第十六話 初陣を終えて
戦が、終わった。
隣国の軍は、指揮を失ったまま国境の向こうへ退いた。追撃はしなかった。ヴィルヘルマが止めた。深追いは、新たな戦を呼ぶ。彼女が欲しかったのは、勝利ではなく戦の終わりだった。退く敵を、退くにまかせた。それで十分だった。
王都の城門は、開いたままになった。
囲みの解けた都へ、グレナディアの輜重が食料を運び入れた。傷ついた王都の兵を、グレナディアの手当ての列が引き受けた。数十日前、辺境の村で組み上げた段取り。それが、今度は王国の都で同じように回った。やり方は、何も変わらなかった。変わったのは、やはり規模だけだった。
ヴィルヘルマは、その差配の中心にいた。
王都の貴族が、何人も彼女のもとへ来た。
礼を述べる者。地位の返上を申し出る者。あの断罪は誤りだったと、今になって言い募る者。
「此度のご助力、王都を代表して――」
「ええ」
「どうか、以前のことは、あれは陛下もお心を――」
「ええ」
「もし許されるのであれば、我が家としては今後――」
「結構ですわ」
彼女は、その全員に同じ顔で応じた。穏やかで隙がなく、温度の動かない顔。詫びは聞いた。聞いて、それ以上のことはしなかった。過ぎたことの精算に時間を割く気は、彼女にはない。為すべきことが、まだ目の前に積まれていた。
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王都が、論功の席を設けた。
断罪のときと同じ大広間だった。同じ高い天井。同じ磨かれた床。同じ顔ぶれの貴族が、壁際に並んでいた。違うのは、中央に立つヴィルヘルマを見る目だけだった。一年前、彼女の追放にただの一人も異を唱えなかった人々が、今は彼女の一言ごとに息を呑んでいた。
その装いは、戦装束ではなかった。かといって、舞踏会の盛装でもなかった。深い柘榴石色の生地が、肩から裾へ一本の線で落ちている。遠目には、ドレス。けれど袖は細く詰められ、腰には飾りではない帯が回り、肩からは長いマントが背へ流れていた。戦場の装束の裁ちを、そのまま気品へ仕立て直したような姿だった。胸元の宝石は、ひとつだけ。小さな、深紅の柘榴石。前線で車体を染めていたあの色を、彼女はそのまま正装に持ち込んでいた。
王の名代が、褒賞の目録を読み上げた。
金貨で、何千枚。王都に近い、肥えた荘園がひとつ。宝飾の数々。爵位の格上げ。読み上げる声は、長かった。それだけ並べれば、たいていの人間は満たされる。並べた側も、それで足りると踏んでいた。これだけのものを積めば辺境帰りの令嬢はもう何も言うまい、と。
「以上が、此度の戦功に対する陛下からの褒賞となります。グレナディアの再興についても、王家としてできる限りの――」
ヴィルヘルマは、目録を最後まで聞いた。
「ご丁重に、痛み入りますわ」
彼女は、ひとつ礼をした。盛装のときと寸分変わらぬ、美しい礼だった。
「金貨も荘園も、たいそう魅力的ですこと。ありがたく頂戴いたします。――その上で、ひとつだけお願いを足してもよろしくて?」
名代が、わずかに身構えた。これだけ積んだ上にまだ何を、という顔だった。
ヴィルヘルマは、広間を見渡した。誰もがこちらを見ている。
「西の辺境。グレナディアから北へ連なる、あの捨て地の数々。どこも瘦せて、税も上がらず王都の帳簿では厄介の種でございましょう。――あの一帯の地下を検め、掘り、開く。その監督の権を、わたくしにいただけるかしら」
広間が、少しざわめいた。拍子抜けした、というざわめきだった。
よりにもよって、何も出ない瘦せ地の地面の下。名代は、気の毒なものを見る目になりかけた。それから、すぐに表情を改めた。むしろ、安いと踏んだのだ。これ以上の金貨や荘園は王家の身を削る。だが、誰も欲しがらぬ捨て地の地下など、紙の上で権利を一筆書くだけで済む。
「……それは、無論。陛下も、お喜びになりましょう」
名代の声には、隠しきれない安堵があった。ヴィルヘルマは、もう一度美しく礼をした。
『ええ。お喜びになって、結構ですわ』
胸の内の声だけが、別の温度をしていた。
『あの捨て地の下に何が眠っているか、ご存じないのは、そちらですもの。――グレナディアの赤い種が、あの山ひとつで終わると、どうしてお思いになるのかしら』
彼女は、誰も価値を見ない地面を、王家自身の刻印で自分のものにした。金貨は使えば減る。荘園は一代で割れる。だが、地下に眠る種はこれから掘るたびに増えていく。一年前、この同じ広間で何も持たずに追い出された手が、今は王国の地下の一帯を握り込んでいた。
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王太子アルブレヒトは、ヴィルヘルマの前に一度だけ出てきた。
城の、人払いをした一室でだった。
「ヴィルヘルマ」
彼が、その名を呼んだ。一年前、断罪の宣告を下したのと同じ声だった。けれど今は、語尾がわずかに揺れていた。
「私は……あのときのことを、ずっと」
「物資の件から、よろしいかしら」
彼女は、続きを待たなかった。詫びなのか、弁明なのか、取り引きの申し出なのか。ほかのものとは違い、最後まで聞かなかった。
「グレナディアから王都へ回す食料を、月ごとに取り決めておきたいの。傷病兵の引き継ぎは、この名簿で。国境は、当面この線で抑えますわ。――よろしくて?」
アルブレヒトは、口を開きかけた。だが、並べられた用件のどこにも、用意してきた言葉を差し込む隙はなかった。彼は、頷くしかなかった。
「それから、ひとつ」
彼女は、一枚の書面を卓に置いた。
「グレナディアが負っておりました、前借り。三年先までの収穫を、抵当に。――たどってみましたの。債権者は、王家でしたわ」
アルブレヒトの顔が、強張った。
「王都を救った領地から、その王都が収穫を取り立てる。帳尻の合わない話でしょう? ですから、この一行は消しておきましたわ。わたくしの一存で」
咎める声では、なかった。片づいた帳簿の一行を読み上げるように、彼女はそれを言った。それが、何より彼にこたえた。彼が身構えていた怒りも軽蔑も、彼女はひとつも向けてこない。向けるほどの相手だと、思われていなかった。
「礼を……いや、せめて詫びを」
「いりませんわ。実務ですもの」
彼女が、書面を揃え始めた。話は済んだ、という手つきだ。それを見て、アルブレヒトの中で何かが切れた。
「待ってくれ! あのときはの事は……そう! コレットだ。あの女が、君のことをあれこれ吹き込んだのだ!私は、ただ……」
窮地の王太子が最後に差し出したのは、別の女の名だった。断罪の日、彼の隣に立っていた女。何も知らされぬまま、彼に使われた女。彼は今、その同じ女を自分の言い訳の盾にしようとしていた。
ヴィルヘルマは、初めて手を止めた。そして、彼を見た。憐れみではなかった。蔑みでもなかった。珍しいものを確かめるような、短い一瞥だった。
「あなたという方は、追い詰められると隣に立つ方を差し出すのね」
責める声ではなかった。一つの事実を書き留めるだけの声だった。
「覚えておきますわ。――いいえ。覚えておく値打ちも、ございませんわね」
アルブレヒトは、それきり声を失った。
彼にとって彼女は、生涯の一点であり続けた。
彼女にとって彼は、もう数ある事務の宛先の一つだった。アルブレヒトはその取り決めの間、一度も彼女と目を合わせられなかった。
話が済むと、ヴィルヘルマは立ち上がった。
「では、これにて。書面は追って」
それは、あの大広間で彼女が最後に残した言葉と、よく似た形をしていた。違うのは今、退室の扉へ向かうのが彼女の方だということだった。今度も、彼女は後ろを見なかった。
扉の外に人影があった。
薄桃色のドレス。コレットだ。廊下の壁ぎわで、両手を胸の前で握りしめて、ヴィルヘルマを待っていた。あの断罪の日も戦の日も、ずっと誰かの隣で震えていた女。それが今、一人でそこに立っていた。
ヴィルヘルマが通り過ぎようとすると、コレットが、思い切ったように一歩前へ出た。
「あ、あの……!」
声が、裏返った。それでも、引っ込めなかった。
「わたし……わたしも、強くなります。あなたみたいに。誰かに守ってもらうんじゃなくて……自分の足で、立てるように」
言い終えて、コレットは耳まで赤くなった。場違いなことを言ったと思ったのだろう。俯きかけた。
ヴィルヘルマは、足を止めた。そして、その怯えた目をまっすぐに見た。さっき王太子に向けた一瞥とは、別の温度だった。
「『あなたみたいに』は、おやめなさい」
コレットの肩が、びくりと跳ねた。
「あなたは、わたくしにはなれませんわ。わたくしも、あなたにはなれません。――でも」
彼女は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「自分の足で立ちたい、と。たった今、ご自分の口でおっしゃった。――新しい道は、もう始まりましたわ」
それだけ言って、ヴィルヘルマは歩き出した。
コレットは、その背を見送った。今度は、震えていなかった。
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グレナディアへ帰る道は、晴れていた。
来たときと、同じ五台のガーネットチャリオット。だが、隊列は来たときより長くなっていた。王都で、グレナディアへ移ることを望んだ民が、列の後ろに加わっていた。捨て領地と呼ばれた土地へ、自ら進んで向かう人間の列が、街道を西へ伸びていた。
ヴィルヘルマは、先頭の車体の上からその帰路を見ていた。
コンラートが、車体の脇に控えていた。彼は戦の間、一度もお嬢様の半歩後ろを離れなかった。
「ヘルマ様」
砕けた近い距離だった。彼は、その名を許された場でだけ使う。
「公爵様の書状のことで、ございますが」
ヴィルヘルマの指が、わずかに止まった。
父の書状。あの、波風のない型通りの数行。出立の朝、家令が無言でコンラートに託したもの。
「コンラート。お父様は、わたくしが断罪されると知っていらしたわね。事前に」
「……手前には、なんとも」
「いいえ。知っていらしたのよ。あの書状は、何も知らずに娘を送り出す父の文ではございませんでしたわ。波風が、なさすぎましたの。――驚いていない人間の、筆跡でしたわ」
ヴィルヘルマは西の、まだ遠いグレナディアの山の方角を見た。
『……お父様は、わたくしを捨てたのかしら。それとも』
その先を、彼女はまだ言葉にしなかった。答えの形が、胸の中で半分しかできていなかった。捨てられたと思えば、それで済む話だった。けれど、捨てられた土地がこれだけのものを生んだ。その符合が偶然なのか、それとも――誰かの計算だったのか。それを確かめるには、まだ時が足りなかった。
彼女は、その問いを胸の奥に仕舞った。仕舞って、印をつけた。後で必ず手をつける、という印。村の帳簿に、地下牢の名にそうしてきたのと同じやり方だった。
「コンラート。グレナディアに戻りましたら、お父様に書状を一通。短く、結構ですわ」
「なんと、お書きに」
ヴィルヘルマは、少し考えた。
「『種は、芽吹きました』。――それだけで伝わる方なら、伝わりますわ。伝わらない方なら、それまでのこと」
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その日の夕刻、隊列はグレナディアの盆地を見下ろす丘に出た。
眼下に、村があった。
出るときよりも、灯りが多かった。残った者たちが、増えた人数のために新しい家を建て、新しい畑を起こしていた。煙が、いくつも立っていた。生きている土地の、煙。誰にも見向きされなかった盆地は、もうどこにもなかった。
ヴィルヘルマは、その光景を長く見ていた。
ハルトが、横に並んだ。彼は、何も言わなかった。ゴットフリートが、反対側に立った。彼も、何も言わなかった。言葉は、ここで必要ではなかった。三人は、ただ灯りの増えた盆地を見ていた。
『……ずいぶん遠くまで、来ましたわね』
胸の内の声は、静かだった。高笑いの熱は、もう引いていた。残っていたのは、もっと低くて温かい何かだった。
彼女は、丘を下りる合図を出した。
五台の暗紅の車体が、夕日を受けて深く赤く灯った。その後ろに、長い人の列。盆地の村から、それを見つけた誰かが声を上げた。声は、すぐにいくつにも増えた。
迎える灯りと帰る隊列が、夕暮れの盆地で近づいていった。
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こうして、断罪された公爵令嬢ヴィルヘルマ・フォン・グレナディアの、最初の戦は終わった。
晴れの舞台を踏むことのなかった令嬢が、戦場で世界に自らを披露した。
――この日、令嬢は初陣を迎えた。
もっとも。
彼女自身に言わせれば、これはまだほんの始まりに過ぎなかった。
胸の奥に仕舞った、父への問い。隣国が、退いただけで滅んではいない事実。グレナディアの鉱脈が、まだ底を見せていないこと。為すべきことは、灯りの増えた盆地のその先に、いくらでも積まれていた。
ヴィルヘルマは、暗紅の戦車の上で軽く息を吸った。
『さて』
その声は穏やかで、けれど底の方に次の戦の熱をもう灯していた。
『――まだまだ、忙しくなりますわよ』
暗紅の戦車が、灯りの盆地へゆっくりと下りていった。
夕日が、その装甲を底光りするような深紅に染め上げていた。陽が傾くほどに、その色は誇らしげなほど濃くなっていった。
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《第一部 完》




