第五話:神域を荒らす疾風と、鋼鉄の巨躯
光の渦が弾け、浮遊感が消え去ると同時に、鼻腔を突いたのは湿った落ち葉と冷徹な山の空気だった。
視界が明瞭を取り戻す。
そこに広がっていたのは、先ほどまでの毒々しい底なし沼とは真逆の、息をのむほど美しく、それでいて厳かな深山だった。天を突く巨木が立ち並び、澄み渡った空気が肌を心地よく撫でる。木漏れ日が黄金色の斑点となって地に落ち、どこか神聖な気配すら漂っていた。
「ここが……次の試練の地か?」
小狐は着地すると同時に、トッと軽やかに地を踏みしめた。
第一の試練を突破し、背中から生え揃った【二本目の尾】。体内には強力な妖力が満ち溢れ、大蛇の猛毒に焼かれた右足の傷は跡形もなく消え去っていた。身体は羽根のように軽く、五感は研ぎ澄まされ、数キロ先の小鳥の羽はためきすら感じ取ることができる。
「へへん、二本目の尾の力、伊達ではないぞ! これならどんな怪異が来ようとも——」
調子に乗って胸を張り、二本の尾を誇らしげに揺らしたその時だった。
『浮かれるなよ、小狐』
頭上から、静かで重厚な神の声が降ってきた。
見上げれば、巨木の枝の上に、後光を背負った神が優雅な足取りで佇んでいた。その瞳は相変わらず冷ややかだが、どこか好奇の光が混ざり込んでいる。
「神様か! どうじゃ、大蛇を化かしてやったぞ! わしの化け術の恐ろしさを思い知ったか!」
『フッ……ただの身内の潰し合いを誘発したに過ぎん。だがまあ、死にかけの小狐にしては上出来だったと言っておこう』
神は小さくクスリと笑うと、視線を深山の奥へと向けた。
『だが、次の試練はそう簡単にいくと思うなよ。今回の相手はお前の「ハッタリ」がどこまで通用するか、見ものだな』
「なんじゃと? 次の相手とはどんな奴じゃ」
『この山は、本来ならば我の加護を受けし神聖なる神域。だが今や、一頭の暴走した怪異によって荒らし尽くされておる。——名を『剛鋼の巨猪』という』
「巨猪……イノシシじゃと?」
狐は拍子抜けしたように首を傾げた。
蛇の次は猪か。先ほど退治した多頭の大蛇に比べれば、いくらか拍子抜けな響きに思えた。
『甘く見るなよ』
神の声の温度が一段下がった。
『あの猪は、神域の霊気を狂ったように喰らい続けた結果、異常な進化を遂げた。その毛皮はあらゆる鉱物よりも硬く結実し、人間の名刀も、凄絶な攻撃魔法すら掠り傷一つつけられぬ「鋼鉄の毛皮」となっておる。一度暴れ出せば神域の山々を削り取り、麓の人間の田畑を粉砕し、全てを無に帰すまで止まらん』
「刀も法術も通じぬ……? まさに『不死身』というわけか」
『そうだ。そして……今回の試練の条件は一つ』
神は狐をじっと見下ろし、細い指を一本立てた。
『あの巨猪を「殺さず、傷つけず、生捕りにすること」。これが第二の試練だ』
「な……生捕りぃぃぃっ!?」
狐は跳ね上がって叫んだ。
「正気か神様!? 殺すだけでも至難の業じゃろうに、生捕りにしろだと!? 刀も魔法も通じぬ鋼の塊を、どうやって生きて捕まえろと言うんじゃ!」
『生捕りにせねば試練達成とは認めん。あの猪は本来、神の使いとなるべき聖獣。狂気を払い、生きて捕らえてこそ価値がある。……力で圧倒できぬなら、また己の頭を絞るのだな』
「待て! せめて罠の材料くらい——」
『ではな。二本目の尾の力、存分に活かしてみせよ』
神の姿が掻き消えた。
残されたのは、梢を揺らす冷たい風と、狐の呆然とした立ち姿だけだった。
「生捕り……生捕りじゃと……」
狐は頭を抱えた。
大蛇の時は「自滅させる」という手があった。互いに噛み合わせ、毒で殺し合わせることで討伐できたのだ。だが、今回は「生捕り」だ。自滅させて死なせてしまっては試練失敗になってしまう。
傷ひとつつけられない硬度を持つ、一直線に暴走する巨体。
それを傷つけずに、完全に身動きを封じる……。
「……ハッ、考えただけで頭が痛くなってきたわい」
狐はため息をつき、二本の尾を力なく垂らした。
だが、愚痴を言っている暇はない。神の延命処置は第一の試練達成によって更新されたとはいえ、試練を無視すればいずれまた肉体が崩壊する運命なのだ。
ズシン……。
その時、遥か遠くの山奥から、地鳴りのような重低音が響いてきた。
ズシン……ズシン……ズシン……!
音が近づいてくる。ただの音ではない。山そのものが震えているのだ。
巨木がなぎ倒され、バリバリと折れ飛ぶ凄まじい破壊音が深山に響き渡る。
「来おったか……!」
狐は瞬時に近くの巨木の枝へと跳び上がった。強化された身体能力のおかげで、十メートル以上の高所へ一跳びで到達できる。
葉の隙間から山の奥を覗き込む。
そこに広がっていたのは、絶句するような光景だった。
ドガァァァンッ!!
鬱蒼と茂っていた大木たちが、まるでマッチ箱のように一瞬で粉々に砕け散り、土煙が巻き上がる。
その土煙を切り裂いて突進してきたのは、小山ほどもある漆黒の巨体だった。
全身を覆うのは、毛皮というよりも鈍い銀色の光沢を放つ鋼鉄の甲冑。
背中からは無数の鋼の針がウニのように突き出し、口からは大木を軽々と根こそぎにする巨大な二本の象牙のようなキバが生え出ている。
何より恐ろしいのは、その巨体から放たれる圧倒的な質量と速度だった。
ズドドドドドドドドッ!!
猪が一度突進すれば、そこにあった巨岩は粉々に砕け散り、地面には深々と巨大な溝が刻まれる。周囲の地形そのものが、猪の暴走によってリアルタイムで書き換えられていくのだ。
「あれが……『不死身の巨猪』……!」
狐は息を呑んだ。
あれに正面からぶつかれば、二本目の尾で強化された今の身体であっても、一瞬でペチャンコの肉餅にされるのは目に見えている。
突進する巨猪の足元を見ると、麓の村へと続く山道が崩壊し、人間の田畑が踏み荒らされているのが見えた。怯えた人間たちの悲鳴が遠くから風に乗って届く。人間たちの武器である矢や槍が猪の皮膚に命中しているが、カチン、カチンと虚しい音を立てて弾き返され、傷ひとつついていない。
「なるほどな……『刀も法術も通じぬ』というのは嘘ではなさそうじゃ」
狐は冷や汗を拭った。
生捕りにするには、まずあの凄まじい突進を止めなければならない。
しかし、物理的な攻撃は一切効かず、力押しでは立ち打ちできない。
(罠……罠を仕掛けるか? だが、あんなバケモノを止められる穴や縛り縄がこの世にあるか……?)
狐の頭の中で、次々と策が浮かんでは消えていく。
第一の試練で手に入れた「強化された身体能力」と「二本目の尾」。
しかし、相手は直線上の破壊力において間違いなく頂点に立つ怪物だ。単純な力比べでは勝ち目はない。
「生捕り……殺さず、傷つけず、捕まえる……」
狐は木の上で身を潜めながら、爆走を続ける鋼鉄の巨猪を鋭い眼光で見つめ続けた。
「ふふ……まあ良い。真っ向勝負で勝てぬのはいつものことじゃ。相手が脳筋の暴走猪なら、やりようはいくらでもあるわ!」
二本の尾を静かにゆらりと揺らし、狐は不敵な笑みを浮かべた。
神域を揺るがす疾風の怪異に対し、小狐の次なる「化かし合い」が始まろうとしていた。




