第八話:神使いの目覚めと、三つ目の尾
ミシミシと重苦しい音を立て、二つの断崖絶壁が作り出す狭い岩盤が巨猪の胴体をがっしりと咥え込んでいた。
山をも砕く圧倒的な突進の勢いそのままに、自らV字型の狭窄地帯へ深く突っ込んだ『剛鋼の巨猪』。
四本の太い脚は地を離れて宙に浮き、どれほど筋肉をうねらせようと、体重を乗せて踏ん張るための「足場」が存在しない。両脇の岩盤は山そのものの基盤であり、身捩りすればするほど自らの質量によって深く挟み込まれ、身動きが取れなくなっていく。
「ふふん、どうじゃ? 心地よい挟まり具合であろう」
岩の隙間のすぐ先で、小狐は泥のついた前足で鼻を擦りながら、二本の尾を優雅に揺らした。
『ゴ……ッ!? グオ……アアアアッ……!!』
巨猪は真っ赤に狂い咲いた瞳で狐を睨みつけ、口から出た二本の巨大なキバを鳴らして抵抗を試みた。
首を振り、岩を砕こうと暴れるが、頭部すら岩肌に硬く押し付けられており、可動域はほんの数センチしかない。どれほど鋼鉄のごとき毛皮を誇ろうと、どれほど凄まじい怪力を秘めていようと、体を支える支点を奪われればただの「動けない巨大な肉の塊」だった。
「無駄じゃ無駄じゃ。お前のその自慢の力も、踏ん張る足がなければただの飾り。傷ひとつつけずに捕まえてみせよという神様の無茶振りじゃったが……フハハ! 見事な生捕り完了じゃな!」
狐は腰に手を当て(狐なので前足を脇腹に添え)、胸を張って高笑いを決めた。
刀も魔法も弾き返す絶望的な怪異を前に、正面突破を完全に捨て、相手の突進力と「奈落の幻影」による恐怖を利用して自滅的な捕縛へと誘導したのだ。
狂暴に荒れ狂っていた巨猪は、やがて悟ったように暴れるのをやめた。
はあ、はあ、と鼻から荒い蒸気を吐き出しながら、じっと狐を見つめる。その真っ赤に染まっていた瞳から、徐々に血走った狂気が引き引いていくのが目に見えて分かった。
『……ぬ……』
地鳴りのような重低音が、今度は叫び声ではなく、小さく低い呟きとなって漏れた。
『我が……暴走を……止めた……か……』
「む……? 言葉を喋れるのか、お前」
狐が驚いて耳をピクつかせると、巨猪の全身を覆っていた鋼鉄の毛皮が、静かに波打ち始めた。
カキン、カキンと硬質な音を立てていた針のごとき毛皮が、次第に柔らかく、しなやかな毛並みへと戻っていく。濁っていた赤目は、澄み渡った澄んだ深い瑠璃色へと変わり、醸し出していた禍々しい気配が消え去った。
山に満ちていた荒々しい霊気を暴食し、正気を失って狂乱の渦の中にいた巨猪は、狐の放った「死(奈落)の恐怖」と「絶対的な身動きの封殺」という衝撃によって、正気を取り戻したのだ。
『我は……神域を守護すべき聖獣……『鋼角猪』……。霊気の毒に奔り、神域と人間の里を害しておったか……』
巨猪は深い溜め息とともに、静かに目を閉じた。
『小狐よ。我を傷つけることなく、その知恵と術をもって狂気から救い出してくれたこと、深く感謝する。我が敗北だ……そなたの勝利である』
「へ……へへん! 分かれば良いのじゃ! わしはただの狐ではないからのう!」
狐は強がりを言ってみせたが、心の底では冷や汗が止まらなかった。もしあのまま狂気が収まらず、強引に岩盤を爆破して出てこられていたら、次の一手など残されていなかったからだ。
その時である。
頭上の空から、暖かな光の粒子がしとしとと降り注いできた。
頭上を見上げれば、そこには後光を背負い、木々の上に立つ神の姿があった。その顔には、いつもの冷徹な蔑みではなく、どこか心底愉快そうな笑みが浮かんでいた。
『見事だ、小狐よ。まさか『落とし穴の幻』で足をすくませ、自慢の突進力をそのまま捕縛の力に利用するとはな。一滴の血も流させず、傷一つつけずに聖獣を正気へと戻してみせた』
「神様! 見たか! わしの化け術と知略にかかれば、どんな猪武者も形無しじゃ!」
『フフ……よく口の減らない奴だ。だが、約束は約束だ』
神が優雅に指先を鳴らす。
サァァァ……ッ!
神聖な光の束が空中から降り注ぎ、狭い岩の隙間に挟まれていた巨猪を優しく包み込んだ。
すると、決して抜けるはずのなかった岩の締め付けがスッと緩み、巨猪の体が光とともに滑らかに外へと押し出された。地面に着地した巨猪は、もはや荒ぶる怪異ではなく、神々しい光を纏った神の使いそのものの気品を漂わせていた。
巨猪は狐に向かって深々と巨大な頭を下げた。
『恩に着る、大妖怪の雛よ。我は再び神域の守り手として任に就こう。そなたの旅に、神域の加護があらんことを』
巨猪が踵を返し、深山の奥へと姿を消していく。
その背中は、最初に出会った時の絶望的な破壊者ではなく、山を守る威厳に満ち溢れていた。
そして——変化の時は、狐の体にも訪れた。
ドクンッ!!
背中の根元から、第一の試練を越えた時以上の、強烈で濃密な妖力の奔流が突き上げてきた。
「あぐっ……!? きた、きたきたきた……ッ!」
狐はその場に倒れ込み、背中を丸めた。
骨が軋み、肉が熱を帯び、細胞の隅々までが書き換えられていくような感覚。背中の皮がメリメリと音を立てて弾け、二本の尾のすぐ隣から、圧倒的な密度を持ったエネルギーが溢れ出す。
ポンッ!!
快い、可憐でいて力強い音が山々に響き渡った。
生えてきたのは、これまでの二本よりもさらに長く、毛先が透き通るような銀色の輝きを放つ【3本目の尾】。
ゆらり、ゆらりと、三本の尾が意志を持つかのように優美に空気の波を捉えて揺れた。
「うおぉぉ……! 尾が……尾が三本になったぞ……!」
狐は躍り上がった。
体内に満ちる妖力は、二本目の時とは比べものにならないほど濃密で、繊細だった。
試しに、狐は前足を一振りしてみた。
ドロンっ!
軽い感覚で術を発動した瞬間、狐の目の前に出現したのは——ひとつの「村」だった。
「な……なんじゃこれは……!?」
狐自身が驚愕して声を上げた。
目の前に広がったのは、かつて見せていたようなペラペラとした煙の誤魔化しではない。家々の木目、屋根に生えた苔の湿り気、煙突から上がる煙の匂い、風にそよぐ洗濯物の揺れ、果ては道端に転がる小石の質感に至るまで——触れられそうほど圧倒的な「リアルさ」を持った立体的な幻界だった。
目を凝らしても、五感を研ぎ澄ませても、それが化け術による幻影だとは到底見破れない。
ただの視覚騙しから、「世界そのものを偽装する」領域へと、狐の幻術が進化を遂げたのだ。
「す、凄まじい……! わしの幻術が……ここまでリアルになるとは……!」
狐は己の三本の尾を抱きしめ、歓喜のあまり地面をゴロゴロと転がり回った。
これほどの精度があれば、もはやただの人間や並の妖怪など、一生幻影の中に閉じ込めることすら容易いだろう。
『満足したか、小狐』
神の声が、戯れる狐の頭上から降ってくる。
「満足も大満足じゃ! どうじゃ神様、わしはもうただのショボい狐ではないぞ! 尾が三本もある大妖怪への一歩を踏み出したんじゃ!」
『フッ……相変わらず調子に乗るのが早い奴だ。だが、覚醒を喜ぶのもそこまでにしてもらうぞ』
神の言葉とともに、周囲の美しい神域の風景が、薄紙を剥がすようにサラサラと崩れ始めた。
光の粒子が空中へ散り、次なる試練の地への空間歪曲が始まる。
「ぬおっ!? またこれか! 少しは休ませろ神様——!」
『次は前半戦の最後、第三の試練だ』
神の声が、嵐の暴風音にかき消されそうになりながら重く響く。
『舞台は遥か上空。100年の間、絶え間なく嵐を纏い、地上へ鉄の羽を降らせて村々を恐怖に陥れる『雷雲の怪鳥』だ。……空を飛べぬ貴様が、雲の上の化け物をどう撃ち落とすか、楽しみにしているぞ』
「か……『怪鳥』じゃと!? わしはまだ飛べんぞ! 雲の上にいる奴をどうやって打つというんじゃぁぁぁぁっ!?」
狐の叫び声は、突如として耳を刺した凄まじい雷鳴と、激しい暴風の音の中に呑み込まれていった。
空が割れ、黒雲が渦巻く極悪な嵐の世界へ。
背中に三本の尾を輝かせた化け狐は、さらなる高みを目指し、次なる苛烈な試練へと足を踏み入れていくのだった。




