第九話:暗雲の雷鳴と、舞い散る鉄羽
豪雨が、皮膚を突き刺す針の群れとなって叩きつけていた。
ゴゴゴゴ……ズドドドォンッ!!
鼓膜を激しく揺さぶる重低音。視界を覆うのは、昼なお暗い墨色の雲と、数秒おきに暗闇を紫に染め上げる閃光の数々だった。風は渦を巻き、大木を容易くへし折りながら地上を薙ぎ払っていく。
「ぶはっ……! な、なんじゃあこの嵐は……っ!? 息すらまともにできんぞ!」
転移の衝撃から醒めた小狐は、濡れ鼠になりながら泥の中に四本足を滑らせた。
立っていることすら容易ではない超大型の台風の中だ。雨粒の一つひとつが硬い弾丸のように身体を叩き、激しい暴風が体球の小さな小狐を吹き飛ばそうと吹き荒れる。
しかし、今の狐はかつての弱小な小狐ではない。
第一、第二の試練を乗り越え、背中から生え揃った【3本目の尾】。体内に満ちる妖力は格段に濃密になり、脚力も五感も以前とは比べものにならないほど強化されている。
「ぬぅ……ッ!」
狐は三本の尾をピンと後ろに引き締め、重心を低く落として地に爪を立てた。強化された体幹のおかげで、吹き荒ぶ暴風の中でもどうにか足を固定することができた。
「ここは……どこじゃ? 山か……いや、人の里の近くか……?」
雨幕の向こう側に目を凝らす。
【3本目の尾】の恩恵により劇的に向上した視力は、嵐の暗闇を容易く透かして見せた。山裾の麓に、打ちひしがれた小さな村が見える。
家々の屋根は無残に引き裂かれ、田畑は泥海と化し、村人たちは泥に塗れながら家畜や子供を抱えて逃げ惑っていた。
だが、その村を襲っているのは、単なる大自然の荒天ではなかった。
ヒュン! ヒュヒュンッ!
空から、雨とは明らかに異なる重厚な「風切り音」が降り注いだ。
——ドスッ! ドカッ! チュドッ!!
直後、地表や家屋の屋根に深く突き刺さる「何か」。
それは、長さ数十センチはある鋭利な「鉄の羽」だった。
鈍い銀色の光沢を放つその羽は、本物の鉄器や刃物以上の硬度と重みを持ち、上空から超高速で降り注ぐことで、民家の厚い茅葺き屋根を軽々と貫通し、巨岩すらも粉々に穿ち割っていた。
「な……なんじゃあの羽は!? 空から刃物が降っておるぞ!?」
狐が驚愕して空を見上げた、その時だった。
ドグワアアアアアンッ!!
雲の隙間が激しく割れ、紫色の極大の雷光が地上へと奔った。
落雷の眩い光の中に浮かび上がったのは、上空数千メートル——雲の遥か上の高高度を旋回する、絶望的なまでに巨大な影だった。
広げた翼の長さは数十メートルを超え、全身を包むのは漆黒の鉄の羽。その胸元からは青白い稲妻が爆発的なエネルギーとなって漏れ出し、羽ばたくたびに嵐と雷雲を際限なく巻き起こしている。
『ギシャアアアアアアアアアアッ!!!』
空を裂く甲高い鳴き声。
ただの咆哮ではない。100年の間、この空に留まり続け、地上へ恐怖と絶望を撒き散らしてきた怪異の威圧——。
『見よ、小狐』
激しい雨雨の音を掻き消し、頭上からあの神聖で冷徹な声が直接脳内へと届いた。
「神様……! あの雲の上にいるバケモノが、次の試練の相手か!?」
『左様。あれこそが『雷雲の怪鳥』。100年前よりこの空に巣喰い、絶え間なく暴風と雷雲を巻き起こし、地上へ鉄の羽を降らせて数多の里を滅ぼしてきた怪異だ』
空中を見上げれば、雨粒を弾きながら後光を背負った神が、嵐の中に静かに佇んでいた。その姿には雨ひとしずく付着していない。
『第3の試練の条件はシンプルだ。あの『雷雲の怪鳥』を地上へと引きずり下ろし、撃破すること。……地上に平和を取り戻してみせよ』
「撃破じゃと……!? 無茶を言うな神様!」
狐は上空を指差し、泥を跳ね上げながら叫んだ。
「見ろ! 奴がいるのは遥か遥か上空の雲の中じゃぞ! わしは三本の尾が生えて強い妖力を手に入れたが……空を飛ぶ術などまだ持っておらん! 羽もない、翼もない! 地上にいるわしが、どうやって雲の上の大鳥を倒せと言うんじゃあぁぁっ!」
そうなのだ。
第一の試練の大蛇は「地を這う巨躯」、第二の試練の巨猪は「地を駆ける暴走」だった。どちらも地面の上に存在していたため、罠や地形、心理戦を利用する隙があった。
しかし、今回の敵は「遥か高高度の空」にいる。
どんなに強烈なパンチを持っていようと、どんなに精巧な幻影を作れようと、届かない高さにいる敵に対しては、手も足も出ない。
『空が飛べぬのなら、飛べる方法を考えるか、奴を地へと落とす術を捻り出すのだな』
神は冷たく微笑んだ。
『言ったはずだ。我が試練は突破するごとに傷を癒やし、相応の力を与えるとな。だが、頭を使わねば死ぬのみ。……あの怪鳥の降らせる鉄羽と雷撃の雨の中で、どれだけ足掻けるか見せてもらおう』
「待て神様! ヒントくらい——!」
『ではな。嵐に呑み込まれるなよ』
光とともに神の気配が霧散した。
「くそっ……! 相変わらず身勝手な神様じゃ!」
狐は吐き捨て、頭の上の雨を激しく振り払った。
だが、感傷に浸っている猶予など一秒もなかった。
ヒュヒュヒュヒュンッ!!
「ぬわっ!?」
上空から、十数本の鉄羽が音を立てて降ってきた。
狐は間一髪、二本目と三本目の尾の力で向上した跳躍力を使い、横の巨岩の陰へと飛び込んだ。
——ドスドスドスンッ!!
直後、狐がいた地面に鉄の羽が深々と突き刺さり、岩盤を豆腐のように穿ち割る。
掠っただけで二分されるほどの破壊力。これが雨のように、広範囲にわたって絶え間なく降り注いでいるのだ。
ゴゴゴォンッ! ズドォンッ!!
さらに空中から、容赦のない雷撃が落ちてくる。
怪鳥の羽ばたきによって生み出された雷雲は、絶え間なく大地を焼き払い、木々を焦がし、村の家々を炎の海へと変えていく。逃げ惑う村人たちの悲鳴が、激しい雨音に混ざって風に乗ってくる。
「……くっ」
岩の陰に身を潜めながら、狐は三本の尾を固く握り締めた。
届かない。攻撃が届かないのだ。
地上から狐火を打ち上げようとも、雲の上の高高度に達する前に風と雨に掻き消されるのは目に見えている。
幻術をかけるにしても、相手は視界の遥か上、嵐の只中にいる。こちらの存在すら認識していないかもしれない。
相手は一方的に上空から鉄の刃と落雷を降らせ、こちらは地上で惨めに逃げ回るしかない。
(どうする……どうすればええんじゃ!? 飛べぬわしが、あの空の化け物をどうやって撃ち落とせというんじゃ……!?)
嵐が荒れ狂う暗雲の空を見上げ、狐の胸に再び焦燥と絶望の影が差し込み始めていた。
100年鳴り響く災厄の雷鳥と、地上に縛られた三本尾の化け狐。
次元の異なる「高低差」という壁を前に、第3の試練の幕が切って落とされた。




