彼らがサファイアの盾を構えるより早く、暗紅の五台がそこを抜けた。
「盾を出せ! 左から回せ!」「間に合わん!」
割れた破片の上を、血の色の車体が踏み越えていく。後ろから、グレナディアの兵がその道を押し広げる。一度あいた穴は、軍の体重でもうふさがらなかった。
ヴィルヘルマは、その穴のさらに奥を見ていた。
敵陣の、中央やや後方。旗が密に立っている一画。伝令が、ひっきりなしに出入りしている。指揮の中心だった。彼女は、戦場に出る前からそこを見つけていた。今、そこへ最短の線が引けた。
「ハルト。両翼は、抑えるだけで結構ですわ。深追いは、無用。――本隊はわたくしと、中央を抜きますの」
「中央を……正面からか!? 敵の、一番厚いところだぞ」
「厚いのは、装甲ですわ。指揮は、薄うございますの。あれだけ伝令を走らせている陣は、頭で考えて手が追いついていない証拠。――頭を断てば、手足は止まりますわ」
ヴィルヘルマは、自軍の五台を鏃の形に組み替えさせた。
先頭は、自分の車体だった。
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暗紅の鏃が、敵中央へ突き入った。
サファイアの重装が、幾重にも立ちはだかった。最強の石の壁。それが、ガーネットチャリオットの前面に次々と取りついた。槍が、刺さる。剣が、叩きつけられる。重い、金属の悲鳴。火花。土煙。
「押せ!」「止めろ! 絶対に止めろ!」
ガーネットの装甲は、軋んだ。だが、割れなかった。
鋭い刺突は、装甲を滑った。ヴィルヘルマが図面の段階で何度も角度を寝かせた、あの面だった。硬さで止めるのではない。当たらせない。当たっても、砕けない。当たって砕けるのは――敵のサファイアの方だった。
「まただ!」「サファイアが割れる!」
「退け! こいつには効かない!」
その、はずだった。
四両目の側面に長い槍がまっすぐ刺さるのが、ヴィルヘルマの視界の端を横切った。
角度が、悪かった。サファイア装甲の重装兵が、潰されながら、最後の力で突き出した一本。寝かせた装甲面のわずかな継ぎ目に、運悪く、そこだけ真っ直ぐ入った。装甲は、砕けなかった。けれど、継ぎ目が割れた。歯車が、噛み合わなくなる音がした。四両目の車輪が、止まる。
暗紅の戦列がひと呼吸置いて、鈍った。
ヴィルヘルマは、そちらへ目を向けた。
一台が、止まっている。その光景が、考えるより先に背筋を冷やした。図面の上では、起こらないはずのことだった。
――格が落ちたのは、辺境の石ではございませんわ。
『あの槍を寝かせきれなかった、わたくしの設計のほうですわね』
胸の内で、彼女は短くそれだけ呟いた。詫びでも、悔やみでもなかった。事実を、書き留めた。ただ、その手がほんの一拍遅れた。後で、必ず手をつける。あの印と同じだった。
「ハルト! ヴィルヘルマの声が、戦場を裂いた。「四両目の周囲、囲んで! 後送! 工房までの隊を、ベルントに伝令!」
声は、低かった。戦場の指揮の声だった。
「五両を、四両に切り替えますわ。鏃の形、組み直し。三両目、左にずれて穴を埋めなさい。先頭の負担はわたくしが引き受けますわ――速度、上げますわよ!」
「しかし、先頭が――」
「わたくしが引き受ける、と申し上げましたわ!」
暗紅の戦列が、走りながら形を変えた。
五つの点で組まれていた鏃が、四つの点に組み直された。落ちた一頂点の重さを、残る四両がそれぞれ少しずつ引き受けた。先頭の負担が、増す。ヴィルヘルマの車体が、今までより前へ出る。サファイアの壁が、その分彼女の真正面に集中した。
彼女は、笑わなかった。
まだ。
五両で組んだ鏃を、四両で通せるかどうか。その先を、図面はもう保証していなかった。これは計算ではなかった。
だからこれは賭けだった。生まれて初めて、彼女は答えの見えない問いに、自分から飛び込もうとしていた。
『止まったぶんは、取り返しますわ。――通らなければ、それまで』
目だけがいっそう深く、敵の指揮中枢のその一点を捉えた。
「けれど、通しますわ!」
暗紅の鏃が速度を上げて、敵中央のさらに奥へ食い込んでいく。
止まった四両目の周囲では、ハルトの率いる元兵たちが、円陣を組んでいた。武装は粗末だった。けれど、隊伍は崩れなかった。
「来るぞ!」「囲みを崩すな!」「一歩も通すな!」
彼らは、知っていた。あの一台をここで守ることが何を意味するのか。グレナディアという土地が最初の戦で、自分たちの戦車を一台でも置いていく軍ではないことを。
青が、割れる。割れた青の中を、暗紅が進む。
「……行け、ヴィルヘルマ」
呟きは、戦場の轟音に消えた。
「こっちは、任せろ」
ヴィルヘルマは、先頭の車体の上に立ったままだった。
戦場の風が、結い上げた髪を強く後ろへ流していた。煤色の戦装束が、煙を吸って黒く汚れている。頬に、敵装甲の破片が掠めた跡があった。それでも、その背筋は伸びていた。社交界の大広間に立っていた、あの頃の所作のままだった。
『……ああ』
胸の内で、何かがせり上がってきた。
あの工房の夜、押さえたもの。荒れ野で、少しだけほどいたもの。それが、もう抑えのきかない高さまで来ていた。
『……ああ、楽しゅうございますわ』
彼女の口の端が、上がった。今度は、戻さなかった。戻す理由が、どこにもなかった。誰も見ていない場所では、ない。戦場の、ど真ん中だった。
「――ふ」
息が、漏れた。
「ふ、ふふっ。……ふふふっ」
声が、笑いの形になっていく。
茶会の席で漏れる笑いと、同じ音だった。同じ音のまま、底が抜けていた。磨き上げた銀の器に、煮え立つ湯を注いだような。
形は、何ひとつ歪んでいない。中身だけが、沸いていた。
「あは。あはは。――あはははははっ!」
戦場に、令嬢の高笑いが響いた。
砲煙の中、暗紅の戦車の上で、汚れた戦装束の令嬢が背筋を伸ばしたまま心の底から笑っていた。
『楽しい。楽しゅうございますわ。ああ、こんなに。紙の上でずっとずっと引いていた線。本の中で何百回もなぞった陣。それが今、わたくしの手の中で生きておりますの。動いておりますの。――わたくし、ずっとこれがしたかったんですわ』
「――進みますわよ! 止まってはなりませんわ! あの旗の下まで、一息ですの!」
笑いながら、彼女は指揮していた。
声は、笑みに震えていた。けれど、その指示は一つも乱れていなかった。どの隊をどこへ抜き、どこで抑えるか。笑い声の合間から、それが刃のように正確に飛んだ。
暗紅の鏃が、青の中へ突き進んだ。
先頭は、ヴィルヘルマの車体だった。サファイアの兵が、行く手に取りつく。槍を構える。届く前に、寝かせた装甲面がその穂先を滑らせた。すれ違いざま、車体の角が青い鎧をかすめる。かすめただけでサファイアが白く濁り、罅が走って砕けた。
左右へ、青が散った。
四両が扇を畳むように間を詰め、また開く。前を塞ぐ列は、触れた端から砕けていった。割れた鎧。投げ出される兵。蹴立てられた土。その全部を、血の色の塊が踏み越えてただ前へ進んだ。退こうとした者は、間に合わなかった。立ち向かった者は、もっと間に合わなかった。
笑い声が、その先頭を走っていた。
ハルトは、その姿を後方から見ていた。
彼は、長く戦場にいた男だった。そんな彼にも、こんな指揮官は初めてだった。心の底から戦を楽しんでいる。楽しみながら、一兵も無駄に死なせる気がない。その二つが、一人の中で両立していた。背筋が、寒くなった。同時に――ついて行きたい、と思った。理屈では、なかった。
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敵の指揮中枢が、見えた。
将らしき男が、馬上で何か喚いていた。崩れていく自軍に命令を飛ばそうとして、その命令が、もうどこにも届いていなかった。頭は、まだ生きていた。だが、手は止まり始めていた。
ヴィルヘルマは、その一画へ車体を正面から向けた。
笑みは、まだ口元にあった。その目だけは、笑いから取り残されていた。ただ引き金の、その先の一点を見据えていた。
「砲撃――用意、ですの!」
五台の射出機構が、低く唸った。
「――撃ち方、はじめですわ!」
暗紅の戦列から、赤い光が放たれた。
敵将を囲んでいた最後のサファイアの壁が、内から弾けて崩れた。守るもののなくなったその場所へ、暗紅の車体が雪崩れ込んだ。指揮の旗が、倒れた。喚いていた声が、止んだ。
頭が断たれ、手足が止まった。
平野を埋めていた二万の青が、潮が引くように後退を始めた。整然としていた陣形は、今度は秩序なく乱れ、散り散りに退いていった。よく訓練された軍ほど、頭を失うと止まるのが速い。二万を二万たらしめていた確信が、頭の一点から砕けていた。
王都を囲んでいた輪が、解けた。




