第七話:幻の深淵と、待ち受ける狭間
ズドドドドドドドドッ!!
大地を砕く激しい咆哮とともに、漆黒の巨躯が再び加速する。
先ほどの生半可な罠など何一つ効果はなかった。千切れた太いつる縄が、粉々になった丸太の破片が、巨猪の突進の勢いに乗って矢のように飛び交う。
「ヒっ……!? 来おった……!」
眼前まで迫る、小山のような鋼鉄の塊。
圧倒的な質量と重力。まともに喰らえば、一瞬で骨も残さず擦り潰される。
(考えるんじゃ……考えろわし……! 物理的な罠が壊されるなら、奴の力を直接受け止めるのは間違いじゃ! 『力』で勝てぬなら……わしが得意なのは何じゃ!?)
死の直前、狐の頭の中で思考が何千回と高速回転する。
第一の試練で大蛇を自滅させたあの瞬間が、脳裏に強く蘇る。
そうだ。自分は戦士ではない。力比べの横綱でもない。
相手の肉体がどれほど強固で、どれほど理不尽な怪力を誇ろうとも——奴らの「心」や「脳」までは、鋼鉄でできているわけではないのだ!
(あの猪の弱点は何じゃ? 一直線にしか走れぬ圧倒的な突進力……そして、自分の力への絶対的な過信! ならば……!)
突進の風圧が狐の毛皮を激しく押し潰し、巨大な二本のキバが目前にまで迫った、その一瞬。
「化かされて……飛び込めッ!! ドロンッ!!」
狐は両前足を泥に叩きつけ、体内を巡る強力な妖力を一気に爆発させた。
背中から生えた【二本目の尾】が激しく発光し、莫大な幻術の波動が周囲の空間へと解き放たれる。
直後、世界が一変した。
巨猪の視界の先——狐が立っていたその足元から、突如として大地が激しく崩落を始めたのだ!
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
現れたのは、底などどこにも見えない「暗黒の巨大な落とし穴」。
直径数キロはあろうかというその大穴の底からは、どろどろとした地獄のマグマと、おぞましい亡者たちの叫び声が立ち上っている。足を一歩でも踏み入れれば、二度と這い上がれず永遠の奈落へと落ちていく——そんな絶望的な「幻覚」が、視界の全てを覆い尽くした。
『ゴ……!?』
突進していた巨猪の真っ赤な瞳が、恐怖で極限まで見開かれた。
いくら鋼鉄の毛皮を持ち、刀も魔法も弾き返す巨猪とて、命ある生き物だ。「底のない奈落へ落ちる」という本能的な死の恐怖には抗えない。
目の前に突如として出現した地獄の深淵に対し、巨猪の脳はパニックを起こした。
グググググググッ——ッ!!
凄まじい摩擦音が山中に響き渡る。
巨猪は全身の筋肉を硬直させ、四本の太い脚を地面に深く突き立てて、死に物狂いの急ブレーキをかけた!
ドガガガガガッ!
勢いを殺しきれない巨大な体が、土煙と岩くずを派手に跳ね飛ばしながら地面を削り取っていく。
鼻先が「幻の落とし穴」のギリギリ手前——ほんの数センチの位置で、巨猪の巨体は間一髪、奇跡的に停車した。
『フシューっ……フシューっ……!』
巨猪は荒い息を吐き出しながら、ガクガクと四本の脚を激しく震わせていた。
命拾いしたという圧倒的な安堵感。そして、一歩間違えれば奈落へ落ちていたという極限の恐怖。
全身の毛皮を逆立て、あまりの恐怖に足がすくみ、ピクリとも身動きが取れなくなっている。その自慢の怪力も、完全に金縛りに遭ったかのように封じられていた。
——勝機!
岩陰に隠れていた狐の目が、鋭く光った。
(かかったぞ……! どれほど力があろうと、恐怖には勝てん! この瞬間を待っておったんじゃ!)
狐は影から音もなく飛び出すと、すくみ上がった巨猪の鼻先へと姿を現した。
「おい、そこのブタ!」
『ギ……ッ!?』
狐の声に驚き、巨猪が濁った目を向ける。
「そんな穴に怯えてどうする? ほーら、わしはここにおるぞ! 悔しかったら追ってきてみよ!」
狐は二本の尾をフリフリと振り、お尻を叩いて煽り立てた。
そして、そのまま振り返ると、巨猪の「背後」に向かって一目散に駆け出したのだ。
『ゴ……ゴアアアアアッ!!!』
嘲笑された侮辱と、恐怖を塗りつぶす激怒。
巨猪の頭に血が上った。「幻の穴」の恐怖を一瞬だけ忘れた巨猪は、振り向きざまに再び前足を蹴り立て、逃げる狐の後ろ姿を目がけて突進を開始した!
ズドドドドドドッ!!
再び始まる狂乱の爆走。
だが、前方に幻を見せられて恐怖した直後の猪に、冷静な判断力など残されてはいなかった。ただ目の前をチョロチョロと走る不快な狐を潰すことしか頭にない。
狐は二本目の尾によって強化された脚力をフルに使い、山道を疾走した。
目指すは、この深山の奥深く——大昔の地変によって出来上がった「ある地形」だ。
(来るが良い……! わしの描いた筋書き通りにな!)
木々の間をすり抜け、狐が飛び込んだのは、二つの巨大な断崖絶壁に挟まれた極小の渓谷だった。
両脇は切り立った鋼のように硬い岩盤。そしてその奥は、徐々に幅が狭まり、V字型にすぼまっている「狭い岩の隙間」となっている。
狐の小さな体なら、ひらりと通り抜けられる隙間。
しかし——小山ほどもあるあの巨猪の巨体では、絶対に通り抜けられない狭窄地帯だ。
「ここじゃ……っ!」
狐はV字の岩の隙間をスルスルと通り抜け、岩の向こう側へと着地した。
そして、振り返って岩の隙間越しに叫んだ。
「ここまで来られるものなら、来てみよ!!」
『ゴアアアアアアアアッ!!!』
頭に血が上りきった巨猪には、周囲の地形など何も見えていなかった。
狐を押し潰すことだけに執着し、最高速度に達した突進のまま、狭いV字の岩の隙間へと一直線に飛び込んでしまったのだ!
——ドガアアアアアアアンッ!!!!
山全体が崩壊したかと錯覚するほどの、凄まじい衝撃音が轟いた。
巨猪の先端部分が岩の隙間に突入した瞬間、左右の強固な岩盤が巨猪の胴体を強烈に締め上げた。
しかし、最高速度の突進力という自らのエネルギーが仇となる。勢いを殺しきれず、巨猪の巨大な身体は、自らの力でV字の岩の奥へ奥へと深々と打ち込まれてしまったのだ!
ズゴゴゴゴゴ……ミシミシッ!!
岩盤が悲鳴を上げ、大量の落石が舞い散る。
そして——音が止んだ。
『ゴ……ッ!? グ……ガッ……!?』
巨猪の動きが、完全に止まっていた。
見事に、完璧なまでに挟み込まれていた。
両脇の硬い岩盤が巨猪の鋼鉄の毛皮に食い込み、前にも進めず、後ろに下がるための足場も踏み込めない。四本の脚は地面から浮き上がり、空を虚しく掻くだけ。
自慢の怪力を振るおうにも、体を締め付けられて踏ん張りが効かず、力を込めることすらできないのだ。
物理的な破壊力で突破しようにも、挟まった岩盤は山そのものの基盤。どれほど暴れようと、びくともしない。
まさに、身動き一つ取れない完全なる捕縛状態。
傷ひとつつけず、攻撃を一切受けることなく、相手の突進力と暴走を利用して自力で罠に嵌まらせたのだ。
岩の向こう側から、狐がひょっこりと顔を出した。
二本の尾を優雅に揺らし、泥を払うと、身動きが取れずに目玉だけをギョロギョロと動かしている巨猪を見下ろした。
「ふぅ……やれやれ。いい汗をかいたわい」
狐はニヤリと、最高に意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうじゃ、暴走ブタ。自慢のパワーでその岩を粉砕してみせよ。……まあ、踏ん張る足場すらないお前には、指一本動かすことすら無理じゃろうがな!」
巨猪は『悔しい……』と言わんばかりに鼻から不満の蒸気を吹き出したが、もはや抵抗する術は残されていなかった。
知略と幻術の完全勝利。
神の課した「不死身の巨猪の生捕り」という不可能な試練は、今まさに達成されようとしていた。




