第六話:破られた罠と、圧倒的暴力
ズドドドドドドドドッ!!
地鳴りが山全体を揺らし、木々が悲鳴を上げてなぎ倒される。
視界を埋め尽くす土煙の向こうから迫るのは、小山ほどもある漆黒の巨躯——『剛鋼の巨猪』だ。
「ヒッ……! 速い、速すぎるぞ……っ!?」
巨木の枝の上に潜んでいた狐の肌が、恐怖で総立ちになった。
二本目の尾を得て五感が劇的に向上したことで、逆に相手の凄まじさが嫌というほど理解できてしまう。あの巨体にあの速度。計算するまでもない。かすっただけでも骨は粉々に砕け、正面から喰らえば間違いなく即死する。
「だが……いくら凄まじい突進力があろうと、猪は猪じゃ! 猪突猛進という言葉がある通り、まっすぐしか走れん頭の悪い単細胞に違いあるまい!」
狐は樹上を軽やかに跳び移りながら、思考を高速で巡らせた。
今回の勝利条件は『生捕り』。傷をつけずに身動きを封じる必要がある。
(ならば……まずは足止めじゃ! この山中の資材をかき集め、強固な罠で奴の突進を殺してやる!)
狐は速やかに行動を開始した。
強化された身体能力をフルに活用し、巨木のつる植物を何本も編み上げて太い縄を作り出す。さらに、周囲の太い丸太を何本も打ち込んで頑丈な柵を作り、その手前に深さ数メートルの落とし穴を掘り進めた。
普通のアライグマや鹿なら一発で捕縛できる、完璧な複合罠だ。
つる縄で足を引っかけて体勢を崩させ、落とし穴に落とした上で、丸太の柵で上から蓋をする。完璧な足止め計画のはずだった。
「ふはは! 出来たぞ! さあ来い、バカ猪! わしの傑作罠にかかるがいい!」
狐は落とし穴の向こう側に立ち、二本の尾を大きく振って挑発した。
「おいそこの鋼ブタ! お前の毛皮は硬いかもしれんが、頭の中身はスカスカじゃな! ここまで来られるものなら来てみよ!」
『ゴ……ルァアアアアアアッ!!!』
挑発を察知した巨猪が、真っ赤に血走った目を狐に向けた。
鼻から激しい蒸気を吹き出し、地面を前足で力強く蹴り上げる。次の瞬間、空気が破裂するような音とともに、巨猪が猛烈な加速で突進してきた!
ズシャァァァンッ!!
凄まじい風圧が狐の毛皮を押し潰す。速い! 罠を仕掛けた地点まで、ほんの数秒もかからない。
「かかったな!」
狐が心の中で叫んだ瞬間、巨猪の前脚が張り巡らされた「太いつる縄」に引っかかった。
——勝った。そう確信した狐の笑顔が、次の瞬間に凍りつく。
ブチチチチチッ!!
手応えすら無かった。
何本も編み込んで岩をも繋ぎ止められるはずのつる縄は、巨猪の突進の勢いを削ぐどころか、触れた瞬間にまるで糸くずのようにブチブチと引きちぎれて吹き飛んだのだ。
「な……なにぃっ!?」
速力は一切衰えない。そのまま巨猪の足が、狐の掘った「深さ数メートルの落とし穴」へと踏み込んだ。
ズゴォォォンッ!!
穴に落ちて身動きが取れなくなる——はずだった。
だが、巨猪の怪力と質量は、穴の壁面そのものを力任せに破砕した。穴に落ちるどころか、泥と岩を豪快に跳ね飛ばしながら、まるで平地を走るかのように穴を「踏み潰して」通過してきたのだ!
「ひえええええっ!? 罠が意味をなしておらんのじゃが!?」
そして最後に待ち受ける、太い丸太を何本も組み上げた「強固な柵」。
巨猪は避ける素振りすら見せず、頭部の巨大なキバを先頭にして直接激突した。
ドゴォォォォォンッ!!!
爆音とともに、組み上げられた丸太群が木っ端微塵に弾け飛んだ。
木の端が矢のような速度で周囲に撒き散らされ、巨木の幹に深く刺さる。柵は足止めにすらならず、ただの粉じんとなって風に舞った。
「うわああああっ!?」
直進上にいた狐は、慌てて真上へと垂直跳びした。
間一髪、自分の足元を凄まじい速度の「黒い塊」が通り抜けていく。突進の余波で発生した風圧だけで、空中へ逃げた狐の身体が駒のようにグルグルと回転させられた。
ドシーンッ! ドシンッ!
着地した狐は、泥にまみれながら震え上がった。
振り向くと、罠を破壊し尽くした巨猪は何事もなかったかのように止まり、ゆっくりと振り返っていた。鼻からフシューッと蒸気を吐き出し、狐を嘲笑うかのように前足で地を鳴らしている。
つる縄は千切れ、落とし穴は踏み荒らされて埋まり、丸太の柵は粉砕された。
狐が小一時間かけて作った渾身の罠が、たった数秒の「力押し」によって影も形もなく消し飛んだのだ。
「バ……バケモノじゃ……。なんなんじゃあいつは……!」
狐はガクガクと膝を震わせた。
第一の試練を越えて、自分は強くなったはずだった。
二本目の尾が得られ、身体能力が上がり、ちょっとした岩なら砕けるほどの妖術も使えるようになった。どこかで「今の自分なら力勝負でも少しは通用するのではないか」という思い上がりが無意識にあったのだ。
だが、目の前の怪異は次元が違った。
物理的な攻撃が一切効かない鋼鉄の毛皮。
山を崩し、地形すら書き換える圧倒的な質量と重力。
そして、あらゆる罠を力任せに破砕する理不尽な怪力。
(無理じゃ……! 『力』で挑んでも絶対に敵わん……!)
痛烈な現実が、冷や水のように狐の脳味噌を冷やした。
正面から戦えば即死。
物理的な仕掛けで縛ろうとしても、怪力で破壊されて終わり。
しかも相手を「傷つけずに生捕り」にしなければならないという、狂った制約まで課されている。
『ゴ……ルル……ッ』
巨猪が再び身構えた。
二本の巨大なキバが鈍い光を放ち、赤い瞳が明確な殺意をもって狐を捉える。
次の一撃が来れば、今度こそかわしきれずに潰される。
「くそっ……! どうする……どうすればいいんじゃ……!?」
狐の背中の二本の尾が、恐怖と焦燥で激しく逆立った。
圧倒的な暴力の前に、弱小な化け狐は再び絶望の淵へと追い詰められていた。




