第二一話:因果の洞と、蠢く怨念
雲海を見下ろす断崖絶壁、全知の白眉仙人をお茶の悪戯で打ち破った達成感の余韻は、冷ややかな風とともに一瞬で吹き散らされた。
視界が不気味な黒紫色の靄に包まれ、次に小狐が足を踏み降ろした場所は、ねっとりとした死気と湿気が立ち込める、巨大な洞窟の入り口であった。
「ぬ……? ここはどこじゃ……?」
小狐は思わず鼻をひくつかせ、不快そうに耳を伏せた。
背中には、誇らしく輝く【6本目の尾】。毛先が銀と漆黒の斑に揺らめくその尾は、覚醒したばかりの『相手の思考や記憶を読み取る力(心読の術)』を宿し、静かに妖気を放っている。
しかし、この洞窟を満たす気配は、これまで対峙してきたどんな大妖怪や仙人とも異なっていた。
外から襲いかかってくる敵の殺気ではない。もっと不吉で、ねっとりと肌に張り付くような——自分自身の「内側」を削り取ってくるかのような陰湿な気配。
『そこまでだ、小狐』
洞窟の漆黒の奥底から、神の重厚な声が響き渡った。
姿は見えない。だが、洞窟の壁面に刻まれた無数の古代文字が、青白く不気味に発光して神の存在を示していた。
「神様か! ここはどこじゃ? 第六の試練の場か!?」
狐は六本の尾をゆらりと揺らし、身構えた。
五本の尾を得て『空間変化』を操り、六本目の尾で『心読』の力を手に入れた今の己にとって、恐れるものなど何一つないはずだった。どんな強力な怪異が相手だろうと、相手の思考を読み、ハッタリと知略で叩き潰してやる——そう自負していたのだ。
『そうだ。九つある試練の第6の試練……『因果の洞窟』へようこそ』
「因果の洞窟……?」
『小狐よ。お前はこれまで、類まれなる知略とハッタリ、そして覚醒させた妖力をもって、数々の困難を打ち破ってきた。大蛇を騙し、巨猪をハめ、雷鳥を引きずり下ろし、富豪の蔵を空にし、全知の仙人すらもお茶の悪戯で翻弄した。……だが、お前は忘れてはいないか?』
神の声が、冷たく、深く、狐の胸の奥へと刺ささる。
『お前がここへ至る道のりで積んできた……無数の『罪』と『欺瞞』、そしてお前に騙され、陥れられ、恨みを抱いて死んでいった者たちの存在を』
「な……なに……?」
狐の全身の毛皮が、ぞわリと逆立った。
『第6の試練は、戦いでもなければ、知恵比べでもない。……『自らの罪と恐怖の克服』だ』
神の言葉とともに、洞窟の奥から「ゴー……」という地鳴りのような音が響き始めた。
『この洞窟は、お前自身の内面を映し出す精神世界。これまでお前が騙し、陥れ、利用してきた人間や妖怪たちの恨みの声と、お前が心の底に押し込めてきた『過去の惨めな死の恐怖』が実体化して襲いかかる試練の場だ。……さあ、進むが良い。己の因果から逃げずに、奥底にある出口へと辿り着いてみせよ』
神の気配が霧散すると同時に、洞窟の奥の暗闇が、ドロドロとした黒い液体のように蠢き始めた。
不気味な静寂が破れる。
『……返せ……』
「……っ!?」
『返せぇぇぇ……! わしの金を……わしの財産を返せぇぇぇっ!』
暗闇の中から突き出されたのは、落ち窪んだ眼窩から血の涙を流す、富豪・金蔵の顔をした巨大な「影」だった。
続いて、洞窟の壁や天井の至るところから、ドロリとした黒い影が幾重にも湧き出し、実体を結び始めていく。
『騙したな……! よくもわしを酒で泥酔させ、急所を穿ちおったな化け狐ぇぇぇっ!』
(第一の試練で殺された大蛇の念)
『殺してやる……! 底なしの穴に叩き落とし、押し潰して殺してやるぞぉぉぉっ!』
(第二の試練で誘い込まれた巨猪の怨嗟)
『ギシャアアアアアッ! 我が翼を折り、地に落とした小畜生めぇぇぇっ!』
(第三の試練で絶叫とともに墜落した雷雲の怪鳥の狂気)
さらには、試練の敵だけではない。
狐がまだ一本の尾しか持たなかった頃、山道で化かして食べ物を奪った旅人、幻術で化かして銭を騙し取った村の百姓、そして——。
『化け物め! やっぱり狐は害獣だ! 叩き殺せ!』
『死ね! 山へ帰れ! 害虫めが!』
狐が幼い頃、人間に追われ、石を投げつけられ、必死に逃げ惑っていた頃の「人間たちの殺意と憎悪の声」までもが、不気味な残響となって洞窟全体に嵐のように吹き荒れ始めたのだ!
——ズズズズズ……ッ!
黒い影たちは互いに溶け合い、蠢き、巨大な「因果の怪物(うごめく影の群れ)」へと姿を変えていく。
それらはすべて、狐自身がこれまで積み重ねてきた「罪」と、心の奥底に封印していた「人間の殺意への恐怖」が実体化したものだった。
「ひ……ひぃっ……!?」
狐は思わず二、三歩、後ずさりした。
【6本目の尾】の『心読の術』が、最悪な形で裏目に出た。
周囲を取り囲む影たちの頭の中から湧き出る、過剰なまでの「憎悪」「殺意」「怨念」「恐怖」の思考が、津波となって狐の脳内に直接流れ込んできたのだ!
『死ね!』『苦しめ!』『お前がしたことの報いを受けろ!』『またあの頃のように叩き殺されて泥に転がれ!』
「うあぁぁぁぁぁっ……! 頭が……頭が割れるようじゃあぁぁぁっ!」
狐は頭を前足で抱え込み、地べたにのたうち回った。
外からの物理的な攻撃ならば、風や雷の妖術で撃ち払える。
空間を曲げ、幻術で見破ることもできる。
しかし、この敵は「自分自身の過去と罪」そのものなのだ。
どれほど妖力を高めようと、自分自身の因果から逃れる術など存在しない。
『逃がさんぞ……化け狐ぇ……!』
『お前の『化かし』など、すべて罪の上塗りだ……!』
巨大な影の手手が、不気味な地鳴りを立てながら、のたうち回る小狐に向かってゆっくりと伸ばされていく。
黒い影の指先が触れた瞬間、狐の毛皮がジワリと腐食し、体内の妖力が黒い怨念によって汚染され始めていった。
「やめ……やめてくれぇっ! わしは……わしはただ、生きたかっただけじゃ……! 強くなりたかっただけなんじゃあぁぁっ!」
己の過去の恐怖と、騙してきた者たちの凄惨な恨みの声に押し潰されそうになりながら、六本尾の化け狐は、暗く湿った因果の洞窟の底で、惨めに悲鳴を上げ続けるのだった。




