第十三話 血の色の戦列
行軍は、四日かかった。
ヴィルヘルマは、街道をまっすぐには進ませなかった。ベルントの遺した情報と、自分が記憶していた地勢を重ねて敵の斥候が手薄であろう線を選び、軍を北へ西へと折って動かした。速さより、見つからぬことを優先する。五台のガーネットチャリオットは、夜は装甲の魔力光を布で覆い、闇に紛れて進んだ。
夜営のたび戦車の炉は一度落とされ、また入れ直された。兵が麻袋の口を開き、赤黒い屑石を炉へ焚べる。本物の魔石なら一掴みで足りる火を、屑石は両手に山ほど要した。それでも、火は戻った。低い唸りが、車体の底からまた這い上がる。
荷車には、その屑石が袋のまま積まれていた。グレナディアの坑道で、装甲に使えぬと撥ねた石くずだ。ヴィルヘルマは夜ごと、その減り方を帳面で確かめた。都までの道のりと、引き返す分。そして、撃つ分。砲も、炉と同じ屑石を食う。一射ごとに、袋は確かに軽くなる。数字は、足りていた。最初から、足りるだけ積ませてあった。撃ち続けられるわけでは、ない。それだけは、頭の隅に置いていた。
『戦は、ぶつかる前に半分終わっておりますの。――残りの半分は、火を絶やさぬことで決まりますわ』
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三日目の、夜明け前だった。
物見が、戻ってきた。街道の先、浅瀬のある渡しに敵の一隊がいるという。
「数は」
「五十ほど。サファイアの装甲。橋の代わりに、あの渡しを押さえております。荷駄も見えました。補給の中継かと」
ヴィルヘルマは、地図の上にその渡しを置いた。迂回できる道は、なくはない。けれど、半日を失う。半日は、王都の半日だった。
『……抜けますわ。けれど、一人も逃がしてはなりません』
敵が一人でも本隊へ駆け戻れば、丘の上の奇襲はその瞬間に死ぬ。速く。そして、残らず。
「ハルト。渡しの両脇に、兵を伏せなさい。逃げ道を先に塞ぐの。戦車は、わたくしが先頭。――合図まで、火は覆ったまま」
暗紅の五台が、闇の中を音もなく這い寄った。装甲の魔力光は、布の下。屑石の炉は、最小の火で唸りだけを殺して回していた。敵は、川音の中で何も気づいていなかった。
渡しまで、二十歩。
ヴィルヘルマは、布を払わせた。
闇が、いきなり赤く灯った。
五条の赤光が、轟音と共に夜明け前の川面を裂いていく。
「な、なんだ今の――!」
残りが、得物を取る。取って、構える。
「隊列を崩すな!」「撃て! 撃てぇ!」
構えたところへ、暗紅の車体がもう乗り入れていた。
触れた装甲が、端から割れる。
「うわああっ!」「下がれ! 下がれぇ!」
「速すぎる!」「止めろ、止め――」
逃げようとした者は、伏せた兵が押し返した。
「どこへ行く! 持ち場を離れるな!」
「無理だ、あんなの相手にできるか!」
川へ走った者は、流れの速さが許さなかった。
その間にも、暗紅の車体は止まらない。
「まだ来るぞ……」
「嘘だろ!」
「誰か、援軍を呼べ!」
「もう呼んでる! 間に合わねえんだよ!」
そして、再び赤光が川面を裂いた。
長くは、かからなかった。
夜が明けきる前に、渡しは静かになった。流れだけが、変わらず鳴っていた。赤い装甲は、一片も欠けていない。
ヴィルヘルマは車上から、片づいた渡しを一度だけ見渡した。
笑っては、いなかった。これは、見せるための一撃ではない。誰の目にも触れさせず、消すための一撃だった。
『――これで、まだ誰もわたくしたちを知りませんわ』
五台はまた布を被り、闇の残る西へ進んだ。
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四日目の夕刻、軍は丘の上に出た。
その下に、王都があった。
囲まれていた。
平野を埋めるように、隣国の軍が布陣していた。数は、二万とも知れなかった。整然としていた。陣形に、緩みがない。装甲が夕日を受けて、青く光っていた。サファイア。硬度九。大陸でも上位の石だ。その青の海の真ん中に、王都の城壁が孤島のように立っていた。城門は、固く閉じられていた。城壁の上に、まばらな赤い光。ルビーの装甲の守兵だった。数が、明らかに足りていなかった。
ヴィルヘルマは、丘の上からそれを長く見ていた。
ハルトが、横に並んだ。彼の顔は、強張っていた。
「……数が、違いすぎる。向こうは二万。こちらは戦車五台と、兵が二百に足らん。まともにぶつかれば、すり潰される」
「ええ。まともにぶつかれば、ですわね」
『数で挑む戦ではございませんわ。二万を一つに束ねているのは、今日で勝てるという皆の確信。そこに罅を入れれば、二万は二万でなくなりますの』
ヴィルヘルマは、敵の陣を端から端まで目でなぞっていった。布陣の意図。補給の線。指揮の中心が、どこにあるか。そして――その整然とした陣の、どこにほころびの種があるか。
『……教科書通りですわね。よく訓練された軍ですわ。よく訓練された軍ほど、想定の外に弱うございますの』
彼女は、敵の左翼を指した。そこは、川に面していた。川があるから、攻められない。だから敵は、その方面の備えを薄くしていた。攻められないという前提が、そこにあった。
「ハルト。あの川、深さは」
「……此処からでは、わからん。だが、軍が渡るには向かんだろう。流れが、速い」
「ええ。歩兵には向きませんわね。――けれど」
ヴィルヘルマは、自軍の五台の暗紅の車体を振り返った。
「砕けない装甲には、関係のない話ですわ」
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夜が、明けた。
戦端は、敵が開いた。
包囲の一角が、動いた。王都の城門へ向けて、サファイアの装甲の重い縦隊が押し出していった。城壁の上の、まばらな赤い光が応戦の構えを取った。だが、その差は誰の目にも明らかだった。今日で、終わる。敵も城壁の上の兵も、そう思っていた。
「進め! 城門を落とせ!」
号令に合わせ、サファイアの装甲兵たちが足並みを揃える。
「もう持たんぞ、あの城は」
「昼までには片がつく。王都の連中も、ようやく諦めるだろう」
その朝の光の中に、丘の上から五つの影が現れた。
暗紅だった。
「……なんだ、あれ」
誰かが呟いた。
「旗が見えんぞ」「味方じゃない。あんな部隊、聞いてない」「では、敵か?」
朝日を受けて、その装甲が深々と赤を湛えた。ルビーの華やぎとは、違った。もっと暗く、もっと重い。熾火が灰の底で息づくような、燻んだ深紅だった。
「戦車……?」
敵兵のひとりが、息を呑む。
「たった五台だぞ」「あれは何だ」
走り出すと、車輪の下で火花が赤く散った。地を擦る音。低い、唸り。五台が、丘を駆け下りていく。
「来るぞ!」「迎撃しろ!」
「どこの部隊だ! 所属を名乗れ!」
返事はない。 敵の陣が、ざわめいた。
「あれは何だ。どこの旗だ」「聞いていない」
「伝令は? 誰か、あの五台を知っている奴はいないのか!」
誰も答えなかった。
「……まさか」
最前列の兵が、丘を見上げた。
「王都に、あんなものがいたのか?」「違う」
五つの暗紅が、まっすぐこちらへ向かってくる。
隣の兵が、掠れた声で言った。
「いたんじゃない。――今、来たんだ」
ヴィルヘルマは、先頭の車体の上に立っていた。
戦場の風が、彼女の頬を強く打った。彼女は、敵の左翼――川に面した、備えの薄いその一点だけを見ていた。視界に、城壁はなかった。城壁の上の人影も、なかった。彼女の目には、ただ突くべき一点だけがあった。
『――目標、敵左翼。川を背にした、あの薄いところですわ』
五台が、扇のように展開する。隊伍は、ほどけない。鍛冶場で紙の上で数十日組み替え続けたあの線が、今、土と火の上を走っている。
声を、放った。
穏やかで、けれど戦場の轟きを貫いて届く声だった。
「砲撃――用意、ですの!」
射出機構が、一斉に低く唸りを上げた。
ヴィルヘルマの指が、引き金にかかる。彼女の目が、敵装甲の青を捉える。サファイア。硬度九。砦を、橋を抜いてきた石。誰もが最強だと信じてきた石。
『硬い石ほど、よく割れる』
「――撃ち方、はじめですの!」
五条の赤い光が、朝の空気を裂いた。
青い装甲が、白く濁った。
「……なに?」
的のルビーと、同じ兆候だった。だが、こちらは厚い。一枚板の的が砂利になって散ったのとは、違った。重装のサファイアは、罅を大きな板のまま走らせ、軋みを上げて塊のまま剝がれ落ちた。
「サファイアが……」「馬鹿な! あれは重装だぞ」
「下がれ! 接触するな!」
最強と謳われた石が、その厚みの分だけ重たく、自分の硬さに裂かれて崩れていく。
「押し返せ! 数で押せ!」
敵の左翼が、崩れた。
「左翼、穴が開いたぞ!」「塞げ! 何をしている、塞げ!」
崩れた穴へ、五台の暗紅が突き込んでいく。
「来るぞ!」
サファイアの装甲が、行く手を阻もうとする。
「止めろ! 止めろおおっ!」
阻もうとして、触れた瞬間に割れる。
「……え?」
だが、ガーネットチャリオットの暗紅は――一片も欠けない。
「嘘だろ……」「サファイアが……触れただけで……」
罅も、入らない。
砕けた青の海を、血の色の塊がただまっすぐに貫いて進んでいく。
「逃げろ!」「隊列を捨てるな!」
「無理だ! あれは止められない!」
誰かの叫びを踏み潰すように、五台の車輪が青い破片を轢き砕いた。
敵も、ただ崩れたのではなかった。左翼が裂かれるのを見て取るや、中央のサファイアの一隊が、即座に向きを変えた。あいた穴を、横から塞ぎにかかる。淀みのない、正しい判断だった。歴戦の軍の動きだった。
――けれど、遅かった。
その一隊が穴へたどり着いたときには、五台の鏃は、もう抜けきっていた。ヴィルヘルマが、その横槍をはじめから線に織り込んでいたからだ。塞ぎに出たサファイアは、塞ぐべき穴がどこにもないことに気づき、虚しく速度を緩めた。
城壁の上で、誰かが叫んでいた。
「ガーネットだと……! あんな辺境の、格落ちの石で――なぜ砕けない……!」
その声は、ヴィルヘルマには届いていなかった。
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その声は、隣国の将ディートハルトにも届いていなかった。彼には、自分の耳の中で鳴る別の音しか聞こえていなかった。
「将軍! 左翼が持ちません!」「下げろ! いったん距離を――」
怒号が飛び交っている。だが、意味を成さなかった。
ディートハルトは、サファイアの軍を率いて砦と橋を抜き、ここまで来た男だった。彼の生涯で、青い装甲が割れたことはなかった。硬度九。大陸最上位の石。それが最強の証だと、彼は半生をかけて信じてきた。
その信が今、目の前で砂のように崩れていた。
「なんだ、あれは……」
「ガーネットだ。あんなもの、装甲に使えるわけがない」
「なのに、なぜ……!」
暗紅の戦車が、彼の左翼を紙のように裂いていた。サファイアの壁が、取りつくそばから割れる。割れた味方の上を、血の色の塊が速度を落とさずに踏み越えていく。
あり得なかった。
格下の石だ。辺境で採れる、二束三文の石。彼の知識のすべてが、あれは砕けるべきだと叫んでいた。
砕けて、いなかった。
「将軍! 命令を!」
誰かがすぐそばで叫んだ。
「将軍、聞こえていますか!」
ディートハルトは答えなかった。彼は、その戦車の先頭にくぎ付けだった。
女が、立っていた。
戦装束は、煤に汚れていた。頬に、傷の掠めた跡。だが、背筋が異様なほどまっすぐだった。
戦場の人間の立ち方では、なかった。
もっと整った場所の立ち方。宮廷の大広間の、立ち方だった。
その女が、笑っていた。
「……笑っている?」
ディートハルトの口から、知らず声が漏れた。
彼には、その笑いの声までは届かなかった。だが、口の形と肩の揺れでわかった。
あれは、追い詰められた人間の引き攣った笑いではない。
心の底から楽しんでいる笑いだった。
砲煙の中で。割れた味方の上で。死の真ん中で。あの女は、笑っていた。
「化け物だ……」
後ろで、誰かが呟いた。
ディートハルトは戦場に出る前、聞いていた情報を思い出した。
グレナディア。 辺境の捨て領地。
そこを治めるのは、王都を追放された元公爵令嬢だと。社交界の華だった女が、僻地へ流された。
その程度の余談だった。
誰も、気に留めていなかった。彼自身も。
――だが。目の前にいる女を見て、ディートハルトは初めて思った。
これは、追放された女の顔ではない。帰ってきた者の顔だ。
『……社交界の、薔薇だと』
ディートハルトの喉が、鳴った。
『あれが。あの、薔薇が。――咲く場所を、変えやがった』
温室の花が、いつのまにか戦場のただ中で根を張っていた。それも、誰より深く。彼の半生の信を、その細い手一本でへし折りながら。
それでも、ディートハルトの戦人の頭はまだ動いていた。裂かれた左翼は、捨てる。中央を厚く寄せ、突破口ごと暗紅を呑み込む。――この局面の、最善手だった。彼の口は、正しくその命令を形にしようとした。
「……後退」
彼の口から、出るはずのなかった言葉が漏れた。
「左翼、後退! 中央、陣を――」
言いかけて、彼は悟った。遅い。あの暗紅は、もう彼の言葉が届く速さを超えている。陣を立て直す時間を、あの女は与える気がない。最初から。丘の上で薄いところを見抜かれた、あの瞬間から。
ディートハルトは、馬上で奥歯を噛んだ。
長く戦ってきた。負けたことも、あった。だが、こんな負け方は初めてだった。石の優劣でも、兵の数でもない。もっと根の深いところで負けていた。価値がないと切り捨てていたものに。
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ヴィルヘルマは、振り返らなかった。城壁を見なかった。彼女の目は、もう次の一点へ動いていた。崩れた左翼の、その奥。敵の指揮の中心。そこへ最短で届く線を、彼女はすでに引いていた。
『……まだ、ですわ。ここからが本番でしてよ』
その呟きは静かだった。けれど腹から込み上げる灼熱が、声の底に確かに含まれていた。
暗紅の戦列が、青い海を割って進んでいった。朝の光の中で、その色はいっそう深く赤かった。
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*次話へ続く*




